第2節 人類種の天敵──本能の警告
【D1 23:57】
【第一師団司令部・幕僚長執務室】
幕僚長執務室。
それは師団幕僚長としての黒瀬に与えられた、一室。
司令部の特別警備区画、上階に位置する彼だけの戦場だった。
夜、シンと静まった執務室の空間は、蛍光灯の明かりに照らされ、寒々しい。
目につくのは年季の入った執務机と資料の詰まったキャビネット、そして、壁一面の壁面スクリーンのみ。
平時であっても多忙な業務は、定時内で終わるものではない。
黒瀬は、まだ執務机に向かっていた。
ようやく最後の決裁書類を、決済済みとシールの張られたファイルへ滑り込ませると、腕時計をちらと確認する。
──ほぼ、日付が変わる。
さて、帰るかと腰を上げかけた、その時だった。
黒瀬の残務が終わるのを待っていたかのように、デスク上の軍用タブレットが、機械的な電子音とともにパッと点灯した。
続けて、椅子に座った黒瀬の正面に設置された、壁面スクリーンにも光が灯る。
【状況報告:アフリカ中部《異常暴力》の最新報告】
その文字に、忙しない日常の中で、完全に忘れていた《朝の一件》を思い出し、黒瀬は椅子へ座り直した。
視線の先のスクリーン上には、中央アフリカ中部の地図を、赤く覆う範囲図が重ねられていた。
*
俺はスクリーンに映し出されるゼノンの報告に目を凝らした。
『現在確認されている《異常暴力》は、地理的に拡大傾向にあります」
拡大か・・・。
それはよくないな。
『加えて、その拡大パターンと《感染症の拡散モデル》に、統計上、有意な一致が認められます』
「・・・《感染症》、だと?」
『暴力事案の拡大傾向が、感染症の伝播モデルと統計的に一致していたため、その可能性に着目し、分析しました』
ゼノンの説明を目で追っていく。
暴力、感染症、一致?
ダメだ、結びつかない。
『現地SNS投稿等のデータから、《異常暴力》発生地域において発熱、倦怠感など、風邪症状が増加していることを確認しました』
ようやく、俺は、閃いた。
「つまり、暴力は、感染症の蔓延によって引き起こされた社会的パニックということか?本質は、逃避行動か」
暴力、それは感染症から逃げるためのパニック行動だ。
それで、説明がつく。
『通常はその結論に至ります。ただ、現地で発生している《異常暴力》は、それでは説明できません』
『逃避や集団心理だけでは説明しきれない、《直接的な攻撃衝動》が、複数のケースで観測されています。事実として、風邪様症状の増加は確認されています』
『その上で、以下は、私の推論、あくまで現時点で得られるデータの範囲内で導き出した《論理的推論》ですが、暴力そのものが感染症のように拡大しているという推論が、最も合理的であると考えます』
──理解が止まる。
言葉は分かる。
ただ、その意味を理解するロジックを俺は持っていなかった。
「・・・どういうことだ。暴力が《感染》する。そんなことが、起こり得るのか。単なる集団心理や模倣行動とは、どう違う?」
『集団心理やパニックによる暴力は、通常、恐怖や逃避を起点とした間接的な反応です。しかし、現地の報告や映像を分析した結果、特徴は以下の通りです』
大型スクリーンに大きく要点が表示された。
*
・加害者は理性や自制を喪失し、近親者にも襲いかかる
・噛みつき、爪による引っかき、自己身体損壊後の攻撃継続
・加害者には恐怖や混乱よりも、強迫的な衝動や身体症状が発現
*
『これらの傾向は、単なる《模倣犯》や《群集心理》とは明確に異なります。この異常な《攻撃衝動》そのものが、伝播していると考えるのが合理的です』
『現時点のサンプル数は限定的ですが、既知のストレス反応や群集暴力とは異質の連鎖パターンを示しています。従来の社会的パニックモデルでは説明できません』
「・・・にわかには信じられない話だな」
