第4節 突破困難――限界の会議室
【10:34】
柿沼は、ドアの前で一度、呼吸を整える。
緊張はしていない――ただ、任務上、部屋に入る前は必ず情報収集の意識を高めることにしている。
静かにノックし、「失礼します」と声をかけると、ドアノブを回し、会議室に入った。
扉を開けば、課長とスーツ姿の若い女性分析官が向かい合っていた。
(もう終わっているかもと考えていたが、間に合ったか)
第一師団司令部の連絡官、柿沼三等陸佐。
柿沼は、数日前に、師団長から「感染症や暴行事件のリスク情報をしっかり集めておけ」と言われていた。
べつに特別な命令じゃない。指示の一つというだけだ。
連絡官の仕事は、正直に現場の声を伝え、必要があれば上にも下にも繋ぐこと――
危機管理局が飛び込みで来たと耳し、直ぐに会議室に向かった。
正規の手続きを飛ばして、一刻を惜しむ。危機管理局がここまで急ぐのは、めったにない。
――これは、ただ事ではない。
「失礼します。第一師団司令部連絡官、柿沼です」
課長に向かって一礼する。
「突然ですが、現場連絡官として、本日の打ち合わせに同席させていただけますか」
課長が「どうぞ。現場の視点も交えて進めたい」と促す。
その言葉を受けて、改めて如月にも軽く会釈し、席に着いた。
如月遥――若い女性分析官は、手早く机の上に資料を並べていた。
(手際がいい、意志が出ている、ただの伝達役じゃないな)
そう思いながら席につく。
「お忙しいところ恐縮です、柿沼連絡官。現場のお話、ぜひ伺えれば助かります」
如月は、微笑みながら、礼儀と配慮をきちんと向けてくる。
課長が改めて柿沼を如月に紹介する。
「第一師団は、都内の治安維持や災害派遣の実働部隊だ。彼も現場の警戒体制には詳しい」
柿沼は軽く会釈し、補足した。
「実は、数日前から師団長より、感染症や暴行事件の動向に特に注意するよう全隊へ通達が出ています。現場でも警戒態勢を強めております」
その言葉に、如月の表情がわずかに動く。
「第一師団で、すでに警戒レベルを引き上げておられるのですね。心強いです」
如月は柔らかく返し、そのまま静かに続ける。
「現場の皆様にも、ぜひ、差し迫った脅威の認識を共有したく思います」
如月の意図は明白だった。危機感を現場に伝えに来ている――だが、押しつけがましさも演出もなく、自然にこちらへ歩み寄ってくる。
彼女は、現場連絡官としての自分の役割もきちんと理解している。そのうえで「必要な情報を、必要な人へ届ける」という姿勢が感じ取れた。
対立ではなく、共に危機に向き合う――その誠実さに、思わず心がほぐれる。
「ありがとうございます。現場はまさに情報収集中でして……正直、警戒は強めていますが、今のところ具体的な異常は掴めていません。ですが、危機管理局の急な動きを聞きまして、何かあると察して本日駆け付けました」
如月は静かにうなずく。
「やはり、まだ現場も様子見、ということですね」
その一言に、如月の落胆がわずかに滲んでいた。
その表情を、柿沼は素早く察知する。
――危機管理局の方が、一歩先を見ているか。
情報は確かに有益だが、現場が遅れを取っている事実は、素直に喜べるものじゃない。
「もし、現場で感じる違和感や、実際の動向で気になる点があれば――どんな些細なことでも、ご共有いただけるとありがたいです」
続く如月の声には、責めるような響きも、急かす色もない。ただ現実を知りたいという透明な誠実さがあった。
その姿勢を見極め、柿沼は「警戒すべき相手」から「信頼を築くべき相手」へと、頭の中で切り替える。
課長が如月に視線を向ける。
「繰り返しになるが、如月分析官、今一度要点を現場にも説明してほしい」
如月は柿沼に軽く頷き、追加のプリント資料を差し出す。
「それでは、要点のみ……失礼します」
(理知的で、正直。心を開いている。だが、だからこそ、その奥に情熱があるのがよく伝わる。壁を作らないことで傷つくこともあるだろうに、若さゆえか――いや、これは強さか)
柿沼は、如月の異常行動事案の説明を黙って最後まで聞いた。
如月の危機感がひしひしと伝わるほどに、柿沼も連絡官として、この情報を正しく把握しなければと前のめりになっていった。
会議室の空気が、少しずつ、しかし確実に熱を帯びていくのを、柿沼は感じていた――。
*
説明を終え、如月は席に着き直し、改めて柿沼に視線を向けた。
体格は大きくないが、優しそうな物腰の中に、人を値踏みするような視線の鋭さが見え隠れする。――これが現場の連絡官、というものか。
(警戒レベルが引き上げられている? 現場にも、確かに危機感は伝わっている。……黒瀬さんの影響だろうか)
「先ほども申し上げましたが、現場でも警戒体制は強化されています」
柿沼が抑えた声で言う。
「ですが、我々が命じられているのは、今のところ情報収集と警戒の徹底までです。それ以上の対処は、当然ながら上層部の判断となります」
如月は、小さくため息をついた。
