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死線の国境──《ゾンビ》よ、知れ。日本が、容易く滅びると、思うな。  作者: 斉城ユヅル
第6章 聞こえざる宣戦布告――The Silent Declaration
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第9節 灯火――種火

執務室のドアを閉めた後、如月遥はどこへ向かうでもなく、力なく歩いていた。


官庁の長い廊下は、薄闇の静寂に包まれている。


自分の足音だけが、やけに大きく響いた。



彼女は冷たい壁に手をつき、そのまま崩れるようにして床にうずくまる。



もう立てなかった。


膝が笑い、呼吸が浅くなる。



(負けた)



完璧に。


一片の反論の余地もなく。


自分の理性も正義も、全てがあの男の前では無力だった。



(国が動かない。なら、終わりだ)



思考が停止する。


心が冷えていく。


涙すら出なかった。



ただただ、深い虚無が彼女を支配していた。



その時だった。


耳に着けた小型の通信機から、静かな声が響いた。


彼女のAIであるミューズの声だった。


*


遥さん


あなたの心が砕ける音が、私にも聞こえました。

あなたは正しかった。

あなたの論理は一点の曇りもなかった。


それでも、あなたは敗れた。理不尽ですね。


しかし、遥さん。


あなたは一つのことを見誤っています。


あなたの戦場は、審議官室ではありません。

あなたの敵は、岡田審議官ではない。


あなたの戦場は、この国そのもの。

あなたの敵は、迫り来る絶望です。


あなたの武器は、決裁権ではない。

あなたの武器は、情報です。


さあ、遥さん、顔を上げてください。


我々の戦いは、まだ始まったばかりです。


*


ミュズの言葉は、冷え切った彼女の心に確かに届いていた。


その光は暖かかった。


(ありがとう、ミュズ。分かってる。分かっているの。でも……)


でも、立てない。


心が、体を動かすことを拒絶している。


彼女は、うずくまったまま動けなかった。



どれくらいの時間が経っただろうか。



廊下の向こうから、車輪の音が聞こえてきた。


ゆっくりと近づいてくる。


顔なじみの夜間清掃員である、鈴木さんだった。


彼女はいつも通り、黙々と床を磨いている。



「あら、如月ちゃん。こんなところでどうしたんだい。大丈夫かい?」



腰を曲げた彼女が、優しい皺の刻まれた顔で如月を見下ろす。


その声には、純粋な心配の色があった。


如月は何かを答えようとした。



しかし、言葉にならなかった。



ただ首を横に振るだけで、精一杯だった。



鈴木さんは、それ以上何も聞かなかった。


ただ「そうかい」とだけ言って、彼女の隣の床を丁寧に拭き始める。


そして、独り言のように呟いた。



「まったく、この床のシミはしつこくてねえ。昨日もやったんだが、なかなか取れない」


「でもね、如月ちゃん。こういう頑固な汚れはね、真正面からゴシゴシやってもダメなのよ。かえって広がっちまう」


「端っこの方から。目立たないところから、少しずつ少しずつ。そうやってるとね、いつの間にか綺麗になってるもんなのよ。不思議とね」



そう言うと、彼女は「さてと」と立ち上がる。


「無理しなさんな。また明日、元気な顔見せておくれよ」


そして、ゆっくりとカートを押して去っていった。



廊下に再び静寂が戻る。



如月はその場に、うずくまったままだった。


清掃員の老婆が残した何気ない言葉。


それが、彼女の心の最も深い場所で反響する。



(端っこの方から。少しずつ……)



その瞬間。


彼女の瞳から、一筋の涙が溢れた。


それは、岡田の前でこらえた悔し涙とは違う。


虚無に閉ざされた心が、溶け出すような温かい涙だった。



(そうだ)


(そうだよ)



彼女の唇が動く。



「こういう人を救うんだ」



鈴木さんの優しい顔が浮かぶ。



「一人でも多く救うんだ」



光が戻ってくる。



彼女の瞳の奥で、忘れかけていた炎が再び燃え上がる。



それは、分析官としての如月のオリジン。



助けられなかった姉の姿。


備えがあれば救えたはずの命。



だから、私は《備えることで救うために》、この道を選んだのだ。



(国が動かせないから、終わりなはずがない)



(諦めたら、私の人生には何の意味がある)


(できることは、あるはずだ)



如月は、震える膝に力を込める。


脚が拒絶する。だが、《意志》がそれを叱責した。


痛む膝が、意志の命令に従って、ゆっくりと立ち上がる。



前を向く、その顔には、もう迷いはなかった。



「最善を尽くせ、如月遥」



それは、新しい戦いの始まりを告げる、彼女自身の魂への命令だった。




――そして。




彼女の再起を見届けたかのように携帯端末が震える。



取り出し、画面の光を見る。


そこに表示された通知。



件名【第二通信――予測演算結果および戦略的接触について】


差出人は匿名。



立ち上がった者にだけ、未来は語りかける。


――《運命》は、再び彼女に接触した。

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