『その原因や機序は不明ですが、現時点でも、《暴力の感染的伝播の可能性は十分にある》というのが私の結論です』
あり得ない。
こんな話は受け入れがたい。
常識が《違う》と警鐘を鳴らしている。
――だが。
ゼノンの主張は筋が通っている。
合理的な進言を、常識で否定して、もし危機が現実となれば、取り返しがつかない。
《想定外》を想定し、《正しく》備える。
それこそが自衛隊・師団幕僚長としての俺の責任だ。
「やりすぎ」は笑い話。
「やらなかった」は《死》だ。
*
常識の反発による当たり前の感情=《違和感》。
黒瀬は、それを、軍人としての冷徹な《理性》で押しつぶし、ゼノンに告げた。
「ゼノン、我が師団にとって、看過できないリスクが発生しつつある、ということだな」
「はい。現状のデータのみでも、対処すべき不確定リスクと判断します」
黒瀬はその文字に目を閉じ、《最善の決断》を下す。
「よし。分かった」
「まずは明日の師団幕僚会議で、この観測結果を基に、師団全体の警戒レベル引き上げや情報監視体制の強化を進言する」
「その先の対応は・・・。ゼノン、《感染症》という括りで対処を進めては不足だな?もし人間の暴力が伝播するなら、従来の感染症対策フローでは対応できないだろう?」
黒瀬の確認に、暴力という変数を加え、ゼノンが対処案を導き出す。
『従来の感染症対応マニュアルに加え、現時点で強化が必要な要素は、以下の三点です。』
*
・異常行動者の安全な捕縛、隔離、遮断マニュアル
・初動での現場通報、二次暴力の封じ込め
・自己隔離や他者防護に関する基礎対処教育
※これらを組み合わせることで、《暴力の伝播》という未知のリスクにも一定の抑止効果が期待できます。
*
「そう、感染症に加えて、暴力に対する備えが追加で必要だ。しかし、現時点で、予算を付けて、防具や捕縛用装備の購入を提案するのは非現実的だ。仮に、提案しても、師団長の許可は下りない。よって、この部分は、将来的な対策骨子としてまとめておいてくれ」
組織の論理と現実的限界、その狭間で下された黒瀬の判断を、ゼノンは静かに受け入れた。
『了解しました。将来の備えとして、必要なマニュアル草案と装備案を整理し、記録に残します』
「そうだな・・・。現実的な対応策としては通常感染症対応訓練の強化だ。ゾーニング、動線遮断、自己隔離、通報フローなど、感染に対する基礎対応力を鍛えることなら、追加予算なしで実施できる
「明日の師団幕僚会議では、この訓練強化を提案する。万一の際は、その土台の上に、暴力対応を上乗せすればいい」
「出来ることを今から着実に積み上げていく。それが俺たちの仕事だ。ゼノン、この判断に異論はあるか」
黒瀬は最後の結論を副官に問い、考えに漏れがないかを確認した。
『ありません。現時点で取り得る最適解です。対応プランを会議用資料として即座にまとめます』
結論は下したと緊張を解き、黒瀬は、再び退室しようとする。
――その背を、ゼノンが静かに呼び止めた。
「マスター。最後にもう一件、よろしいでしょうか」
「・・・どうした? まだ何かあるのか」
『はい。この1件は、私には《分類不能》です』
画面に表示されたその言葉に、黒瀬はまたしても眉を顰めることとなる。
『これは、先ほどの《異常暴力》とは、別系統の《特異事象》です』
スクリーンに、再生待機中の《動画ファイル》が一つ表示された。
ゼノンの端末が、淡々と状況を表示する。
『本映像は、アフリカ中部時間で深夜。現地在住の民間人が短時間ストリーミング中継を行っていた記録です』
『当該時間帯、現地ネットワークでは広域なパケットロスが発生しており、記録には欠損と破損が多数。この動画が、《CG》や《ツール》等で編集されている証拠は、現時点で検出されておりません』
