第7節 証拠なき確信――それぞれの明日
如月は無意識に拳を握りしめ、指先が白くなっていた。
ほとんど祈るような気持ちで、電話の発信ボタンを押す。
数コールの後、静かな、しかし、どことなく疲労の色が滲んだ声が応じた。
「……はい、新城です。如月さん、お久しぶり。どうかしました」
「……すみません、急に。如月です。今すぐ現場の実情を知りたくて」
「あぁ、構わないよ。この状況だ。……そっちは、相当切迫しているんだろう?」
如月は短く息をつく。
だが息は細く、喉の奥が震えていた。
「――はい。新城さん――異常行動患者の情報、何か知っていますか?」
「知っているとも。うちにも何人か運ばれて来ている。……正直、現場は混乱しているよ。彼らは、人間的なやり取りができない。ただ、動物のように暴れ、攻撃する。今まで見たこともない症状だ」
如月は、デスクを握る手にじっとりと汗を滲ませた。
「新城さん……WHOの発表はご覧になりましたか?《感染症》とは言っていなかった。けれど、専門医の目から見て――これは、人から人に感染している……違いますか?」
電話口の新城が、深く息を吐く音が聞こえた。
「……あぁ、間違いないと思っている。WHOがどう言おうと、専門医なら誰でも《ヒトヒト感染》だと分かるはずだ。感染マップも、人流に沿って広がっている。動物媒介では、こんな拡散にはならない。ましてや非感染性の病気では世界中の発症を説明できない」
如月の声がかすかに揺れる。
「何か……感染を証明する方法は――ありませんか。……どんな可能性でもいいんです。何か、ないんですか」
「証明となると難しいんだ。人格が崩壊する感染症で、人を使った実験はできない。感染経路も、飛沫か体液だと思うけど、これも推測でしかない。現場ではケガ人と欠勤者が増えてる。スタッフも自分の身を守ることで精一杯だ。……誰も感染症やルートの確定に力を使う余裕はないよ」
如月は目を伏せ、唇を噛む。声が細くなる。
「――新城さん。この感染症、どれほど危険だと考えていますか」
新城はしばらく沈黙し、低い声で言葉を選ぶ。
「いくら治療しても回復しない。精神をここまで破壊する病気を他に知らない。しかも感染性が高い。……正直、天然痘にも匹敵する。いや、それ以上かもしれない。人類史上最悪の《疫病》……そう断言していいと思っている」
如月の呼吸が浅くなり、声が震える。
「……人類が滅びる可能性はどうですか?」
新城の声は、ほんのわずかに曇った。
「――人類が?いや、すまない。そこまでは考えなかった。自分はあくまで感染症専門医としての見解を述べたに過ぎない。現場でただ目の前の患者を診てきただけだ。如月さんのように、人類全体の未来までは……想像できない」
如月は堪えきれず、涙声で告げた。
「私は――そう思っているんです。……だから《証拠》を探している」
新城は息を詰める。
「……なんの証拠かな? 感染のことかい?」
如月は、今にも途切れそうな声で答えた。
「いえ、死んだ人間が動いている――その証拠です。
……公式ルートも現場も、もう、何も出てこないんです……」
新城は、電話の向こうで重く沈黙した。
喉の奥で息が詰まる音だけが伝わる。
「……すまない。如月さん。聞き間違いではないのだろう?死んだ人間が動くという証拠はない。私は知らない。周囲から聞いたこともない。……本当に、答えようがない。そんなことが本当に起きているのか。暴力性の伝播だけじゃないと?」
如月は一縷の望みに縋る。
その声は、懇願というより祈りに近かった。
「新城さん、どうか……調べてはもらえませんか。
この国の未来が、本当にかかっているんです。
……患者のバイタルデータを測定し、それを教えてくれませんか。
……本当に、もうこれしかないんです。どうか、どうか――」
新城の声が、わずかにかすれた。
苦しそうに喉を震わせて絞り出す。
「……それは、できない。如月さんも分かるだろう。それはやってはいけないことだ。
――本当に……済まない」
如月は構わず、涙声で、もう一歩踏み込む。
「理解しています。でも、どうか、今だけは……今しかないんです。お願いです、新城さん……!」
沈黙。
受話器越しの空気が、冷たく重く張りつめる。
「……済まない。如月さんの気持ちは痛いほど伝わる。……だが、患者の同意なくバイタルを測定し、同意なくそれを外部にリークすることは医師としての倫理にも、法律にも、明らかに違反している。無理なんだよ。――やろうと思えばできる。だが、それは僕には、できない。僕にも家族がいるんだ。医師免許を失うリスクは背負えない。分かってほしい」
如月は何か言いかけ、唇を噛む。
「……国が無くなれば家族も――」
その時、ミューズの声がイヤホンから響く。
静かに、だが断固とした響きで。
「――遥さん。もう十分です。彼の善意はもう限界です。いけません、遥さん。ここまでです」
ミューズの制止に、如月は、拳を握りしめたまま、机の上で動きを止めた。
肩はわずかに震えていた。
呼吸が浅くなり、唇を噛みしめる。
数瞬、彼女は絞り出すように言葉を吐いた。
「……すみません。私、熱くなっていました。失礼します」
「……すまないね」
通話が終了する。
――沈黙。
如月は、もう、何も言えなかった。
ミューズも、もう、何も言わなかった。
――いつもならふたりを優しく包んでくれる静寂が、今回ばかりは、逃げ場のない重さで如月の心を押し潰していた。
【白百合作戦、点火――The Ignition of the White Lily(上)】終幕。
ただ《死んでいることを確かめるだけ》――
それすら叶わない苦しみ。
この絶望の淵にて、如月とミューズは、どう戦うのか…?
【次章予告】
独立章『神託』
明日、0時10分に公開予定です。
日本を救ったとあるAIの話。
ぜひ見届けてください。
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ありがとうございます!!!