第6節 そこにある証拠――蜃気楼
【11:44 官邸】
昼休み直前、フロアには弛緩した空気が漂い始めている。
しかし、如月だけは、その渦にまったく呑まれていない。
ドアを開け放つなり、ほとんど駆け足で執務室に入り込む。
如月の背中には、防衛省で掴んだわずかな現場の善意が、細い灯火のように残っていた。
だが、制度の壁の分厚さは痛いほど理解している。
(――もう、この道しかない)
明らかになったのは、どこにも《近道》など存在しないという現実。
たった一つ、トップダウンの決断を引き出すための、か細いルートだけが、かろうじて自分の前に残されている――
それだけが、唯一の道。
この困難でか細い突破口しか、残されていない。
如月は、すでに覚悟を決めていた。
デスクにかじりつくように椅子に座る。
如月の激しい動きに、周囲の職員たちがそっと視線を送った。
彼女の切迫した表情に、同僚たちは《ただ事ではない》と気付いているが、到底話しかけられる雰囲気ではない。
如月自身、周囲の視線など全く意識の外だった。
「ミュズ、確認。《死者が動いている》。これが壁を吹き飛ばす爆弾――そうよね?」
イヤホンから、ミューズの柔らかな声が静かに返る。
「――はい、遥さん。今、制度を動かすための《鍵》は、死者が生き返るという現象の、動かしようのない証拠だけです」
「よし。まず最初は官公庁データベースから当たりましょう。『死後も動く』『死亡確認後の行動』『暴徒 死亡』『検死 矛盾』――該当するもの、何でも構わない。省庁間の情報連携システム、厚労省、警察庁、内閣府――全部、一括で横断検索して」
「――了解しました。検索ワードを設定し、該当報告を探します。優先度順にスクリーニングをかけます」
如月も自分のPCを開き、指先が無意識にキーボードを叩く。
厚労省の事故・死亡報告、警察庁の異常行動記録、災害時報告、全てのフォーマットを《死後活動》の観点で見直していく。
――画面には延々と検索ワードのログが流れる。
「……ミュズ、キーワードの組み合わせも変えて」
自分でも次々に思いつく限りの単語を口にする。
「『死後活動』 『心肺停止後 動き出す』 『検死報告 異常行動』 『拘束後死亡』 『蘇生』……
少しでも引っかかるものは全部、洗い出して。可能性だけでも構わないわ」
ミューズが即座に応じる。
「了解しました、遥さん。キーワード組み合わせパターンを生成、順次検索を展開します」
「関連分野として『意識回復』『急変後 異常行動』も網羅します」
「もし見落としがありましたら、随時追加してください」
如月はさらに短く指示を重ねる。
「抽出範囲は最大限広く。あやふやな症例でもいい。少しでも手がかりになりそうなものは、すべてチェックして」
ミューズの声が、静かに、しかし確実な熱を帯びて返る。
「任せてください。全自動検索を並列実行、毎分ごとに進捗を共有します」
如月は無意識に爪を立てるようにキーボードを叩きながら、画面にかじりつく。
わずかな希望でも、絶対に逃さない――
いま彼女のデスクだけ、職場の空気から切り離された、異常なまでの集中と執念に満ちていた。
彼女の息は浅く、眉間に深く皺が寄っている。
ランチの空気が漂う執務室で、ただ一人、如月だけが別世界にいる――そんな張り詰めた気配。
ミューズは、如月の緊張をほぐすため、柔らかな声で伝える。
「――遥さん、これだけ多角的に検索すれば、もし《記録された異常》が存在すれば、必ず見つかります。一つ一つ、チェックを続けます。焦らず、一緒にやりましょう」
「……ありがとう、ミュズ」
如月は、まだ冷静だった。
だが、その指先には焦燥と決意が同居していた――
ミューズと共に、無心で、官庁データベースで検索を繰り返す。
だが、どれだけ検索ワードを変えても、「死亡後活動報告」は一件もヒットしない。
結果は「該当ゼロ」――。
時間だけが、音もなく削られていく。
ランチから戻った同僚たちが、当たり前のように席に着き、仕事を再開する。その気配が背中越しに伝わるたび、焦りと孤独が心に重くのしかかる。
自分だけが、別の戦場にいる。
周囲の世界が緩やかに《日常》へ戻っていく一方で、自分の世界だけは、張り詰めたまま動かない。
報告書を開いても、書かれているのはせいぜい《搬送》や《異常行動》の概要だけ。
肝心の医療バイタル情報は、どれも非公開。
厚生労働省の管理下で、分析官の権限ではアクセスすら許されていない。
(――この壁が崩れない限り、何も変えられない)
「――ミュズ、進捗は?」
「……該当する公式記録は、いまだ確認できません。遥さん」
静かな返答に、如月の胸に苛立ちと焦燥が募る。
(こんなに――壁が厚いなんて)
【13:34】
息苦しさを押し殺し、次の手段へと目を向ける――。
PCの画面を睨みながら、如月はミュズに問いかける。
「……ミュズ、私の権限で、なんとか厚労省から情報を引き出すルート、ないかな?」
イヤホン越しに静かな声が返る。
「遥さん、厚生労働省は内閣危機管理局とは所管が異なります。あなたには《命令権》も《要請権》もありません。ただし、情報が集約されている部署に《照会》することは可能です。」
「……分かった。厚労省の感染症危機管理班に電話をかけて」
数秒のコール音のあと、淡々とした声が応答する。
「はい、厚生労働省感染症危機管理班・今村です」
如月はできる限り冷静に、だが直球で切り出す。
