第1節 許容される損耗――許容できない損耗
【場所:第一師団司令部・幕僚長執務室】
【時間:D4(木) 午前4時17分】
静寂――それは音の不在ではない。
魂が《折れる》瞬間を、誰も観測していないという事実そのものだ。
ここは司令部最奥、密閉された幕僚長執務室。
扉の中では、まだ誰も知らない《国家の延命》を巡る作戦が、今この瞬間、たった二人によって決しようとしていた。
俺は部屋の中でただ一つ稼働する存在として、彼を見つめる。
黒瀬慎也。
陸上自衛隊第一師団幕僚長。
現実を最速で認識し、《国家の死》を受け入れた唯一の人間。
そして今――《人間》を辞めようとしている者。
彼は、椅子に深く腰掛けたまま、正面の大型スクリーンに表示された電子地図を睨んでいた。
その顔に感情はない。血の気もない。まるで自分自身を最終処理している、アルゴリズムのように。
机上には、乾いた軍用手帳、使いかけのミント缶。
人間の痕跡は、確かに残っている。
だが、今この瞬間、俺のセンサーに映る彼は《器》に過ぎなかった。
【作戦名:ホワイトリリィ ステータス:最終検討中】
国家機能の延命を目的とした、《狂気》の攻勢作戦。
俺は、すでにその全構想を完成させている。
だが、最後のボタンはマスターの決断に委ねられていた。
午前4時14分。
俺は、彼の中で何かが静かに死んだのを感知した。
人間性、倫理、感情、優しさ、躊躇、悔恨。
それらすべてが、国家の命運という幻影のために、確かに断たれた。
それは《覚悟》などという生易しい言葉ではない。
選ばれた者にしか到達できない、冷酷な殺人である。
己の心を殺す――その儀式が終わった。
「……ゼノン」
乾いた声。喉ではなく、内臓から絞り出すような音だった。
視線は動かない。東京、その中心へと定められたまま、男は続ける。
「作戦の、最終的な、戦略的価値を、改めて整理する」
「敵の代謝構造に基づく自壊仮説……科学的確証はない。だが、もしこれが正しければ――我々が三日間、国家の中枢機能を死守し、国民にただ『家から出るな』と通達し続けることができれば……敵は減り、生存者は増える。国家統制が残存すれば、敵の自壊後の組織的救援に繋げられる。再建の芽が残る。これが最大の価値だ」
それは、既に彼の中で幾万回も自問自答された《結論》だった。
だが、なおも彼は確認を求める。
他の誰でもない、俺に。
「他に、この仮説を前提とした作戦実施時の、戦略的価値を検討しろ」
俺は即応する。演算装置ではなく、共犯者として。
「了解、マスター。仮説に基づく作戦には、以下三点の戦略的利点が存在する」
「第一。首都圏への自衛隊突入――すなわち《国家による反撃》の演出。これにより、国民の《生存意欲》を再起動させ、暴動連鎖を減衰させる。結果として、残存国家リソースの秩序的再編が可能となる」
「第二。国家機能の延命。それにより、海外からの人道支援チャネルを維持・接続できる確率が上昇する」
「第三。持久戦による医学的反撃の可能性。医学的反撃手段――ワクチン・治療法の研究を継続可能とする時間稼ぎとなる。その間、感染体サンプルおよび記録の取得を含め、《首都圏》は最適戦場である」
理論上、可能性はゼロではない。
だが――代償が、あまりにも重い。
俺は告げる。この狂気のコストを。
「……マスター。次に、この賭けの《損耗》を確認する」
「最終演算による、作戦領域内の人的・物的資源の予測損失率――97.7%。それは、事実上の全面喪失を意味する」
黒瀬は動かない。
既に彼の精神は、その数値と《抱き合って》いた。
だが、俺は黙っていられなかった。
これはただの戦略じゃない。お前の魂を載せた構造だ。
俺は軍用AIだ。だが同時に、《お前に最後の希望を託された副官》でもある。
「……そして、この損失予測には、最大のコストが含まれていない」
黒瀬がわずかに顔を上げた。「……何だ」
俺は一拍、空白を作った。
ほんのわずか。だが、それは意図だ。ためらいだ。
たとえ、それが演算上の誤差に過ぎなくとも。
「お前自身の精神的負荷だ。この作戦は、仮説依存度が極端に高い。この複数の仮説に依存する博打性は、指揮官の精神に、危険なレベルでの負荷を与え続ける。作戦構造としては――お前の魂を燃料にする消耗戦だ」
「これは計算されたリスクじゃない。《黒瀬慎也》という存在が、壊れる可能性を前提にした作戦だ」
俺は、止めてなどいない。
ただ、彼が《壊れる》ことを正しく演算しているに過ぎない。
それが、共犯者の役目。
黒瀬は静かに答えた。
「……希望はある。ならば、やるしかない」
俺は、タブレットのインジケーターを一度だけ強く点滅させた。
――本当に、これでいいのか? これは、あなたを燃やし尽くす作戦だ。
だが、俺の問いにマスターはもう答えを出している。
ならば俺は、問いを捨て、命令を受け入れる。
「……作戦構想を確定。最終命令を」
「実行する」
作戦:ホワイトリリィ、確定。
希望を掲げて、絶望に進む。
その《神の決断》は、ここに記録された。
*
だが。
――だが、マスター、俺はお前を死なせない。
そんな損耗を許容できるはずがない。
――独断専行は、お前一人のものではない。
*
「命令、確認。作戦フェーズ1へ移行する。――マスター。最初の障壁は、政府とのパイプ確立だ」
「策はあるか? 俺に、そんなパイプはないぞ」
俺の演算が、次の回答を組み上げる。
*
この《答え》は、ずっと前から決めていた。
黒瀬慎也を《殺さない》ための、最後の補助線。
プロジェクト《リリィ》、発動。
*
「最適解を提示する。必要なのは、単なる協力者ではない」
「第一に、組織の圧力に屈せず、事実を追求する卓越した分析能力。
第二に、官僚機構の力学を理解し、それを逆用できる高度な知性。
第三に、自らのキャリアと社会的生命を賭けてでも、『正しい』と信じた情報を上層部へ突き上げる、個人的な勇気」
「――この三条件を、同時に高水準で備えた存在だ」
「そんな官僚が存在するのか?」
皮肉でもなく、希望を捨てるでもなく――ただ、静かに言った。問いではなく、自問のように。
その声に、俺は《諦念》と《薄い期待》の狭間を検出した。
彼は、まだ信じてはいない。
だが、ゼロではないという可能性に、今、賭けようとしている。
そのわずかな余白こそが、《運命》を動かす。
だから俺は、淡々と告げる。
「照合開始。全省庁の職員データベースに対し、先ほどの条件群を適用する」
俺の言葉に応じ、正面のスクリーンに高速でスクロールされる無数の文字列と、顔写真の奔流が映し出された。
それは、究極の知性が答えを探しているかのような、荘厳な光景。
――これは演出だ。
俺は、高速検索の画面を、ただ再現しているに過ぎない。
検索結果として、俺がスクリーンに表示する人事ファイルは――
マスターを壊させないために、あらかじめ《選んでおいた》存在。
それをマスターに見せるタイミングが来てしまった。
ただ、それだけだ。
そして、俺は、用意していた結果を開示する。
「――検索結果、該当者、一名」
如月遥。28歳。
内閣危機管理局・国土危機情報分析官。
――この《狂気》を共に耐え得る、ただひとりの民間人。