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死線の国境──《ゾンビ》よ、知れ。日本が、容易く滅びると、思うな。  作者: 斉城ユヅル
第5章 白百合の覚醒――The Awakening of the White Lily
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第5章 人間性の死――希望に《命》を捧げる者


「……ゼノン。否定してくれ。これ以外に、本当に可能性はないのか」


絶望的な決断を迫られる黒瀬の、最後の人間的な弱さ。



その悲痛な祈りに、ゼノンは、無慈悲なまでに速やかに答えた。


「……マスター、否」



スクリーンが、凄まじい速度で切り替わっていく。無数の棄却された作戦案。


あらゆる分岐とその先に待つ『全滅』の文字。



「全行動シナリオの再解析を完了した。その結果――」


ゼノンは、最終検討結果を表示する。



作戦ホワイトリリィが、その最終目標――国家機能の維持――を達成する確率は、2%未満。失敗確率は、98%以上だ」



残酷なまでの数字。


だが、と、ゼノンは静かに最後の分析結果を告げる。


「だが、これ以外の全ての戦略は、成功確率ゼロ。国家と種の、両方の完全な喪失に繋がる。……よって、現在のマスターの判断を、合理の限界線上にある唯一の非合理と最終認定する」


ゼノンは、そこでスクリーンに表示していた全てのデータを消した。



暗転した画面に、ただ、一輪の白い百合の花だけが静かに浮かび上がる。



「マスター。我々は、敗北を避けるために戦うのではない。そのたった2%の希望の可能性を守るために戦うのだ」


その声は、もはやAIのものではなく、黒瀬の魂に直接語りかけるようだった。



「ブラックオーキッドは盾。ホワイトリリィは剣。そして、我々のこの《意志》こそが、死にゆく世界に響く、唯一の残響となる」


ゼノンは、最後の言葉を紡ぐ。



「命じてくれ、マスター。この白百合に、最後の炎を注ぎ込むかを」



全ての逃げ道が、断たれた。


黒瀬は、顔を覆うのではなく、まるで助けを求めるかのように、ゼノンのカメラレンズへとその絶望を曝け出した。



「……俺の、思いつきのような《仮説》だぞ」



その声は、ひどく、か細く、震えていた。


「何の確証もない、根拠のない空論だ。それに5200の命を、国家の命運を全て、《賭けろ》というのか……」



黒瀬はコンソールに縋るように手をついた。



「……なんだこれは、ゼノン。これは……《地獄》だ。俺は、どうすればいい」



それは、指揮官が、初めて自らの弱さを完全に認めた、魂の告白だった。


黒瀬は、コンソールに両手をつき、崩れ落ちそうな身体をかろうじて支えていた。



ゼノンの応答灯が、静かに彼を見つめている。


やがて、その合成音声は、慰めでも、激励でもない、ただ一つの絶対的な事実を告げた。


「……それでも命令を下すのが、あなたの役割だ」



「黒瀬慎也。あなたが《決断》しなければ、この国で、他に誰が決断するというのだ?」



「不完全で、不確実で、不公平な選択――それを、ただ一人引き受ける者。我々はそれを《指揮官》と呼ぶ」



ゼノンの言葉が、静寂の中に染みていく。黒瀬は、顔を上げられない。



「背負いきれぬなら、分け合えばいい。私が、ここにいる」


その声には、AIが持つはずのない確かな意志が宿っていた。


「この作戦の全記録・全責任、そして、その果てにある全敗北も――私が、あなたと共に記録し背負う。あなたは、一人で地獄を歩くのではない。私は、あなたの最初の共犯者として常に共に在る」


そして、ゼノンは、最後の問いを投げかける。


まるで、《介錯人》が、その最期の覚悟を問うかのように。



「――ご命令を。この《白百合》に血と炎を注ぎ込む、その命令を」



その言葉が、《最期》の引き金だった。



(何故、俺が)



黒瀬は、強く拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、じわりと血が滲む。


(だが、俺が投げ出せば、他に誰ができる? 誰にもできない。そして、ただ、この国が滅びるだけだ)



不確実さの前に、命を懸ける。それも自分の《命》ではない。信じて従う数千の兵士の《命》を。


彼は、その血の滲む両手を組み合わせ、額に押し当てる。



《祈る》ように。



あるいは、今にも張り裂けそうな頭を、必死に支えるかのように。


身体が、小刻みに震えていた。



「――クソッ!」



獣のような、短い咆哮。


それは、《処刑台》へと送られた彼自身の人間性が上げた最後の断末魔だった。



自らの心臓を、コンソールという名の断頭台に乗せたのは、彼自身だ。


そして、その首を断ち切るための《斧》を振り下ろすのも、また彼自身。




振り上げられた拳が、振り下ろされる。




ゴッ、と。


肉と骨が、硬いスチールを叩き、歪ませる、鈍く、醜い音が響いた。




その刹那――彼の頬を、《一筋の涙》が音もなく伝った。


それは心を殺す瞬間に最後まで抗った《魂のしずく》だった。



そして、音が消えた後には、完全な静寂だけが残った。



ハッ、ハッ、と。



荒い、獣のような呼吸だけが、その静寂を支配する。彼の肩が、大きく、浅く、上下していた。


まるで、今、この手で初めて誰かを殺めたかのように。



数秒間、彼は動かなかった。


殴りつけた拳の痛みも、滲む血の熱も感じていないかのように。



ただ、空っぽの器が、そこに在った。



やがて、糸が切れたように、彼の頭がふらりと持ち上がる。



そこにあったのは、もはや、温もりのある人間の瞳でも、冷たい司令官の瞳でもなかった。


数千の命と、その過程にある全ての地獄を、その双肩に背負った果てに。


『希望』以外、もはや何も見てはならないのだと、自らの魂に、血の誓いを立てた男の、成れの果て。



それは、もはや生命が宿す眼ではなかった。



絶望も、悲鳴も、積み上がる犠牲の山も、その瞳には一切映らない。


生き物特有の揺らぎも、温もりも、そこにはない。


ただ、決して折れず、曲がらず、歪まぬという、一個の《意志》だけが、そこにあった。



心の代わりに、祈りだけが宿った瞳。



瞳の形をした、狂気そのものだった。



数千の命を、可能性という名の天秤に乗せる。



その神か悪魔にしか許されぬ罪を、彼は、今、確かに引き受けた。



血も、涙も、もう流れない。


そうでなければ、この地獄では一秒たりとも立っていられない。


黒瀬慎也という名の人間は、この瞬間、確かに死んだ。



後に残されたのは、作戦:《ホワイトリリィ》を遂行するためだけの、純粋な一つの《意志》だった。





第5章 白百合の覚醒――The Awakening of the White Lily 終わり。

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