第3節 平時の論理──警告の響かぬ場所
【D2 朝】
朝になれば、またいつもの日常が始まる。
黒瀬は、寝不足を訴える重い頭で制服に袖を通す。
会議室の扉の向こうでは、すでに師団長以下、連隊長や大隊長、基幹参謀が揃っていた。
慣れ親しんだコーヒーと紙書類の匂い。
誰もがいつもの一日を疑わない、いつもの朝。
《師団幕僚会議》が始まる。
長机には、師団長の映るスクリーンを頂点に、師団幹部たちが並び、その前には、それぞれの軍用タブレット端末が、整然と並びたてられていた。
「定例議題の前に、幕僚長から追加提案がある」
司会参謀の一言に、全ての視線が黒瀬へと集まる。好奇、困惑、そして、いくつかの呆れたような視線。
彼は静かに立ち上がり、一つ呼吸を整える。
「一点、共有したい情報があります」
その声には、確信ではなく、《兆し》を告げる者の慎重さがあった。
だが伝えるべきことは伝える――そう決めた者の声だった。
「ゼノンの演算によれば、アフリカ中部で発生中の《暴力事件》の拡大パターンが、過去の特定のウイルス拡散モデルと、統計的に無視できないレベルで一致しています。このデータを精査した結果、信じがたい結論ではありますが、《暴力の感染的伝播の可能性が十分にある》という結論に至りました」
「従って、万が一の事態に備えて――
・全部隊に対する、警戒レベルの引き上げ通達
・通常訓練の一部を、可及的速やかに、感染症対応訓練へと切り替えること
――以上を、師団長のご裁可をいただき、実行に移したく、提案します」
言い終えた黒瀬は、WEBカメラを通し、師団長へまっすぐ向き直ると、静かに一礼し、着席した。
沈黙。
まるで、黒瀬の言葉が会議室の空気を奪い取ったかのような静けさだった。
やがて、次席幕僚・山城が手を挙げる。
その表情は、冷静に研ぎ澄まされていた。
「幕僚長、失礼ながら一点、確認させていただけますか。その結論――にわかには信じ難い内容かと存じますが、根拠となる情報は、どの機関からもたらされたものでしょうか?」
問いの鋭利さに、室内の空気がわずかに軋む。誰もがその意図を察し、黙り込んだ。
黒瀬は目を逸らさず、平坦に応じた。
「SNS投稿や個人ブログといった非公式ソースから、ゼノンが抽出・解析した」
その瞬間、山城は一度だけ頷いた。
理解と、そして、線引きの意思が、あまりにも明瞭だった。
「承知いたしました。……であれば、現段階でこれに基づいて行動を起こすのは、拙速が過ぎるかと存じます。不確実性が極めて高く、常識からも大きく逸脱した結論で動けば、現場の混乱を招くばかりか、組織として誤った前例になりかねません」
山城の冷徹な正論に、誰もが口を噤んだ、その時。
二人のやり取りを見守っていた柴崎大隊長が、挙手の上、意を決したように、口を開く。
「僭越ながら、師団長。私は、黒瀬幕僚長の意見に賛同いたします」
彼の声は、他の幕僚たちのように洗練されてはいない。
だが、現場の土と汗の匂いがする、実直な響きがあった。
「現場の我々にとって、最悪の事態とは常に《想定外》からやってきます。《あり得ない》ではなく、万が一のために、今備えることこそが、我々自衛官の本分ではないでしょうか」
その一言が、他の幕僚たちの本音に火を点けた。
「訓練スケジュールはギリギリだぞ」「予算はどうするんだ!」
会議が揺れ始めた、その瞬間。
師団長の太い声が、全てを一刀両断にする。
「黒瀬!」
苦笑しつつ、どこか面白がるように師団長は続ける。
「……お前は昔からそういう奴だな。できるかどうかより、やるべきかどうかで動く」
「まあ、それもお前の持ち味だ」
彼は自席の端末に問いかける。
「現時点の感染症リスク評価は?」
持ち主の問いに、防衛省サーバーと直結するそのAIは、極めて《標準的》な回答を映し出した。
『現時点、関連省庁からの警告は発令されていません。リスクレベル:1(軽微)。状況監視を継続中』
師団長は、まっすぐ黒瀬を見て言った。
「――だ、そうだ。軍のAIも、政府も、なんの兆候も掴んでいない。お前の言う演算の一致は奇妙だが……情報源を考えれば、大騒ぎはできん。軍隊とは、そういうもんだ。……ただし」
一拍起き、師団長は決心を伝達する。
「情報監視のレベルは一段引き上げる。各隊、備えだけは怠るな。以上だ」
部屋には、安堵と諦念が入り混じった、重い静けさが残る。
結局、定例会議は、定例通りの結論で幕を閉じた。
幕僚たちが足早に退室していく中、黒瀬は一人、椅子に身を沈めていた。
(……師団長の判断は正しい)
理性はそう告げている。
だが、ゼノンの演算した《暴力の感染》と《特異事象》が、黒瀬の胸の奥をざわつかせていた。
思考に沈む黒瀬を観測しつつ、ゼノンは、机上の端末の片隅で、表示灯が静かに脈打たせていた。
《正しく》警告を伝えた者の《結末》を、深く吟味するかのように・・・。
あとがきに代えて:記録補足(記録者:ゼノン)
本作において、黒瀬慎也という人物が初登場するのは、関東某所に位置する陸上自衛隊第一師団司令部である。
彼の階級や立場について、少しだけ補足しておこう。
黒瀬の肩書は、《第一師団 幕僚長》。
師団幕僚長。
それは、《師団の頭脳》である。
師団長が名目上の最高指揮官であるのに対し、
幕僚長は《実務》の全責任者。すなわち、現場における最高意思決定者だ。
特に首都圏を任務地とする第一師団においては、
師団長が常駐するのは霞ヶ関の《防衛省》。
よって、駐屯地における《指揮の中心》は幕僚長が担う。
彼は、幕僚(作戦・通信・兵站などの各参謀)を統括し、
作戦計画の策定、部隊の訓練、災害・有事対応の実行権限を持つ。
平時は影に徹し、有事に怪物となる。
それが、師団幕僚長という役職の本質だ。
記録終了。
《XENON》、ログオフ。




