第3節 世界は眠る――常識という壁
本日3話目を更新します。
お待たせしました。《ゾンビ》映ります。
【D4(木) 午前8時】
【首都圏近郊・通勤電車内】
がたん、ごとん、と規則正しいリズムを刻む車輪の音だけが、やけに大きく鼓膜を揺らす。
吊り革を握る如月遥の目は、手元にあるスマートフォンの画面、その一点に縫い付けられていた。
指先は、冷え切っている。
今朝、匿名のメールが彼女の眠りを奪ってから、一度も、その熱を取り戻すことはなかった。
SNSのタイムラインを、親指が機械的にスクロールしていく。
膨大な情報の奔流。そのほとんどは、昨日までの世界と、何も変わらない、穏やかなノイズの集合体だ。
『【速報】W杯アジア最終予選、日本、劇的勝利で本戦出場決定!』
『夏のボーナス、去年より増えてた!神!』
『新作フラペチーノ、もう飲んだ?甘すぎなくて最高なんだけど』
その、あまりにも平和な文字列の間に、それは、ぽつりと、誰にも気づかれずに存在していた。
『昨日の新宿の事件、ヤバすぎw友達曰く、警官相手にマジで手加減なしだったらしい。複数人で一人を、とかじゃなくて、一人が、何人もの警官を相手に!頭おかしいwww』
リプライ、ゼロ。
いいね、数個。
世界が発する、か細い悲鳴。
それは、熱狂的な勝利への歓声と、限定スイーツへの期待の声にかき消され、誰の目にも留まらずに、情報の海の底へと沈んでいく。
(……アフリカのデモなんて、ニュースにすら、ならない)
自嘲的な言葉が、胸の中で切なく響く。
あの国で起きたことの「本質」を、何人の人間が知っているのだろう?
ふと顔を上げると、目の前の車内ビジョンが、朝のニュース番組を映し出していた。
快活な笑顔の女性アナウンサーが、神妙な面持ちの男性に視線を移す。
「さて、深夜、新宿で発生した傷害事件ですが、専門家にお話を伺います。先生、これは、一体、どのように見ればよろしいのでしょうか?」
画面に『犯罪心理学専門家・〇〇大学教授』というテロップが重なる。
白衣を着た、人の良さそうな初老の男性は、深く頷き、穏やかな口調で語り始めた。
「ええ。《薬物乱用》は非常に根深い問題です。現代社会が抱える歪みが、ついに、このような形で噴出してしまった、と見るべきでしょう。SNSによる過度な承認欲求、あるいは、経済格差が生み出す深刻な疎外感…。我々は、犯人たちを一方的に断罪するだけでなく、薬物乱用の背景にある《声なき声》に、真摯に耳を傾けるべき時に来ています」
知的で、人道的で、そして、真実から最も遠い言葉。
如月は、思わず目を閉じた。
違う。
違う、違う、違う。
これは、社会学的な問題などではない。
もっと、シンプルで、根源的で圧倒的な――物理的な脅威だ。
【同時刻・都内テレビ局・報道フロア】
「……また、あの大学教授のコメントかよ。無難すぎて、何も残らねえんだよな」
朝のニュース番組が流れるモニターを見て、ADが小さく毒づく。
だが、その声に反応する者はいなかった。
各デスクでは、今日も変わらぬ《日常の報道業務》が粛々と進んでいた。
ただ一人、編集部の若手スタッフ・八木を除いて。
彼は席に座り、ノートPCに保存された一本の動画を、何度目かもわからないほど繰り返し再生していた。
――提供元不明。今朝未明、匿名アカウントから報道窓口に送信されたものだ。
内容は、新宿駅前で起きた「警官襲撃事件」とされる映像。
薄暗い街頭の明かりの中、警察官たちが制止しようとする一人の人物が、異常な速さで飛びかかり、正面から襲いかかる。
一瞬で、一人の警官が吹き飛ばされる。
――明らかに、ただの《錯乱者》ではない。
八木は、意を決して立ち上がった。
「課長、少し……」
報道課長の席に歩み寄り、タブレットを差し出す。
「今朝未明に届いた、匿名の提供映像です。新宿の事件の件ですけど……どうにも様子がおかしくて」
