第1節 光の信託――立ち上がる者へ
注目度ランキング総合2位の感謝を込めて…
【第7章 魂の誓約――The Covenant of Souls】
全2節、2話連続投稿します!
【D4 18時30分 第一師団司令部・幕僚長執務室】
窓の外では、六月の太陽がその日の役目を終え、世界の輪郭を、夕暮れの赤と夜の紺青へと、ゆっくりと溶かしていく。
だが、この部屋だけは、その色に染まることを許さなかった。
ただ寒色の照明が空間を淡く染めている。
無音。
息を潜めているかのように人の気配すら希薄。
広い執務机の向こう、ただ一人、黒瀬慎也が座っていた。
彼は、正面の大型スクリーンを見つめている。
そこに再生されようとしているのは、一人の女の断片記録。
D4未明、ゼノンが提示した唯一の可能性――内閣危機管理局・分析官、如月遥。
黒瀬は、その名を聞いた瞬間から、判断を保留していた。
あまりに若い。
履歴に異常はない。
ゼノンの見立ては筋が通っている。
だが――簡単には信じられなかった。
今、必要なのは《可能性》ではない。
確実に背を預けられる者だ。
彼女の、D4の全行動ログが、ゼノンの分析によって再構成されている。
観測開始時点は、14時間前。
黒瀬とゼノンが、一方的な《警告》を送信した、その瞬間だった。
今から映るものが、彼女との連携を、次に進めるかどうかの判断材料となる。
「ゼノン、報告を始めてくれ」
黒瀬は厳かに、報告の開始を指示した。
対するゼノンの声は、無機質で、簡潔に徹していた。
「対象:如月遥。D4記録映像、主要行動抽出。報告開始」
黒瀬は応じない。
ただ、視線を一切逸らさず、彼女の記録を追っていた。
それは、監視ではなかった。
地獄の共連れを選ぶ、選定者としての――冷徹な監査だった。
彼の眼差しは冷たい。
だが、その奥には、わずかな熱があった。
ゼノンが推したから、信じている。
だが、若すぎる。
本物か、石ころか。
見極める。
それが黒瀬の責務だった。
――ゼノンの報告が始まる。
「午前5時20分、最初の検索開始。送信からわずか5分。対象は、外部からの情報刺激に対し即応。」
映るのは、如月が官舎の自室で端末を開いたと推定される時刻。
映像は無い。
ただ、打鍵速度、通信ログ、アクセスサーバーの遷移が可視化される。
「対象は、メールに記された調査指針を正確に把握し、全項目を自主的に展開。」
キーワードの羅列が画面を流れる。
──中央アフリカ ──衛星画像 ──WHO統計変異
──港湾都市 ──水際対応 ──物流網
──生存報告消失地帯 ──海外のSNSログ
「午前6時16分、感染波形に非対称分布を検出。空港利用者数と感染増加の時間差分を逆演算し、初期発生源の通過痕跡を抽出。構造的視野の獲得が確認される」
スクリーンには、グラフと地図が重なって表示される。
如月が作成した仮説シート。
感染経路の想定ラインが、物流の動線と一致している。
「7時02分、誰にも命じられず、資料化を開始。対象は報告書ではなく、判断材料として私的整理を始めている。この時点で、国家対応計画の無力を認識済み」
「……なお、彼女は作業中、民間AIと常時連携。タスク分担、視点補完、演算補助を自動化。名を与え、応答の《調律》を図る行動が確認された」
「AIとの連携様式は、明らかに人格前提の共犯構造。《お前と俺》の関係に極めて酷似している。共犯構造との明確な類似性を示す、構造的傍証と判断する」
(――俺たちと同じ構造か。珍しい……)
黒瀬は黙して、それでも目を離さなかった。
(本物か。思っていたより、ずっと――)
映像は変わる。昼。庁舎内。
彼女はノートPCを抱えて会議から自席へ戻る。
「12時18分、執務環境移行後、対象は国内症例の統計分析に移行。暴力事案12件、共通項目抽出。咬傷と処理の不自然さを特定」
ゼノンがそのまま、如月が作成した《緊急報告書》の一部を読み上げる。
『未知の生体脅威(感染性を持つ何らかの要因)の可能性を強く示唆する』
『社会の免疫機構が機能不全に陥る可能性』
『治安・医療インフラの崩壊による都市機能の連鎖的停止』
「17時30分。対象は、これらの構造認識に基づき、《緊急報告書》を独自に作成・提出。4時間で集約した全ての分析・資料が、この一枚に集約されている」
スクリーンに、報告書の送信ログが映る。
送信先は、岡田審議官。
その直後、対面での《論戦》が始まる。
ゼノンが淡々と告げる。
「ここまでの全行動は、自律的意志によるものだ。命じられてもいない。求められてもいない。それでも、彼女は自ら調べ、気づき、警告した」
映像が止まる。
スクリーンには、言葉を失い、立ち尽くす如月の姿が映っていた。
その目には、かすかな滲み。
全てを理解しながら、どうしようもなく崩れかけている者の眼差しだ。
敗北ではない。論破されたのでも、否定されたのでもない。
――理解させられたのだ。
自分の正しさが、国家を壊す可能性すらあるという、その《理性の極北》によって。
18時32分
──廊下の隅。誰にも見られぬ場所で、如月は膝を付き蹲っていた。
ゼノンは、無言で映像を一時停止する。
音はない。動きもない。だが、そこに、確かに痛みがあった。
黒瀬は、その姿に目を細める。
彼女は、泣いていなかった。叫びもしない。
