第5節 審議官の壁――《首を賭ける》ということ
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【D4(木) 17:40】
【内閣危機管理局 審議官執務室】
岡田は、執務室の椅子に深く身を沈めていた。
時刻は、午後五時半すぎ。
一日の終わりを告げる西日が、彼の顔に深い影を落とす。
彼の視線はただ一点、タブレットに表示された一通のメールに注がれていた。
*
【緊急報告書】
(警告)未知の生体脅威による社会的免疫機能の連鎖的崩壊リスクについて
宛先:内閣危機管理局・岡田審議官
差出人:内閣危機管理局 国土危機情報分析官 如月遥
日付:6月19日(木)17:30
1.要旨
本日午前より全国各地で発生している複数の異常暴力事案について、既知の犯罪・薬物・精神疾患・感染症等の既存要因のみでは説明できない共通性が複数認められる。
事案の同時性と伝播傾向から、未知の生体脅威(感染性を持つ何らかの要因)の可能性を強く示唆する事例が複数報告されている。
特に、本脅威は警察・医療関係者など、社会の「免疫機能」を担う現場対応者が主な感染・被害対象となっており、事態が進行した場合、治安・医療インフラが連鎖的に機能不全に陥る危険性が高い。
現時点で、最悪のケースとして「社会的免疫不全による都市機能の崩壊」も想定されるため、事態レベルの早期引き上げ、および全対応部門によるリスク共有・対策準備を強く要望します。
2.観測事実(本日時点の主な例)
異常行動を伴う暴力事件の多発
D4午前中、全国で12件の類似事件を観測。いずれも「異常な攻撃性」「咬傷」等の特徴を共有(資料A参照)。
加害者の一部が措置入院などの医療機関に移送後、記録が途絶
※通常の刑事手続きと異なり、追跡困難な例が複数発生。
感染疑いを含む対応人員(警察・医療従事者等)の異常な負傷率
(資料C参照)
移送・対応先が一部医療機関に偏在
特定病院・精神科救急等に事例が集中する傾向あり(資料B参照)。
*
また彼女か。
岡田の口からため息が漏れる。
内閣危機管理局が誇る若きエース。
よく切れる鋭利な刃、そして危うい劇薬。
彼はその報告書を読み進める。
そこに記されていたのは、彼女特有の無駄を削ぎ落とした論理の刃だった。
全国で散発する異常暴力事件。
加害者が医療機関へ移送後、記録が途絶する不可解なフロー。
警察と医療という社会の免疫機能が、未知の脅威に集中攻撃されているという仮説。
*
3. 推論と脅威評価
感染経路と本質: 本脅威は、咬傷等を主な感染経路とする、未知の病原体であると推察される。その本質は、社会の免疫システム(警察・医療)を標的とした、効率的かつ破壊的な攻撃である。
構造的崩壊リスク: 治安と医療の最前線が、感染の温床と化している。これは、白血球が、体内に侵入した細菌を処理する過程で、自ら崩壊する過程に酷似している。社会の免疫システムは、今、自らを食い潰しながら、機能している。
潜在的脅威の規模: 屋外で確認された個体は、氷山の一角に過ぎない可能性が高い。大多数の不顕在発症者が、屋内に留まっていると仮定した場合、実際の感染者数は、観測数の数倍に上る危険性がある。
4. 緊急提言
脅威レベルの即時引き上げ: 本事案を「テロ・大災害」に準ずる国家第一級の危機事態と認定し、超法規的措置も視野に入れた対応司令室を設置すること。
全対応人員への最高レベル防護措置: 全国の警察・消防・医療関係者に対し、バイオハザードレベル4に準拠した、個人用防護装備の、即時着用を義務付けること。
隔離施設の集約と一元管理: 関連する全ての患者・加害者・濃厚接触者を、自衛隊施設等の、完全に隔離可能な単一の施設へと移送し、情報を一元管理すること。
*
そして全ての対応部門に、最高レベルの警戒を促す、過激すぎる提言。
「見事な分析だ……」
岡田は思わず呟く。
