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死線の国境──《ゾンビ》よ、知れ。日本が、容易く滅びると、思うな。  作者: 斉城ユヅル
第5章 白百合の覚醒――The Awakening of the White Lily
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序節 白百合の産声――図書館の残響

新章始まります。

瞼の裏に広がるのは、柔らかな光だった。


高く、アーチ状になった天井の窓から、午後の日差しが埃をきらめかせながら、静かに降り注いでいる。


古い紙とインクの匂い。空調の、眠りを誘うような低い唸り。遠くで、子供に向けられた母親のひそやかな声が聞こえる。ページのめくれる、乾いた音。



黒瀬慎也は、図書館の隅の、革張りの椅子に深く身を沈め、一冊の小説をゆっくりと読み進めていた。



哲学的でありながら、感情の深淵を覗かせる文章だった。


登場人物は誰もが苦悩し、誇りを貫こうとしながらも、世界に裏切られていく。


――それでも、彼らは立ち続ける。


誰も見ていなくとも、自分自身にだけは恥じぬように。



そんな物語を彼は、昔から好んで読んでいた。



彼の意識は、活字の森を彷徨いながら、その空間を支配する穏やかな空気そのものにも向けられている。


本棚の間を行き交う学生たちの、忍び笑い。書架カートを引く、初老の男の背中。絵本を指差す、小さな子供と、その頭を優しく撫でる母親。そっと隣の女性に本を渡す青年。


名も知らぬ者たちが、当たり前のように明日を信じ、それぞれの時間を生きている。その、何の変哲もない営みの総体。


この国が、人々が、文明が、確かに息づいていると実感できるこの場所が、彼は好きだった。



(これでいい。これが、いいんだ)



心の底から、そう思う。


守るべきものがあるという、静かで、しかし、揺るぎない確信。


その温かな感覚に、彼の意識は、ゆっくりと溶けていった。



……ふと、意識が浮上する。



柔らかな光は、天井に反射するモニターの、冷たい青白い光に変わった。


紙の匂いは、オゾンと埃の混じった、無機質な司令室の匂いに。


人々の穏やかなざわめきは、サーバーラックが発する、地の底から響くような単調なハム音に。



暖かな夢の残滓を振り払うように、自らの意思で、目を開ける。


スチール製の簡素なベッドの硬さが、戦闘服越しに背中へ食い込んでくる。



夢の温もりが、急速に色褪せていく。


そのあまりにも大きな落差に、黒瀬の表情が一瞬、苦痛に歪んだ。



自身が諦めたものの巨大さを、そして、今まさに失われようとしているものの価値を、心の中に無理やり刺し込まれたようだった。



(失いたくない……)



無意識の底から漏れ出た、祈りのような願い。


重い身体を引きずるようにして立ち上がり、併設された個人ブースのシャワー室へ向かう。



蛇口を捻ると、熱い湯ではなく、思考を覚醒させるための冷たい水が、滝のように降り注いだ。


肩の筋肉に、古い負傷の鈍痛。脇腹に走る擦過傷。指先には、砕けたコンクリートを掴んだ痕が残っている。


鍛え上げられた身体に刻まれた、無数の古傷が、その戦歴を物語っていた。



――次々に降り注ぐ冷水。



容赦のない水流が、頭蓋を打ち、首筋を伝い、背中へと走る。


研ぎ澄まされた刃のように、痛みではなく、反射が脊髄を駆け抜けた。



黒瀬の身体は、わずかに震えた。


――だが、それは寒さではない。



ストレス下で、長時間にわたり膨大な情報を処理し続けていた脳が、仮眠とこの物理的ショックによって、強制的に再起動される。


その直後、思考回路が、一気に目を覚ました。



ぶわっと脳内に広がるのは、加速する思考の奔流。


生存圏の構築状況。


司令部の統制状態。


物資、家族、兵員、自治体、逃げ場のない都市――


情報が、《光景》として脳内を満たす。



選別、判断、未来予測。あらゆる計算が、濁りなく走り出す。


そして、《最悪の危機》に際し、無意識の奥底に沈めていた何かが、浮上する。



(最終防衛ラインは、構築できる。最低限の生存圏は確保した。……だが、防衛とは、ただ耐えるために行う受動的なものであってはならない。それは緩慢な死だ。防御とは、即ち反撃の芽。最悪に備えたからこそ……最善を望めるのではないか?)


黒瀬の脳裏に、先ほどの《図書館の夢》が蘇る。



(あの日々を。あの図書館を。人々が、当たり前に笑い合っていた、あの生活を守りたい)



蛇口を捻る手が、強く握りしめられた。


シャワーを止め、鏡に映る自分を見つめる。


疲労困憊の、憔悴しきった男。だが、その瞳の奥に、今、確かに、人間的な力強い光が宿っていた。



死なせないだけの《防衛》から、最善の未来を勝ち取りに行く《攻勢》へ。



AIの合理的な計算ではなく、彼の魂が叫んだその声は、皮肉にも、彼の中に残った人間性が、絶望の底で燃やした、《最後》の希望(ひかり)だった。

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