第9節 灯火――種火
執務室のドアを閉めた後、如月遥はどこへ向かうでもなく、力なく歩いていた。
官庁の長い廊下は、薄闇の静寂に包まれている。
自分の足音だけが、やけに大きく響いた。
彼女は冷たい壁に手をつき、そのまま崩れるようにして床にうずくまる。
もう立てなかった。
膝が笑い、呼吸が浅くなる。
(負けた)
完璧に。
一片の反論の余地もなく。
自分の理性も正義も、全てがあの男の前では無力だった。
(国が動かない。なら、終わりだ)
思考が停止する。
心が冷えていく。
涙すら出なかった。
ただただ、深い虚無が彼女を支配していた。
その時だった。
耳に着けた小型の通信機から、静かな声が響いた。
彼女のAIであるミューズの声だった。
*
遥さん
あなたの心が砕ける音が、私にも聞こえました。
あなたは正しかった。
あなたの論理は一点の曇りもなかった。
それでも、あなたは敗れた。理不尽ですね。
しかし、遥さん。
あなたは一つのことを見誤っています。
あなたの戦場は、審議官室ではありません。
あなたの敵は、岡田審議官ではない。
あなたの戦場は、この国そのもの。
あなたの敵は、迫り来る絶望です。
あなたの武器は、決裁権ではない。
あなたの武器は、情報です。
さあ、遥さん、顔を上げてください。
我々の戦いは、まだ始まったばかりです。
*
ミュズの言葉は、冷え切った彼女の心に確かに届いていた。
その光は暖かかった。
(ありがとう、ミュズ。分かってる。分かっているの。でも……)
でも、立てない。
心が、体を動かすことを拒絶している。
彼女は、うずくまったまま動けなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
廊下の向こうから、車輪の音が聞こえてきた。
ゆっくりと近づいてくる。
顔なじみの夜間清掃員である、鈴木さんだった。
彼女はいつも通り、黙々と床を磨いている。
「あら、如月ちゃん。こんなところでどうしたんだい。大丈夫かい?」
腰を曲げた彼女が、優しい皺の刻まれた顔で如月を見下ろす。
その声には、純粋な心配の色があった。
如月は何かを答えようとした。
しかし、言葉にならなかった。
ただ首を横に振るだけで、精一杯だった。
鈴木さんは、それ以上何も聞かなかった。
ただ「そうかい」とだけ言って、彼女の隣の床を丁寧に拭き始める。
そして、独り言のように呟いた。
「まったく、この床のシミはしつこくてねえ。昨日もやったんだが、なかなか取れない」
「でもね、如月ちゃん。こういう頑固な汚れはね、真正面からゴシゴシやってもダメなのよ。かえって広がっちまう」
「端っこの方から。目立たないところから、少しずつ少しずつ。そうやってるとね、いつの間にか綺麗になってるもんなのよ。不思議とね」
そう言うと、彼女は「さてと」と立ち上がる。
「無理しなさんな。また明日、元気な顔見せておくれよ」
そして、ゆっくりとカートを押して去っていった。
廊下に再び静寂が戻る。
如月はその場に、うずくまったままだった。
清掃員の老婆が残した何気ない言葉。
それが、彼女の心の最も深い場所で反響する。
(端っこの方から。少しずつ……)
その瞬間。
彼女の瞳から、一筋の涙が溢れた。
それは、岡田の前でこらえた悔し涙とは違う。
虚無に閉ざされた心が、溶け出すような温かい涙だった。
(そうだ)
(そうだよ)
彼女の唇が動く。
「こういう人を救うんだ」
鈴木さんの優しい顔が浮かぶ。
「一人でも多く救うんだ」
光が戻ってくる。
彼女の瞳の奥で、忘れかけていた炎が再び燃え上がる。
それは、分析官としての如月のオリジン。
助けられなかった姉の姿。
備えがあれば救えたはずの命。
だから、私は《備えることで救うために》、この道を選んだのだ。
(国が動かせないから、終わりなはずがない)
(諦めたら、私の人生には何の意味がある)
(できることは、あるはずだ)
如月は、震える膝に力を込める。
脚が拒絶する。だが、《意志》がそれを叱責した。
痛む膝が、意志の命令に従って、ゆっくりと立ち上がる。
前を向く、その顔には、もう迷いはなかった。
「最善を尽くせ、如月遥」
それは、新しい戦いの始まりを告げる、彼女自身の魂への命令だった。
――そして。
彼女の再起を見届けたかのように携帯端末が震える。
取り出し、画面の光を見る。
そこに表示された通知。
件名【第二通信――予測演算結果および戦略的接触について】
差出人は匿名。
立ち上がった者にだけ、未来は語りかける。
――《運命》は、再び彼女に接触した。