もしこれが机上の演習ならば、満点を与えるだろう。
だが、これは現実だ。
彼の指が、添付資料のリストをタップする。
資料B:移送先医療機関および担当警察署マッピング。
都内の地図上にプロットされた光の点。
彼はそれをただの記号として目で追う。
国家という巨大な機械を管理するための情報。
そう割り切らねば、この仕事は務まらない。
ーーだが。
彼の視線が、ある一つの病院名の上で凍りついた。
都内でもトップクラスの高度救命センターを持つ精神科救急指定病院。
……岡田の娘が、看護師として勤務する病院だった。
思考が静かに崩れた。
報告書の文字が意味を失い、彼の脳裏にたった一つの光景が浮かぶ。
「パパも体に気をつけてね!」
そう言って、笑顔で家を出ていく娘の背中。
彼女が今まさにこの報告書が示す、汚染区域の最前線にいる。
(まさか……)
彼の鉄壁の理性に、これまでとは比較にならない巨大な亀裂が入る。
だが、それも一瞬だった。
官僚としての彼の自己防衛本能が、即座にその亀裂を埋め立てる。
(待て)
彼の思考が、警鐘を鳴らす。
(これは、個人的な恐怖だ。国家の危機とは、直結しない)
彼は思考を、強引に冷静な審議官としてのそれに切り替えた。
第一の壁が立ち上がる。証拠の壁。
(如月君のレポートは仮説に過ぎない。肝心の病原体は特定されていない。煙しか見えない状況で国家は動かせない。それはギャンブルだ)
第二の壁が続く。組織の壁。
(警察庁も厚労省も、公式報告を上げていない。私が頭越しに越権行為をすれば、組織の論理として、反発を招く。本当の危機が来たときに、動けなくなる)
そして第三の壁。二次災害の壁。
(仮に、これが事実だとして公表すればどうなる。制御不能のパニック。暴動が起きる。経済が崩壊する。人命も失われる。どちらがより大きな被害か、判断がつかない)
そうだ、動けない。いや、動いてはならない。
岡田はタブレットの電源を落とし、目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、報告書の文字ではない。
差出人である如月遥の顔だ。
岡田は、如月という分析官を極めて高く評価している。
入省以来の完璧な実績。
しかし、常に報告書の片隅に滲む過激なまでの正義感と危機意識。
(あのレポートをこのまま公式ルートに乗せれば、彼女のキャリアは終わる)
岡田は、確信していた。
証拠不十分な警告で、国家を動かそうとした危険人物。
そうレッテルを貼られ、二度と重要なポストにはつけなくなるだろう。
彼女の、その鋭利すぎる才能は、暴走させれば、彼女自身を破滅させる。
(首を賭けるというカードは、切るべき時がある。だが、今ではない)
(そして、そのカードを、彼女に切らせてはならない)
それは保身を超えた、ある種の親心に近い感情だった。
この国にとって価値ある刃を、折らせるわけにはいかない。
だからこそ、自分が防波堤になる。
情報をコントロールし、彼女の暴走を止め、そして、最善のタイミングで動く。
それがこの状況における、唯一の正解だ。
岡田は、正しく決断を下した。
そして、その報告書を誰の目にも触れぬよう、メールフォルダーの奥深くにしまい込む。
ーーその時、執務室の空気がわずかに揺れた。
コンコン。
執務室のドアが静かにノックされた。
「失礼します、岡田審議官」
声の主は如月遥だった。
「入りたまえ」
彼女は静かにドアを開け、岡田の前に立つ。
その瞳には、一切の迷いがない。
その爛々と光る瞳を見て、岡田は考える。
(……さて、どう説得するか)
(だが――この目だ)
真正面から向けられたその眼差しに、岡田はわずかに息を呑む。
(この瞳を持つ官僚が、いま、この国に何人いる?)
(だからこそ、消させてはならない。折らせてはならない)
(慎重に……慎重に、対応せねば)
如月遥は一歩、静かに前へ出た。
「お時間をいただけますでしょうか」