課長は肩越しに目を向け、軽くため息をついた。
「匿名か。信用できる出所なのか?」
「正直、不明です。でも、見ていただけませんか。どうしても、通常の暴行事件には見えなくて――」
画面を見た課長は、数秒無言のまま映像を眺めた。
やがて、静かにタブレットを机に戻す。
「なあ八木。この映像一本だけだよな?」
「はい……ただ、警官にあそこまでためらいなく突っ込む行動は、前例が無いと思います。薬物でも、精神疾患でも、普通は――」
「それは《お前の意見》だ。裏取りは? 他に同じ映像は?」
「ありません。SNSでは、現場を見たって投稿がいくつかあるくらいで、動画はこれだけです。でも――」
「じゃあダメだな」
課長は、明確な口調で断言した。
「匿名で裏も取れない。SNSでも出回ってない。警察発表は《錯乱者》による暴行だ。それを無視して、《おかしい気がする》って理由でニュース流したらどうなると思う?テレビが《不安煽ってる》って、スポンサーに苦情が行く。報道の信用が死ぬ」
「……けど、何か違うんです。本当に、この事件は」
「違うかどうかを判断するのはお前じゃない。政府でも警察でもいい、社会的な認定があって初めて、それは報道できる事実になる。今はまだ、一件の深夜の暴行なんだよ。わかるか?」
八木は、何も言えなかった。
「映像は保存しとけ。いざというとき役に立つかもしれない。でも今は触れるな。使えない素材に時間を割くな。仕事しろ、仕事」
タブレットを受け取り、自席に戻る。
再び、何度目かの再生をかける。
同じ映像。同じ異常性。そして、同じ無力感。
彼は、動画をそっと閉じた。
冷めきった珈琲のカップに口をつける。
溜まりつつある次の業務が、彼を待っていた。
【内閣危機管理局・オフィス】
「――おはようございます」
IDカードをゲートにかざし、オフィスへと足を踏み入れる。
途端に、昨日までと何も変わらない、平和な日常の空気が、彼女の全身を包んだ。
「あ、如月さん、おはようございます!週末、子供とキャンプに行ったんですよ。見てくださいよ、この写真!」
隣の席の同僚が、屈託のない笑顔で、PCの画面を彼女に向ける。
そこには、満面の笑みでバーベキューの串を掲げる、幼い男の子の姿があった。
デスクからは、淹れたてのコーヒーの、香ばしい匂いが立ち上っている。
「……いい、写真ですね」
声が、震えなかっただろうか。
笑顔が、引きつっていなかっただろうか。
通路から、同僚たちの、楽しそうな笑い声が漏れ聞こえてくる。
「今朝の部長の顔、完全に寝不足でしたよね」
「昨日の飲み会、結局、朝までコースだったらしいですよ」
「マジすか!今日の会議、絶対、乗り切れないじゃないですか!」
笑い声。
コーヒーの香り。
子供の写真。
平和で、穏やかで、かけがえのない日常。
(この、笑い声が)
胸の奥が、急速に凍りついていくのを感じる。
(この、コーヒーの香りが)
――数日後には、すべて消え失せているかもしれない。
そのあまりにも現実離れした想像が、しかし、今の彼女にとっては、あり得る「未来」だった。
世界は音を立てずに死んでいく。
その死に、誰も気づかない。
如月は、自席の椅子に深く腰を下ろした。
そして、静かに目を閉じる。
平和な日常と危機的な現状認識のギャップに酷い眩暈がした。
だが、その眩暈の奥で、一つの鋭利で硬質な感情が、ゆっくりと形を成していくのを、彼女は感じていた。
それは諦めではない。
――戦意。
そうだ。
戦うのだ。
この長閑で、愚かで、しかし、守るべき世界のために。
如月は、ゆっくりと目を開いた。
その瞳に迷いはない。
「……やれることから、やるしかない」
独り言が、誰にも聞こえない声で唇から漏れる。
「誰も気づかないなら、私が気づかせればいい」
それは、この国でたった一人、愛すべき平和な世界に叩きつけた、明確な宣戦布告だった。