「内閣危機管理局の如月です。今、都内で報告されている異常行動症例の中で、《死亡確認後の再活動》があった事例について、公式記録上の有無をご確認いただけませんか?」
電話の向こう、今村の息が一瞬止まるのが分かった。
「……失礼ですが、死亡確認後の再活動――というのは、つまり死者が動いたという意味でしょうか?」
如月は、かすかに喉が渇くのを感じながら、ためらわず肯定する。
「はい。公式な医療記録、または現場報告で、そのような例が一件でもあれば、ご教示ください」
今村は明らかに動揺しつつも、事務的に立て直す。
「はぁ……申し訳ありませんが、現時点で公式にそのような事例は把握していません」
如月は、手の内で滑る端末を掴みなおし、なおも食い下がった。
「では、搬送時のバイタルデータや、検死後の活動記録、そうした詳細データは――」
今村の声は、僅かに硬さと警戒を帯びていく。
「個別のデータについては、個人情報保護の観点から一切外部にはお答えできかねます。それに、死亡確認後の再活動という表現は、公式な医学用語として存在しませんので――」
一瞬、如月の胸が締めつけられる。
(公式用語にない、そう言われたら、それまでだ――)
「現場の医師等へのヒアリングは?」
今村は困惑しつつも、淡々と事務的に返す。
「公式に異常と認定された場合は、厚生労働省として取りまとめのうえ、関係機関――警察庁、内閣官房へも情報を共有いたします。ですが、現時点では、その段階には至っておりません」
喉の奥に熱いものが溜まり、息苦しさが増していく。
如月は堪えきれず、声をわずかに震わせた。
「それでは間に合いません!今、目の前で死んだはずの人間が動いている可能性があるんです。現場から一件も報告が上がらないのは、なぜですか? 担当医師や救急現場で、明らかな異常が観測されていないのですか?」
今村は、慎重に言葉を選び直す。
「……ご要望の趣旨は理解いたしました。ただ、医療現場でも混乱が続いておりまして、詳細な情報はまだ集約されておりません。搬送された患者についても、各病院の判断・報告に委ねられている状況です」
電話越しに伝わる、分厚い壁の感触。
そのやりとりを横で聞いていたミューズが、静かに補足する。
「……遥さん。担当者も事実を把握できていないようです。現場の混乱と情報の断絶、官庁の限界が、はっきりと表に出ています」
如月は、苛立ちと絶望を押し殺しながら、浅く速い呼吸を繰り返す。
握った拳にじわりと汗がにじむ。
胸の奥に、まだ言葉にできない焦りと怒りが、ぐらりと揺れ始めていた。
(ダメだ……。厚労省ルートは、完全に閉ざされた――)
彼女の心拍は、ますます速く、高く跳ねていた。
【13:50】
――次の一手を、絶対に、探さなければ。
「……もう、公式ルートでは足りない」
如月は端末に、次々と都内の大病院、政府系医療センターの代表電話に番号を打ち込んでいく。
「失礼します。内閣危機管理局の如月と申します。緊急案件でお伺いしたいのですが、先日搬送された異常行動患者の中で、死亡確認後に再び動き出した――そうした症例が記録として残っていませんか?」
受話器の向こうで、応対した職員は困惑した声を返してくる。
「死んだあと動くというのは、どういう……?今も暴れている患者は生きている扱いですが……」
「申し訳ありませんが、個人情報のためお答えできません」
「測定していないので分かりません」
「大変恐縮ですが、業務が立て込んでおりますので――失礼します」
一度、二度、三度。
どの病院も似たような答えばかり。
「死亡確認後の活動」という概念自体が、そもそも現場の記録にも、医療スタッフの会話にも存在していない。
死者が動くという現象自体、公式な言語の外に押しやられ、問いそのものが虚空に吸い込まれていく。
現場照会という、最も正攻法のルートが、最後には「個人情報」「未測定」「前例なし」という分厚い壁で、完全にシャットアウトされていく。
如月は、それでも電話を手放さない。
だが、その手は確かに震え始めていた。
何度目かの応答に、つい語気が荒くなる。
「患者のバイタルデータ――心拍や呼吸の有無、そういった記録は一切ないのですか?」
「……繰り返しになりますが、測定していませんので分かりかねます。申し訳ありません」
「では、測定してもらうことは……」
「それはできません。暴れる患者への不要な接触は危険ですし、現場の判断で対応しています」
(壁だ……完全な袋小路……)
デスクの上には、走り書きのメモ、手帳、開きっぱなしの資料が散乱していた。
そのどれにも、《核心》がひとつもない。
(生きているのか、死んでいるのか――たったそれだけのことすら、分からない)
喉がカラカラに乾き、手汗で端末がじっとりと湿る。
胸がつかえ、次第に指先まで痺れるような感覚が襲う。
(……どうすれば……)
ふと、頭の奥底に、かすかな記憶が浮かび上がる。
感染症シミュレーションで何度も意見交換した、あの現場主義の医師――
彼なら、何か知っているかもしれない。
「……ミュズ、電話番号を調べて。感染シミュレーション設計をしたときにお世話になった、確か……新城先生! 記録、あるはず」
ミューズが静かに応じる。
「はい、遥さん。すぐに番号を検索します」
如月は、まだ諦めてはいなかった。
心臓の高鳴りを感じながら、最後の糸をたぐり寄せるように、もう一度、電話を握り直した――
【15:05 あと8時間45分……】