序節 天啓――冷静の仮面の裏で
【15:40】
「じゃあ、どうしろっていうのよ……ミュズ……」
昼下がりの執務室の空気は、緩やかな静けさに満ちている。
だが、如月だけはその場の誰とも違う、孤絶した世界に立ち尽くしていた。
ミューズの必死な制止が、現実の身体を辛うじて引き留める。
けれど、心だけは、前へ進もうとしていた。
(もう、他に手がない。どうすればいいの……)
引き裂かれそうな自分の中で、心が今まさに決壊しかけている。
拳を握りしめ、ただ立ち尽くす。
立っているのか、倒れそうなのかも、分からない。
呼吸は浅く、視界は涙で霞んでいた。
岡田審議官が、何気なく歩み去る背中が、視界の端に映る。
――その時だった。
(胸の奥で、何かが閃いた)
――天啓。
瞬間、全身の血が脈打ち、《気づき》ではなく、雷鳴のような《衝撃》が如月を突き動かす。
もう理屈ではなかった。
迷いも逡巡も、一瞬で吹き飛んだ。
無意識のまま、身体が動く。
椅子を蹴る音が、静かな室内に鋭く響く。
倒れそうな足取りで、否、縋るような勢いで。
如月は、岡田を追って、審議官室へ駆け出す。
ノックも、呼吸を整えることも、すべて頭から抜け落ちていた。
ただ、《天啓》に、すがるために。
彼女は半ば転がり込むように、執務室のドアを押し開けた。
*
【15:41】
金曜日。
日本政府の司令塔は、連続する会議と事務の奔流に呑み込まれていた。
岡田も例外ではなかった。
早朝にWHOの会見を横目で流し見してから、朝から会議、会議、また会議。
気が付けば、自室に戻るのも久しぶりだった。
彼の意識は、常に《昨日の報告書》の残響を引きずっていた。
燻る危機感は消えない。
しかし、その焦燥は他の優先業務のノイズに埋もれていく。
思えば、その程度の《余裕》を、自ら許していたのかもしれない。
「岡田審議官……!」
如月遥の絞り出すような声。
その瞳は、《涙》で赤く滲んでいる。
「もう、どこにも道がないんです……!」
「公式も非公式も、考えうるルートは全て調べ尽くしました。それでも《証拠》が……どうしても、どうしても見つからないんです」
「どうか、助けてください……!」
やつれ果て、涙を浮かべ、叫ぶ。
こんな如月の姿を、岡田は一度も見たことがなかった。
――胸がざわついた。
それは、本能的な警鐘。
論理を超えた直感。
彼女の姿が、現実を叩き割った気がした。
*
俺は、何か、とんでもないものを、見落としたのではないか。
理由など、聞くまでもない。
昨日の報告書だ。
俺は「証拠が足りない」と突き返した。
だから、彼女は動き続けたのだ
しかし、何故、彼女はここまで必死になる?
俺自身も、危機感がなかったわけじゃない。
だが……優先度を誤ったか。
もっと早くに動くべきだったのか。
*
岡田は、その胸のざわつきを押さえつけるように、審議官としての仮面を付けなおす。
努めて冷静な彼の声が空間に返る。
「落ち着きたまえ、如月君。君らしくもない」
一瞬にして、日常の上司と部下の構図が再現される。
だが、その声は僅かに震えていた。
岡田は、ゆっくりと椅子に座り、真正面から如月を見据えた。
「昨日の話の続きを、聞こうじゃないか」
――この瞬間からだった。
自分でも気づかぬうちに、岡田は本気で、事態の本質と向き合い始めていた。