第4節 覚悟の浸透――師団統制の確立
【D3 夕方】
執務室の扉が、二度ノックされたのちに開いた。
肩をいからせて入ってきたのは、次席幕僚山城だった。
黒瀬は、振り返らない。机の端末に向かったまま、わずかに首だけを巡らせた。
「……山城か」
「第二大隊にも、即応展開訓練の即時動員命令が出ております」
開口一番、山城はそう切り出した。声は低いが、鋭い緊張が乗っている。
「幕僚長、何をしておられるのですか。これでは《訓練の名を借りた戦争準備》ではありませんか?」
黒瀬は端末から目を離さず、応じた。
「訓練だ。いざという時に動けるようにしておく、それだけのことだ」
「――これが本当に《それだけ》の目的ですか?」
山城が踏み込む。顔には冷静を装った怒りが滲む。
「この動員は、形式上は訓練であっても、実質は命令の逸脱です。任務目的地も曖昧なまま、大隊の即時動員を開始するなど、通例ではあり得ない。ましてや2個大隊も。……これは訓練の皮を被った《私的動員》です。訓練の名目で動かして、実際は別目的――その危険性は、ご理解いただけていると信じたい」
黒瀬はようやく椅子を半回転させ、山城に正対した。
机の上には、訓練計画書、補給部隊の運用案、部隊ごとの編成表。そして、その全てに印が入っていた。
「……俺は指揮官だ。それがすべてだろ」
「指揮官にも、範囲があります」
「訓練運用の裁量権は、幕僚長たる俺にある。現行の規則の範囲で、俺は命令を出している。――これは《規則違反ではない》」
黒瀬の声は、一切の揺らぎを含まなかった。
山城は一歩、踏み出す。彼にしては珍しく、言葉に熱が乗っていた。
「……ですが、これは《規則の精神》に反します。戦時でもない今、規則内だからと思い付きで部隊を動かすことが常態化すれば――師団そのものが組織としての統制を失います」
黒瀬は視線をそらさずに言った。
「お前の懸念は理解した。だが、結論は変わらない。これは、規則違反ではない。そして、この訓練は必要であると俺は判断している」
沈黙。
山城は、かすかに肩を落とした。だが、諦めてはいなかった。
「……なるほど。あくまで訓練だと。その言葉、確かにお聞きしました……。記録上は訓練といたします。ただし、私の発言は《正式な指摘》として記録に残します。お忘れなきよう」
黒瀬は机上の端末に視線を戻しながら言った。
「忘れんさ」
山城はしばし無言のまま立ち尽くし、やがてわずかに唇を動かした。
「……もしこの行動が、師団の不利益を招くことになれば、私は、正式な手続きをもって、あなたに責任を問います。今は命令に従います。だが――私は記録係ではない。組織にとって何が正しかったかは、最後に裁かれる」
黒瀬の表情は変わらない。
だが、その声には、かすかな願いと深い絶望が滲んでいた。
「……結果として、この行動が処罰されるなら、俺は喜んで裁かれよう。だから、今は従え」
それ以上は何も言わず、山城は踵を返す。そして、扉は、重く静かに閉じられた。
数秒後――端末の表示灯が、淡く青く光った。
ゼノンの演算が、再起動のように始まる。
画面に、無機質な文字が浮かぶ。
《Z-Log|D3 17:43 JST》
ミッションコード:Phase-1【掌握】|完了
・司令部内部抵抗の抑制:成功
・師団内意思統一:達成
・指揮権の集中:確認
状態:第1師団、戦時運用モードへ移行
黒瀬は、椅子に深く座り直したまま、低く息を吐いた。
「……これで、ようやく《動かせる》ってわけだ」
ゼノンが淡々と応じる。
「ああ。今すぐ動員をかければ――48時間で《フル充足の大隊が2個》前線に出せる。逆に言うと、今を逃せば《骨格から崩れる》。平時配置じゃ、人員はせいぜい三分の一。……そんな状態じゃ戦いにもならん」
黒瀬は、唇を僅かに歪める。
それは憤りか、あるいは――焦り。
「……最低限《命を繋ぐ》準備は整った」
その目は、端末の【Z-Log】を睨みつけていた。
表示された《戦時統制》の文字が、彼の決断を裏付けていた。
そこで、ゼノンが口を開く。――もはや機械とも思えぬ、低く、落ち着いた声で。
「……マスター、限界だ。連続活動時間、三六時間を超えた。このままじゃ、身体も精神も、壊れるぞ」
その口調に、かつての軍用AIらしい冷徹さはなかった。
ただ、戦場を共にする者として、最も信頼する司令官の命を守るための言葉だった。
「今は、俺が見てる。お前は、休め」
それは、事務的でありながら、気遣いを宿していた。
だが、黒瀬はそれを無視するように、静かに問い返す。
「……即断即決することは、もう、ないな?」
「無い。各部隊、命令通りに展開中。ブラックオーキッド作戦の初動は完了した」
その報告に、黒瀬の肩から、僅かに力が抜けた。
D3という一日――人類史上、最も価値のあるこの一日を、彼らは確かに戦い抜いたのだ。
「……そうか」
低く呟き、黒瀬はゆっくりと立ち上がる。
骨が軋む音がした。
体のあちこちが悲鳴を上げていたが、痛みを感じていない自分に、むしろ戦慄した。
「では、少し、横になる」
扉へと歩き出しながら、背後の相棒に言葉を投げる。
「何かあれば、すぐに起こせ。――六時間後、再びここで」
「了解」
扉が開き、閉じられる。
その音は、銃声よりも重く、静寂の中に沈んだ。
執務室に残されたのは、端末の電子音と、冷却装置の微かな駆動音だけだった。
大型スクリーンには、赤く染まりつつある日本地図。
その中央――白く輝く《百合の紋章》が、静かに点灯していた。
第4章 静かなる戦争――The Quiet War 終わり。
第4章終了です。第5章も執筆を始めているので近く更新できるかと思います!
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