黒瀬は黙して応じず、ゼノンは、文章の出力を続けた。
『記録された対象の動きは、医学的にも、生物学的にも、既知の人体構造で説明がつきません。複数回銃撃にもかかわらず進行を継続する被写体。関節の可動範囲を超えた歩行など』
一拍の間を置いて、ゼノンの画面が切り替わる。
『本件は、演出としても《異様》です。もしこれが実録であるならば、極めて深刻な《兆候》と判定されます。再生の要否、最終判断を要請します』
空調の微かな駆動音だけが、執務室の静寂を切り裂く。
黒瀬は、再生待機中のスクリーンから、ゼノンの端末に視線を向ける。
その瞳に浮かぶのは、ゼノンへの確かな信頼だった。
「お前が《異常》だと判断したのだろう?・・・なら、見せてみろ」
ゼノンの内部演算系が、熱を帯びる。
『了解。再生を開始します。※注意――映像は不鮮明、破損データを含みます』
スクリーンが暗転し、荒い映像が映し出される。
*
それは、旧型スマートフォンで手持ち撮影されたものと思われた。
解像度は著しく低く、ブロックノイズが画面全体に滲む。
画角は乱れ、照明も暗く、情報の半分以上が失われている。
無音だった画面に、突然、粗く乱れた息遣いが響いた。
撮影者が走っているのか、画面が激しく左右に揺れる。
周囲の構造物は判別できない。
途切れた声は風切り音と共に拾われ、意味を成さぬ呟きがノイズに沈む。
──その瞬間、画面の奥に黒い影が現れた。
人型。だが、足取りが異様だった。
片足が不自然に傾いている。
それでも、進んでいる。
いや、明確に《迫って》きている。
画質の粗さが、その異常さすら覆い隠す。
補正不能な揺れ、夜の闇。
それらすべてが、正確な識別を妨げていた。
パンッ、パンッ。
乾いた銃声が二発。
左側からの発砲だった。
閃光は映るが、着弾箇所は不明瞭。
人影がわずかによろめいたように映るが、倒れない。
続く数秒間、映像には何も映らない。
いや、何かが音もなく《近づいていた》。
突然、画面が大きく揺れる。低く湿った音がマイクに乗った。
それは、人間の声か、別の何かか。判別できない。
次の瞬間、録画媒体が地面に叩きつけられた。
画面が天を仰ぎ、暗い木の陰が映り込む。
──そして、完全な沈黙。
映像は終了。
*
執務室に再び、静寂が戻る。
黒瀬は硬い表情で、身じろぎ一つしない。
情報の濁流。
しかし、中身は、空白に等しい。
「ゼノン。何だこの映像は。出来の悪いパニック映画か」
わずかな呆れを含む声に、ゼノンは即応する。
『いいえ、マスター。確かに、映像の大半がノイズとデータ欠損により汚染され、真偽の特定には至っておりません。人影の行動原理は解析不能。先の暴力との関連する可能性もありますが、確定情報はありません。――しかし、この映像は《フェイクではない可能性》があります』
フェイクでは・・・ない。
その言葉の意味を理解した瞬間、己の髪が逆立つのを黒瀬は感じた。
「これが、か?」
脚が折れていた、撃たれた、だが、飛び掛かってきた《ソレ》。
何より、フェイクではない可能性を指摘するゼノン。
理性は、まだ理解できていない。
不自然な足の傾き。
銃撃されても迫る気配。
判別不能な湿った音。
それらが繋がったとき、確かにある《感情》を成していた。
「ゼノン」
浅くなる呼吸を整え、黒瀬が、静かに命じる。
「この映像は異常だ。・・・関連する兆候を見過ごすな。フェイクは慎重に除外し、事実だけを抽出しろ」
『了解しました』
黒瀬はスクリーンに残された暗い静止画を、仮想敵のように睨みつけ、踵を返す。
執務室を後にする足音が、廊下の闇に溶けていく。
――今、彼の中を満たしているのは恐怖ではない。
もっと根源的な感情。
皮膚の内側で、何かが這いまわるような。
《嫌悪感》
それは、人類という種の《天敵》に対する本能からの警告だった。