この認識では、現場からの突き上げは、期待できない。
残された道は、トップダウンの決断だけ――
(……やはり、ここまでか)
それでも、如月は、敢えて最後の一歩を踏み込む。
「先ほども伺いましたが、警察の対応が手に余る状況が予測される場合、治安維持のための《出動準備》は、どの時点で判断されるのでしょうか。現時点でも、数日中には困難となる可能性が高いというのが、こちらの分析です」
「ラインだけでも知りたい」――如月の踏み込みに、一瞬で会議室の空気が張り詰めた。
課長も柿沼も、しばし沈黙の後、重々しく口を開く。
「……危機の本質については、十分に理解しています。正直、この場で伺った情報には、私も強い危機感を持ちました」
柿沼も続く。
「私も、師団長の指示の理由がようやく腑に落ちました。――これは、危険な状況です」
二人とも、如月の危機意識に歩調を合わせた。
だが――
課長がわずかに視線を落とし、唇を結ぶ。
「……ただ、実際に《出動準備》となると――これは、我々の裁量だけでは決められません」
柿沼も苦い表情で頷く。
「正式な手順と上層部の指示が不可欠です。現場の判断だけで動くことは……現実的には難しいのです」
空気が重く沈んだ。
理解も、共感もある。だが、決定には手が届かない。
如月は、その壁の厚さを、改めて思い知らされていた。
課長は、なおも慎重に言葉を選ぶ。
「ただ、状況がさらに悪化した場合には、改めて上層部に上申し、適切な対応ができるよう最大限努力します」
柿沼も頷くだけで、具体的な答えは避けた。
その表情には、現場の葛藤と、動けない歯がゆさが色濃く滲んでいる。
防衛省かが把握するデータや現場情報も、如月に共有される。
だが、それらは所詮「表層」をなぞったものに過ぎない。
肝心の核心――《判断を変える一撃》には、まだ誰も届いていない。
(……これでは、間に合わない)
如月は痛感していた。
どれだけ踏み込んでも、公式ルートのままでは、この国に立ちはだかる巨大な壁はびくともしない。
心の中で、《週明けまで何も動かない》という確信が、重く、確かな質量を持ってのしかかる。
組織の重さ、理解しているのに動けない歯がゆさ、焦燥――
ここにいる全員が共有できるもどかしさ。
その頂点で、如月は限界まで《突破》を図った自分と、それでもなお及ばない現実との距離を、無力感とともに噛みしめていた。
課長の言葉が、重く、静かに会議室に残る。
「……制度の限界はありますが、私の裁量の範囲で、現場には最大限の警戒を伝えます。もし何か動きがあれば、こちらからも共有いたしますので……」
如月は、わずかに頭を下げた。
(この人は、間違いなく最大限やってくれている――)
本来なら、これだけの言質を引き出せた時点で《官僚交渉》としては成功だ。普通の状況なら、《大戦果》だと胸を張れただろう。
しかも、事前通達もない《飛び込み》の分析官に対して、だ。
如月も、それを理解している。
――だが。
心の奥に、冷たい絶望が静かに広がっていく。
(――違う。今この国を覆うものは、《普通の危機》なんかじゃない。満額の回答をもらっても――足りない。こんなペースじゃ、何も間に合わない。誰も、まだ《間に合う世界》を理解していない――)
目の前の《厚い壁》は、課長個人の善意や努力すら、音もなく飲み込んでいく。ただ、そこに巨大な質量となって立ちはだかっている。
如月は、静かに唇を噛みしめた。
会議室には、手詰まりの重さだけが、じっと残り続けていた。
如月は必死に自分に言い聞かせる。
(これ以上は無意味だ。最上ではないが、これが手にできる《実りある結果》だったと思うしかない)
「本日は突然のお願いにもかかわらず、貴重なお時間をいただき、ありがとうございました」
静かに礼を述べ、机上の資料を丁寧にまとめ、深々と頭を下げる。
課長と柿沼も、礼儀正しく応じた。
だが、重苦しさがなお、空気に残っている。
会議室を出る瞬間、如月の足取りはわずかに沈んだ。
扉が背後で静かに閉じる。
その音が、現実の限界を告げるように響く。
彼女は肩を落とし、足元を見つめながら、エレベーターホールへ向かう。
諦めているわけではない。
そんな余裕はない。
(下も真ん中も無理なら、上から行くしかない。これより上って……どうすれば……)
如月の頭は、すでに次の作戦に向かっていた。
――その時だった。
「如月分析官、少々お待ちいただけますか」
不意に、背中から呼び止める声が鋭く響く。
振り返ると、制服の柿沼が、小走りでこちらに向かって来る。
その表情には、さきほどまでとは違う、わずかな《迷い》と《覚悟》が同居していた。
「……少し、内密なお話をさせていただけますか」
厚い雲の切れ間に、わずかな光が射すような――
如月の瞳が、その変化を縋るように捉えていた。
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