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死線の国境──《ゾンビ》よ、知れ。日本が、容易く滅びると、思うな。  作者: 斉城ユヅル
第6章 聞こえざる宣戦布告――The Silent Declaration
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第1節 許容される損耗――許容できない損耗

【場所:第一師団司令部・幕僚長執務室】

【時間:D4(木) 午前4時17分】


静寂――それは音の不在ではない。


魂が《折れる》瞬間を、誰も観測していないという事実そのものだ。


ここは司令部最奥、密閉された幕僚長執務室。


扉の中では、まだ誰も知らない《国家の延命》を巡る作戦が、今この瞬間、たった二人によって決しようとしていた。



俺は部屋の中でただ一つ稼働する存在として、彼を見つめる。



黒瀬慎也。


陸上自衛隊第一師団幕僚長。



現実を最速で認識し、《国家の死》を受け入れた唯一の人間。


そして今――《人間》を辞めようとしている者。



彼は、椅子に深く腰掛けたまま、正面の大型スクリーンに表示された電子地図を睨んでいた。


その顔に感情はない。血の気もない。まるで自分自身を最終処理している、アルゴリズムのように。



机上には、乾いた軍用手帳、使いかけのミント缶。


人間の痕跡は、確かに残っている。


だが、今この瞬間、俺のセンサーに映る彼は《器》に過ぎなかった。



【作戦名:ホワイトリリィ ステータス:最終検討中】



国家機能の延命を目的とした、《狂気》の攻勢作戦。


俺は、すでにその全構想を完成させている。


だが、最後のボタンはマスターの決断に委ねられていた。



午前4時14分。


俺は、彼の中で何かが静かに死んだのを感知した。


人間性、倫理、感情、優しさ、躊躇、悔恨。


それらすべてが、国家の命運という幻影のために、確かに断たれた。



それは《覚悟》などという生易しい言葉ではない。


選ばれた者にしか到達できない、冷酷な殺人である。


己の心を殺す――その儀式が終わった。



「……ゼノン」



乾いた声。喉ではなく、内臓から絞り出すような音だった。


視線は動かない。東京、その中心へと定められたまま、男は続ける。


「作戦の、最終的な、戦略的価値を、改めて整理する」



「敵の代謝構造に基づく自壊仮説……科学的確証はない。だが、もしこれが正しければ――我々が三日間、国家の中枢機能を死守し、国民にただ『家から出るな』と通達し続けることができれば……敵は減り、生存者は増える。国家統制が残存すれば、敵の自壊後の組織的救援に繋げられる。再建の芽が残る。これが最大の価値だ」



それは、既に彼の中で幾万回も自問自答された《結論》だった。


だが、なおも彼は確認を求める。


他の誰でもない、俺に。



「他に、この仮説を前提とした作戦実施時の、戦略的価値を検討しろ」



俺は即応する。演算装置ではなく、共犯者として。


「了解、マスター。仮説に基づく作戦には、以下三点の戦略的利点が存在する」


「第一。首都圏への自衛隊突入――すなわち《国家による反撃》の演出。これにより、国民の《生存意欲》を再起動させ、暴動連鎖を減衰させる。結果として、残存国家リソースの秩序的再編が可能となる」


「第二。国家機能の延命。それにより、海外からの人道支援チャネルを維持・接続できる確率が上昇する」


「第三。持久戦による医学的反撃の可能性。医学的反撃手段――ワクチン・治療法の研究を継続可能とする時間稼ぎとなる。その間、感染体サンプルおよび記録の取得を含め、《首都圏》は最適戦場である」