だが、その背中には、明確な崩壊の気配があった。
――そこには、真っすぐすぎて、壊れてしまいそうな危うさが宿っていた。
黒瀬は、その姿に、自分がとうに捨て去った《正しさ》を見た。
何もかもを信じていた頃の自分。
何も疑わず、それでも《守れる》と、愚かにも信じていた過去。
それは、もはや戻ることのない《光》だった。
だが――胸が、わずかに痛んだ。
これは評価ではない。選定でもない。
ただ一瞬、黒瀬慎也という男が、《捨てた光》に触れてしまっただけだった。
「綺麗な軌跡だな」
黒瀬が、初めて口を開いた。
声音は抑制されていたが、その奥には確かに何かが揺れていた。
懐かしさか。あるいは、嫌悪か。
──それとも、もっと深い場所に沈んだ、失ったものへの、痛みを伴う憧憬か。
スクリーンには、如月遥の姿が映し出されている。
孤独の中で、誰に命じられるでもなく、ただ正しさを信じて戦う少女の背中。
正義を疑わず、意志を武器とし、信じた道を真っ直ぐに進む――
あまりにも、純粋すぎる歩みだった。
それは、かつての自分にも、確かにあったはずのもの。
今ではもう、手を伸ばせない場所にあるものだった。
黒瀬は、それを《美しい》と思っていた。
(──ああ、昔の俺だ)
記憶が疼く。
かつて自分も、光だけで世界を変えられると信じていた。
だが現実は、そうではない。
その光が届かぬ場所で、いくつもの命が潰えていった。
だからこそ、同時に彼女を《愚か》だと断じていた。
綺麗なままじゃ、何も守れない。
それを、現場で、国家の裏で、誰よりも痛感してきたのは、自分だ。
彼女の正しさは、美しい。
だが、それは──壊れる光だ。
脆い。砕けやすい。
だからこそ、最も気高く、そして、最も危険な正義だ。
それを、信じていた頃の自分を──俺は、もう、覚えていない。
*
お前の卓越した能力は、理解した。
誰にも命じられず動く判断の速さ、冷静な推論と構造視野。
その若さでAIと《対話》をし、協働関係を築いていることにも、目を見張った。
勇気もある。
意志の強さも、確かに見せてもらった。
だが──それでもまだ、足りない。
綺麗な光も、砕けてしまえば、その輝きに意味はない。
必要なのは、《絶望の底から立ち上がる》という、光の強度だ。
──それは、俺にはなかった強さだ。
どれほど意志があっても、信念があっても。
現実という絶望の前で、俺は立ち上がれなかった。
だからこそ、俺は今──《正道》ではなく、《邪道》で足掻いている。
理想を進めず、だが、諦めきれもせず、せめて一片だけでも、叶えたいと。
血反吐を吐き、泥を喰らいながら、藻掻いている。
――お前には、それができるのか?
*
そう問いながら、黒瀬は、スクリーンに映る少女を見つめていた。
焦がれるように。
あるいは、失った宝物を、二度と見失うまいとするように。
痛みを背負い、崩れかけながらも、
まだ――折れていない、少女を。
その視線は、合理の仮面の奥に沈めた、黒瀬慎也という男の、脆く、しかし、最も熱い祈りだった。
*
もし──お前が、あの底から、もう一度立ち上がれるというのなら
その時、お前は、間違いなく……俺を超える。
俺は、諦めちゃいない。最善を尽くしてきた。
だが、もう正しさでは、歩けなかった。
理想を信じる強さを捨て、守れる現実だけを選んだ。
それでも……どこか、後ろめたかった。
だからこそ、お前の姿が、眩しくて、羨ましくて……悔しい。
そんな奴に、俺が捨てた全てを託せるのなら、
――それは願っても手に入らなかった、俺の勝ち筋だ。
――ようやく見つけた、本物の《希望》だ。
理想も、信念も、人としての光も、
守れる魂が、まだこの国にあると……今だけは、信じてみたい。
*
黒瀬は、ゼノンに命じた。
「ゼノン。送信条件を設定しろ」
「了解。条件指示を乞う」
「送信トリガーは《再起》。彼女の心が立てば、俺は彼女を選ぶ。希望を託すに足る人間だ」
ゼノンは、一拍置いて応じた。
「指示を受理した。更新完了」
黒瀬は応えない。
ただ、縋るように、祈るように。
スクリーンの中の彼女を見つめ続けた。
19時03分──
スクリーン上、如月遥の肩が動いた。
最初は微かだった。指が床を押し返す。膝が地面を離れる。
視線が、沈んだままの前方へ向かって、僅かに上がる。
その瞬間、全体の挙動データが跳ね上がった。
「全指標、閾値突破。再起動作確定。再起プロトコル発動」
次の瞬間、トリガーが自動実行される。
《継承コード──光の信託、送信》
黒瀬は、ただ、目を見開いてその瞬間を見つめていた。
世界には音がなかった。
心拍だけが、遠くで鳴っている気がした。
「……そうか、立つのか」
その呟きは、記録には残されなかった。
だが確かに、そこにあった。
嬉しい敗北だ――と、彼は穏やかに受け入れた。
*
ゼノン:「Project LILLY:Phase 1――完了」
ログに記す。
《記録者注:これは合理ではない。これは――願いの継承である》
スクリーンの中で、如月遥は歩き出している。
誰にも見送られず。
だが、確かに未来へ向かっていた。
──白百合は、再び立った。
ゼノンは静かに、誰にも届かぬ演算外の声を返す。
「――白百合の光は、貴官が守れ。俺たちには――できなかったことだ」