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死線の国境──《ゾンビ》よ、知れ。日本が、容易く滅びると、思うな。  作者: 斉城ユヅル
第8章 白百合作戦、点火――The Ignition of the White Lily(上)
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第1節 戦略会議――世界は動く

【WHOジュネーブ本部 緊急記者会見】

【D5(金) 07:00】



乾いたカメラシャッター音が、薄く反響する。


記者たちの間に、緊迫感はない。


半数はタブレットを膝に置き、数名が水を口にしながら、会見が始まるのを待っていた。



中央のスポットライトが淡く点灯し、白いマスクを着けた、WHO世界保健機関・危機管理部門 広報担当官が姿を現す。


彼女は一礼の後、整然とした歩幅で演壇の中央に進み、慎重にマイクを調整した。


そして、深く息を吸ってから、言葉を発した。



「皆さま、本日はお集まりいただき、ありがとうございます。WHO世界保健機関、広報担当のエレナ・グレーヴィスです」



表情は平静。


しかし、声にはわずかな緊張が滲んでいた。



「本日、WHOは《急性発症症候群》に関する国際的注意喚起を発出いたしました。これは、複数の大陸、複数の都市において、同時多発的に確認された一連の症例に対応するものです」



ざわ、と小さな反応が記者席の一角で起こる。


だがそれは、特派員の翻訳チェックによるものに過ぎず、場は依然として穏やかだった。



「確認されている症例はいずれも、急激な体調悪化、異常行動、または意識障害を伴うものです。現在、詳細な病因、重症化メカニズムについては専門家チームが調査中であり、現時点で確定的な情報は出ておりません」


「また、一部の地域では集団的な異常行動や公共の安全に関する懸念が報告されておりますが、その発生機序や全体像については更なる調査が必要です」


報道官の左右に設置されたスクリーンには、発症都市とされる地図が表示される。


「現在、我々は《未知の健康事象》に直面しています。しかし、恐怖や混乱は最大の障害となります。各国・地域の皆様には、冷静で、慎重な行動をお願い申し上げます」



言葉は選び抜かれていた。


強い否定もなければ、具体的な危機宣言もなかった。



だが――その沈黙の行間に、何かが忍び込んでいた。



「情報は、今後もWHO公式サイトおよび各国の保健当局から、迅速かつ透明に提供されていきます。

この件について、我々は、国際社会と共に対応に当たります」


最後に、報道官は深く一礼した。



*



【同時刻 東京 危機管理局・審議官執務室】


朝の静けさを破るように、壁のテレビがジュネーブからの中継を流していた。


画面の中、WHO報道官は慎重な口調で「複数大陸・複数都市での原因不明の発症例」「原因や症状は調査中」「各国は冷静に公式情報を確認せよ」とだけ告げ、会見は終わる。


岡田は、手にしたコーヒーカップを机上に戻す。


熱はとうに失われ、指先に冷たさだけが残る。



「――公式な《兆し》か」



資料に目を落とす。


昨日、如月遥が提出した緊急レポート。



「だが――日本の官僚機構が、これだけで動くはずもない」


自嘲の混じった声が執務室の空気に溶けていく。



壁のテレビは、テロップと共に、次のニュースへと切り替わる。


<関東地方 記録的な早さで梅雨明けか>



ニュースを気にも留めず、岡田は眉間にしわを寄せ、しばし黙考する。


「如月君は、既に一歩先を見ている。……だが、俺はこの椅子にいる以上、確証なしには動けん」



――風向きは変わりつつある。



岡田は静かに報告書を見つめた。


冷めたコーヒーの苦味を、黙って飲み下す。


(《証拠》がいる。否応なく国家を動かす材料が……)



*



【08:00】



如月は朝の支度を済ませ、官舎の玄関を飛び出した。



湿った朝の空気を切って大通りに出る。


大通りには、急ぎ足のサラリーマンや学生たちが行き交っていた。



駅には向かわず、彼女は迷わず手を挙げる。



ミューズが即座に語りかける。


「本日は電車ではないのですね」


行き交う車を見送りながら、如月は短く答える。



「市中感染が始まっている。満員電車はリスクが高すぎるわ」



幸いにも、タクシーは直ぐにつかまった。


彼女は、周囲を警戒するように、素早くタクシーへ身を滑り込ませた。



「おはようございます。どちらまで?」


運転手は穏やかな口調で行先を尋ねる。



「首相官邸まで、お願いします」


如月は短く告げ、後部座席に身を沈める。



さりげなく運転手の顔色や声、仕草を観察する。


疲労も異変も見当たらない。――元気だ。



タクシーが走り出す。



しばらくして、カーラジオからWHO記者会見ニュースが流れる。


キャスターが、冷静な声でWHO会見の要旨を読み上げていく。



「なんだかよく分からない話ですねえ」


運転手がバックミラー越しに話しかけてくる。



「結局どんな病気なんですかね?」



如月は、ほんの少し口角を上げてみせる。


「さあ……どうなんでしょう」


外面は曖昧な微笑み。



だが、内面では冷徹な計算が巡っていた。


(……LV.3。これが、WHOの限界か)


(パンデミックとも暴動とも、明言は避けている。だが、発表文には《公共の安全》への警鐘がにじんでいる)


(表向きは弱い材料――だが、その裏に、確かな警戒がある)



このニュースは、「武器」と呼ぶには頼りない。


だが、たとえ細いクサビでも、戦場の壁に最初のヒビを入れる力にはなる。



(使い方次第だ……)



タクシーの車窓を、景色が流れていく。


ラジオから流れていたWHOの会見は終わった。



信号待ちのわずかな時間、彼女は手元の情報端末に視線を落とす。


画面には、警察出動報告が次々と更新されていく。



<咬傷による負傷者、都内〇〇病院に搬送>

<異常行動者、警察官により拘束――警察署内で経過観察>



淡々と並ぶそのログが、静かに積み重なっていた。


誰もまだ「感染」とは断じていない。


だが、数値は確実に増えていく。



如月は、画面を一瞬見つめ、何も言わず、再び視線を車窓へと戻した。



その時、耳元のインカムから、ミューズの声が静かに響く


「遥さん。16時間以内に治安維持出動準備命令を取得する具体的プランはありますか?」


冷静なリマインドを兼ねた事実確認。



如月は、即答できなかった。


車窓に映る自分の顔から、表情を消す。



《プラン》など、あるはずがない。



(道は見えない。想像もつかない)


(どうすればいい。正解なんて、分からない)


(でも――)



彼女は、静かに、答える。


「……ええ、次の一手は考えてある」



*



そう。一歩目だけは、はっきりと見えている。


WHOの警告だけでは、岡田審議官は動かない。


必要なのは――証拠。誰にも否定できない、現実そのもの。


あの人は証拠不足で否定した。


次は、絶対に動かせない事実を、もう一度、叩きつける。


《証拠》があれば、必ず動かせる。突破口は、きっとその先にある。



*



彼女の目には、悪夢の淵から這い上がった、戦士の光が灯っていた。


彼女は、ミューズに、今度は、はっきりと告げた。



「ミューズ。まずは《威力偵察》をしましょう」



その声には、昨日までの彼女にはなかった、戦場の匂いが、確かに宿っていた。



「防衛省へのヒアリング、優先リストに追加して!」

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