幕間 希望の歩幅──霞が関の小さな疾走
【D-30】
廊下を駆ける軽やかな足音が、無機質な官庁の朝にリズムを刻んだ。
午前八時四十三分。永田町、内閣府庁舎。
「すみませんっ、失礼しますっ!」
小動物のように素早く、けれど凛とした声で。
すれ違う職員たちに律儀に頭を下げながら、内閣危機管理局・国土危機情報分析官、如月遥は小脇に抱えたノートPCが滑り落ちそうになるのを、必死に押さえていた。
まだ初夏だというのに、額には細かな汗が滲んでいる。
きつく結んだポニーテールが、その快活な動きに合わせて、楽しげに揺れた。
その姿に、周囲の職員たちはどこか微笑ましげな眼差しを向けていた。
彼女が滑り込みで会議に飛び込む姿は、この内閣危機管理局では、もはや新しい一日が始まる合図のようなものになっていた。
「おはようございま――っす!」
笑顔とも焦りともつかぬ表情で会議室のドアを開けると、案の定、定例のミーティングはすでに始まっていた。
上司である岡田審議官が、その厳つい顔に、わざとらしいほど大きな皺を寄せてみせる。
「おはよう、如月君。君の時計は、我々より五分だけ、過去を生きているようだな」
「申し訳ありません!今朝方、交通インフラの脆弱性評価レポートが更新されていたのを見つけてしまいまして!」
言い訳になっていない言い訳を口にしながら、彼女は素早く自席に着く。
即座にPCを起動し、議事録を驚異的な速さで目で追った。
白いシャツの袖を軽くまくり、キーボードを叩くその指先は、まるでピアノを奏でるように軽やかだった。
この部署では、《何も起きていないこと》こそが日常である。
それはすなわち、すべての仕事が「まだ起きていない、あるいは永遠に起きないかもしれない危機」に備えるという、終わりなき矛盾を抱えていることを意味していた。
だが、彼女は、その《矛盾》をこそ、誇りとしていた。
「では、次の議題に移る。来月の国会における危機管理体制に関する想定問答集の件だ。担当は如月君、進捗を」
話を振られ、如月はすっと立ち上がる。
その瞬間、廊下を駆けていた時の子供っぽい慌ただしさは影を潜め、会議室の空気が、彼女の纏う静かな知性に一瞬で支配された。
「はい。こちらが、私が作成した答弁草案の骨子です」
メインスクリーンに、彼女が夜を徹して作り上げた草案が映し出される。
そこには、野党からの厳しい追及を想定した一分の隙もないロジックと、それを裏付ける膨大なデータが整然と並んでいた。
岡田審議官が、腕を組み、唸る。
「相変わらず、見事な出来だ。これなら、どんなヤジも封じ込めるだろう。・・・だが、如月君」
彼は、ある一文を指差した。
「この部分。『我々が想定すべきは、起こりうる危機ではなく、起こり得ると想像すらしなかった危機です』これは、少し、踏み込みすぎてはいないか? 野党に現行体制の不備を認める口実を与えることになるぞ」
「ですが、事実です」と、彼女は即答した。
「事実と、答弁は違う。我々の仕事は、波風を立てぬように舵を取ることも含むんだ」
「波風を恐れて、真実から目を逸らした結果、救える命が救えなくなるのだとしたら──それこそが、私たちの怠慢です」
あまりにも真っ直ぐな言葉。
会議室が静まり返る。
彼女は構わず続けた。
「草案の最後の一文にも、こう書かせていただきました。『最悪を想定することは、悲観ではありません。それは、国民の明日に対して、我々が負うべき、最も誠実な責任です』──私は、この一文だけは、削るべきではないと考えます」
岡田は、少しの間、何も言わなかった。
やがて、深く一つだけ息を吐き、「・・・分かった。この線で、最終稿をまとめてくれ」とだけ告げた。
会議が終わり、同僚たちがぞろぞろと部屋を出ていく。
「相変わらず、青臭いんだから」「でも、あれが彼女のいいところだよな」
そんな声が、遠くに聞こえた。
一人、席に残った彼女は、会議の議事録を打ち込みながら、微笑んだ。
今日もまた、何も起きない平和な一日が、音もなく始まろうとしていた。
彼女は、その「何も起きない一日」を創り出すために、自分の全てを懸けている。
その仕事がどれほど尊いものであるか。
如月遥は、誰よりもよく知っていた。
【Z-Log/記録断章】
【如月遥】
「――生きて」
《黒瀬慎也、応答なし:通信途絶》