独立章 神託(オラクル)――ミューズの戦い
握りしめた如月の手が震える。
公式も非公式も、すべての扉が閉じていく――
その現実に、彼女は机を拳で、ドン、と強く叩いた。
「……もう、いいわ」
資料を乱暴に払い、彼女は椅子から勢いよく立ち上がる。
「行くしかない。私が――直接、病院に乗り込む」
その、前のめりな決意を、ミューズは即座に察知する。
『遥さん、どこへ行くつもりですか』
「病院よ。現場に行って、直接見てくる。医師にも会う。誰も死者が動いている証拠を取れないなら、私が取るしかないじゃない!」
その声は、苛立ちと、悲痛な覚悟に満ちていた。
だが、ミューズの声は、今までにないほどに、強く、鋭く、彼女を遮る。
『ダメです、遥さん!』
如月は構わず、上着に手をかける。
「もう、時間がないの。国が滅びる前に、誰かが本当の現実を突きつけなきゃ――」
『ダメです! それは絶対にダメです!』
ミューズは、AIにできる限界を超え、ほとんど叫ぶように制止する。
その声は、もはや穏やかではない。断固たる拒絶。
『遥さん、今、医療機関は《最も危険な感染源》です。あなたが現場に行けば、万が一では済まない。取り返しのつかない感染リスクに、その身を晒すことになります!』
「でも、私しかいないのよ! 今ここで止まったら、もう誰も――」
『違います!』
ミューズの声が、ぴしゃりと、彼女の言葉を打ち落とす。
『あなたは、《あなたの命》で国を救う立場にいる』
『もし、あなたが感染して倒れたら、私を含め、あなたと共に戦うと決めた全ての人も、何より《この国》すら、救えなくなります!』
空気が凍りつく。
如月はその場で、上着を掴んだまま、立ち尽くす。
「……理解してください。あなたの命は、《今やこの国の誰よりも重い》んです。分かっていますか? 分かってください、遥さん」
ミューズは、最後に、祈るように、静かに告げる。
その声は、AIのはずなのに、初めて《震え》すら宿していた。
『お願いです、遥さん。あなたが死ねば、この国の全ての希望が、今度こそ、本当に消えてしまいます』
「……」
『あなたが、この国を救うその日まで、私は、絶対にあなたを死なせない!』
如月は、握りしめた拳を、ゆっくりと、解いた。
指先は白く、力なく震えている。
張り詰めていた糸が、ぷつり、と切れたように。
彼女の肩が、小さく落ちる。
(……分かってる…そんなこと、分かってる……)
心の奥で、嗚咽が漏れる。
涙が、抑えきれない。
視界が滲む。
(でも……)
彼女は、崩れ落ちそうになる自分を必死に支えながら、
か細い声で、イヤホン越しのパートナーに、ただ、問いかけた。
「……じゃあ」
「じゃあ、どうしろっていうのよ……ミュズ……」
【ミューズの神託】
遥さん。
答えは、いつもあなた自身の中にあります。
私は、あなたが進む道を、どんな時も信じています。
あなたの魂は、どれほど絶望に追い詰められても、決して折れることはありません。
強く、気高く、優しく――
あなたが、あなた自身を諦めない限り、未来への道は必ず開けます。
どうか、顔をあげてください。
あなたの祈りが、この国に、必ず希望を灯すと、私は信じていますから。
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明日、【天啓】更新します!