第6節 静かなる布石――現場への警告
【D4(木)17:30】
【第一師団司令部幕僚長執務室】
午後五時半。
黒瀬慎也は、昨日と同じ執務室で、WEB会議用通信端末を立ち上げた。
画面に、秩夫市危機管理室長、深田の顔が映し出される。
黒瀬の背後にあるのは、退色した背表紙と金属製の名札が並ぶ、制度の象徴たる《書棚》だった。
過去の法令、作戦、教範。累積された国家の知性の堆積。
一方、深田の背後にあるのは、使い古された《ホワイトボード》。
地元消防との交信記録、市役所避難計画の線引き、マジックの色も途中で変わった痕跡がある。
生きた現場の痕跡。小さな現場の試行錯誤。
同じ赤い光が、それぞれの《責任》を照らしていた。
窓から差し込む六月の夕日。梅雨の晴れ間の、珍しく美しい夕暮れ。
しかし、その光はどこか物悲しく、一つの時代の終わりと、夜の始まりを暗示するようだった。
画面に映る深田の実直そうな顔には、約束の時刻とはいえ、二日続けての会談に、わずかな戸惑いの色が浮かんでいた。
昨日で、話は終わったはずではなかったか。
その思考が、彼の表情を硬くさせている。
「黒瀬一佐……昨日の協定の件で、何か書類に不備でもございましたか」
(不備などあるはずがない。昨日の会談は、あくまで口実だ)
黒瀬は、内心で呟き、静かに頭を下げる。
「いえ、深田室長。書類は完璧です。二日続けてのお時間をいただき、恐縮です」
「昨日の今日でご連絡したのは、他でもありません。昨日我々が話した『想定外』の事態。それが現実味を帯びてきた可能性がある」
その言葉に、深田の表情から安堵の色が消える。
彼の背筋が伸びた。
「……詳しくお聞かせいただけますか」
「昨日、室長が仰った『準備が大切』というお言葉。その言葉に、甘えさせていただきたい」
黒瀬は、そう切り出した。
「これは、あくまで可能性の話です。まず、新宿で起きた暴行事件。ニュースで、ご覧になりましたか」
深田の表情が、さらに引き締まる。
「はい。薬物か何かでしょうか。異常な事件だと」
「ええ。そして、あの事件は単発ではない。今朝から、都内における同様の事案が、緩やかに、しかし確実に増加しています」
黒瀬は、一度言葉を切り、深田の目を真っ直ぐに見据える。
「お尋ねしたい。秩夫では、何か変わったことは起きていませんか」
「いえ。秩夫は、至って平和なものです。今のところは」
「――それは何よりです。ただの一件ならば、私もこうして各市の防災担当に、連絡を取ることはない。しかし……」
黒瀬は、画面を共有し、一枚の世界地図を表示した。
アフリカ中央部から、世界の主要な港湾都市へ、そして東京へ。
赤い光点が、線を結んでいく。
「中央アフリカ共和国では、暴動により社会機能が崩壊しました。原因不明の暴動が、世界に飛び火している。そして、最後に東京です」
「証拠は、まだありません。しかし、私の分析補佐担当が、これらの事案を分析した結果、その発生パターンに、不気味なまでの一致を検出しました」
深田は、黙って画面の光点を見つめていた。
(中央アフリカ…?それが、なぜ東京の事件と繋がる…?いや、待て。この男は、自衛隊の高官だ。根拠なく、こんな話をするはずがない)
「そして、もう一つ」
黒瀬は、深田の思考を見透かすように、言葉を続ける。
「内閣府にいる、私が信頼するある分析官が、この事態に警鐘を鳴らし、内部で動き始めました。彼女の判断の速さと正確さには、定評がある」
(内閣府の分析官……)
深田の背筋を、冷たいものが走る。
これは、黒瀬個人の懸念ではない。国家中枢が関わる話だ。
そして黒瀬は、異常性に火をつける。
「ここだけの話にしていただきたい。報道されていない事実があります。現場の遺体を画像分析した非公式なデータによれば、人間のものとは思えないほどの『咬み跡』が、多数報告されている。それも、世界中の事件で。……新宿でも」
(咬み跡……?)
深田の思考が、一瞬停止する。
彼の知識の中に、この現象を説明できる引き出しは、一つもなかった。
黒瀬は、最後に絶望の決定打を告げる。
「……我々自衛隊は、正式な命令も、準備命令すらも受けていません。ですが、それを待っていては、手遅れになる。私はかつての信頼を頼りに、個人として情報共有と収集に動いています。――それだけの状況です」
(国が動かない……?こんな異常事態が、起きているのに?)