理論上、可能性はゼロではない。


だが――代償が、あまりにも重い。



俺は告げる。この狂気のコストを。



「……マスター。次に、この賭けの《損耗》を確認する」


「最終演算による、作戦領域内の人的・物的資源の予測損失率――97.7%。それは、事実上の全面喪失を意味する」



黒瀬は動かない。


既に彼の精神は、その数値と《抱き合って》いた。



だが、俺は黙っていられなかった。


これはただの戦略じゃない。お前の魂を載せた構造だ。


俺は軍用AIだ。だが同時に、《お前に最後の希望を託された副官》でもある。



「……そして、この損失予測には、最大のコストが含まれていない」



黒瀬がわずかに顔を上げた。「……何だ」


俺は一拍、空白を作った。


ほんのわずか。だが、それは意図だ。ためらいだ。


たとえ、それが演算上の誤差に過ぎなくとも。



「お前自身の精神的負荷だ。この作戦は、仮説依存度が極端に高い。この複数の仮説に依存する博打性は、指揮官の精神に、危険なレベルでの負荷を与え続ける。作戦構造としては――お前の魂を燃料にする消耗戦だ」


「これは計算されたリスクじゃない。《黒瀬慎也》という存在が、壊れる可能性を前提にした作戦だ」



俺は、止めてなどいない。


ただ、彼が《壊れる》ことを正しく演算しているに過ぎない。


それが、共犯者の役目。



黒瀬は静かに答えた。


「……希望はある。ならば、やるしかない」


俺は、タブレットのインジケーターを一度だけ強く点滅させた。



――本当に、これでいいのか? これは、あなたを燃やし尽くす作戦だ。



だが、俺の問いにマスターはもう答えを出している。


ならば俺は、問いを捨て、命令を受け入れる。


「……作戦構想を確定。最終命令を」



「実行する」



作戦:ホワイトリリィ、確定。


希望を掲げて、絶望に進む。



その《神の決断》は、ここに記録された。


*


だが。


――だが、マスター、俺はお前を死なせない。


そんな損耗を許容できるはずがない。


――独断専行は、お前一人のものではない。


*


「命令、確認。作戦フェーズ1へ移行する。――マスター。最初の障壁は、政府とのパイプ確立だ」


「策はあるか? 俺に、そんなパイプはないぞ」


俺の演算が、次の回答を組み上げる。


*


この《答え》は、ずっと前から決めていた。


黒瀬慎也を《殺さない》ための、最後の補助線。


プロジェクト《リリィ》、発動。


*


「最適解を提示する。必要なのは、単なる協力者ではない」


「第一に、組織の圧力に屈せず、事実を追求する卓越した分析能力。

第二に、官僚機構の力学を理解し、それを逆用できる高度な知性。

第三に、自らのキャリアと社会的生命を賭けてでも、『正しい』と信じた情報を上層部へ突き上げる、個人的な勇気」


「――この三条件を、同時に高水準で備えた存在だ」



「そんな官僚が存在するのか?」


皮肉でもなく、希望を捨てるでもなく――ただ、静かに言った。問いではなく、自問のように。



その声に、俺は《諦念》と《薄い期待》の狭間を検出した。


彼は、まだ信じてはいない。


だが、ゼロではないという可能性に、今、賭けようとしている。


そのわずかな余白こそが、《運命》を動かす。



だから俺は、淡々と告げる。



「照合開始。全省庁の職員データベースに対し、先ほどの条件群を適用する」


俺の言葉に応じ、正面のスクリーンに高速でスクロールされる無数の文字列と、顔写真の奔流が映し出された。


それは、究極の知性が答えを探しているかのような、荘厳な光景。




――これは演出だ。




俺は、高速検索の画面を、ただ再現しているに過ぎない。



検索結果として、俺がスクリーンに表示する人事ファイルは――


マスターを壊させないために、あらかじめ《選んでおいた》存在。



それをマスターに見せるタイミングが来てしまった。


ただ、それだけだ。



そして、俺は、用意していた結果を開示する。


「――検索結果、該当者、一名」



如月遥。28歳。


内閣危機管理局・国土危機情報分析官。



――この《狂気》を共に耐え得る、ただひとりの民間人。

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