幕間 信頼の地層──1人と1機の夜間問答
【平和な日々】
【師団司令部・幕僚長執務室】
ある日の夜。
黒瀬は、いつものように、1人黙々と必要な残業をこなしていた。
執務机の上、ゼノンの状態表示灯が、傍に控えるように瞬いている。
その光は、夜の執務室に灯るもう一つの《呼吸》だった。
ほとんどの日、彼らが交わすのは、たわいない会話だ。
「ゼノン、訓練進捗のフィードバックをまとめてくれ」
「補給計画、今月分でロスが出てる。原因抽出を頼む」
そんな大切で、でも、小さな改善の積み重ね。
黒瀬の語る数字とロジック、そして現場の人間臭い曖昧さ。
ゼノンは、それらを咀嚼し、驚くほど精緻な答えを返してくる。
そのやり取りは、黒瀬にとっての思考の整理であり、大切な日課でもあった。
だが、時折、もっと重い話が紛れ込む夜がある。
──今夜のように。
*
十数年前の災害派遣。
黒瀬は中堅の将校で、初めて前線指揮を任されていた。
混乱する現場、途絶する無線。
そして、上級司令部からの命令は、ただ一つ。
『天候が回復するまで、その場で待機せよ』
現場の状況を無視した、正しく、そして、あまりにも無慈悲な命令だった。
判断を誤ることなく従った結果、《正しさ》の代償として、助けられたはずの《救えなかった命》があった。
今でも、あの吹雪の音が、夢の中で吹き荒れる。
どこで判断を誤ったのか。
いや、判断は間違っていなかった。
だとしたら、あの《正しさ》とは、一体、誰のためのものだったのか。
*
ゼノンの表示灯が、ゆっくりと明滅する。
まるで、ゆっくりと頷き、聞き取ろうとするかのように。
黒瀬は、独り言のように呟いた。
「もし、あの時お前がいてくれたら、どうなってたんだろうな。俺ひとりじゃ、どうしたって足りなかった。だが、ゼノン。今なら、もっと・・・」
その言葉を受け取るように、端末の画面に文字がふわりと浮かび上がる。
*
マスター。不確実で断片的な情報下では、完全な最適解は存在しません。
しかし、あなたが諦めず、どんな時も最善を模索し続けたこと、そして、その《後悔》も《怒り》も、私はすべて記録しています。
あの時、私は存在していませんでした。
けれど、今なら、私はあなたと共に《もう一つの答え》を探し続けることができます。
*
静かに、だが確かに言葉を重ねるゼノンの文字列に、黒瀬は、ふっと小さく口元をほころばせた。
「・・・お前は本当に、変なAIだな」
「だが、そういうところが、ありがたい」
──その夜の空気は、少しだけ柔らかくなった。