深田は、愕然とする。
テレビが報じる平和な日常のすぐ足元で、大地が静かに裂け始めている。
そして、そのことに気づいている人間は、ほんの一握りしかいない。
彼は、うずくまりたくなるような無力感に襲われた。
「もし、黒瀬一佐の仰る国家規模の事態が来たとき、市の危機管理室長として、できることなど……」
深田の口から、思わず不安が漏れた。
それは、長年現場を守ってきた男の偽らざる吐露だった。
その迷いうずくまった心に、黒瀬は静かに手を差し伸べる。
「今はまず、正確な状況を把握するための情報パイプを築くことが最優先です。私は常に国と市民の命を、最優先に考えている」
その言葉は、深田の心に静かに染み渡った。
黒瀬は、ただ恐怖を与えるだけではない。
この暗闇の中で、共に戦うための具体的な武器を差し出している。
「最低限、新宿と同様のケースを察知できる体制だけは、整えていただきたい。そして、何かあれば、誤報でも構わない。私まで連絡を」
それは、軍人から民間人への信頼の分与。
信頼関係にある個人間という形での水面下での警告と協力依頼だった。
長い沈黙。
(国の一大事となれば、黒瀬一佐がどう思っていようとも、秩夫だけを助けることなどできるはずがない。わが市を守るために、備えが……必要だ。それは――《俺の仕事》だ)
やがて、深田は顔を上げた。
その瞳には、もはや動揺はなかった。
動くと決めた男の覚悟が、そこにあった。
「黒瀬一佐。お話は理解しました。あくまで可能性としても、私にできる備えは、しておきます」
その言葉に、黒瀬は初めて、わずかに表情を緩めた。
静かな信頼の光が、二人の間に灯る。
「期待しています、深田室長。――それが、市民の命を救うことに繋がるかもしれない」
通信が切れる。
画面が暗転した。
いつもの会議室に、夕暮れの静寂が戻る。
深田は、しばらくの間、身動き一つしなかった。
やがて、彼は受話器を取り上げる。
そして、震える指で、一つの番号をダイヤルした。
相手は、秩夫消防署で、今や幹部となった、かつての後輩だった。
「俺だ、深田だ。……ああ、久しぶりだな。いや、少し気になることがあってな。お前のところで、何か変わったことはないか。どんな些細なことでもいい。救急出動で、妙な案件があったら、すぐに俺に教えてくれ。……ああ、そうだ。これはオフレコで頼む」
受話器を置いた深田は、すぐに別の番号を押した。
短く呼び出し音が鳴り、数秒後に応答があった。
「俺だ。……ああ、深田だ。済まないな、私用で。いや、実はちょっと気になることがあってな。最近、妙な通報や出動はなかったか? たとえば、通報内容と現場の様子が食い違っていたり……発作や錯乱のような症状で、現場が混乱したとか、そんな案件だ」
相手には見えないのに、深田は静かに頷く。
「……なるほど、無いならいいんだ。そうだ、新宿の事件が気になってな。今は《備えの感覚》を研ぎ澄ませておきたいだけだ。うん、それで構わない。もし何かあれば概要だけでもいい、直ぐに知らせてくれ。……ああ、わかってる。これはあくまで非公式だ。互いに職責を越えない範囲で、頼む」
一拍置き、深田は穏やかな声で付け加えた。
「……すまん。恩に着る。いざという時には、こちらからも何かしら支援できるはずだ。困ったら言ってくれ」
通話を切ると、受話器の重みが掌に残った。
深田は一度、深く息を吐いてから、椅子に沈み込むように背を預けた。
窓の外は既に、夜の闇に支配され始めていた。
(消防と警察への連絡は済ませた。黒瀬一佐に言われた通りだ)
(これでいい。いや、これでいいのか?)
彼の脳裏に、黒瀬の静かな、しかし、確信がこもった声が響く。
『世界的な異常』『咬み跡』『国家の沈黙』。
一つ一つの言葉が、鉛のように重い。
(情報はこれから俺の元に集まる。だがそれは津波が来るのを、ただ高台から眺めているのと同じではないか)
(俺はただ座して待つことしかできないのか。この椅子の上で)
彼は自分の掌を見つめる。
長年、現場で働いてきた男の手だ。
人を助けるための手だ。
しかし、今その手は、何もできない。
(だが、これ以上俺に何ができる)
(一体、何ができるというのだ)
焦燥感が彼の心を焼く。
静かな会議室で深田はただ一人。
これから訪れるであろう、長い夜の始まりに立ち竦んでいた。