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第3節 魂の検分――現場感覚

【D3 午後|秩夫(ちちぶ)市・危機管理室長とのWEB会談】


午後2時、黒瀬慎也は、司令部作戦室内の小型ブースで通信端末を立ち上げ、簡素な椅子に腰を下ろしていた。


画面越しに現れたのは、秩夫市危機管理室長――深田健司。


五十代半ば。やや古風な眼鏡をかけた、実直そうな男だった。


「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。第一師団幕僚長の黒瀬と申します」


「いえいえ。お声かけいただいたことのほうが光栄です。私は深田、危機管理室の室長を務めております。元々は消防署におりまして。現場の泥にまみれてきた身です。よろしくお願いします」


「それは心強い。《現場経験》のある方が災害対応を担われているというのは、実に安心です。――私も、現場上がりの人間でして」


互いに微笑みが交わされる。


言葉は少なくとも、その奥には通じるものがあった。


「いざというときのために備えておくことが重要――。その認識を最初から共有できるというのは、本当にありがたいですね。今回の《協定更新》も、その備えの一環です」


黒瀬が言うと、深田はすぐにうなずいた。


「えぇ。備えと訓練。どちらかが欠けても、現場は動けません。日常の中で、それをどう当たり前にするかが課題です」


「おっしゃる通りですな。ですが……やはり、何事にも想定外というものはあります。それにどう向き合うか――。若い頃は、必要な場面で命令がなく、ただ戸惑った記憶もありますよ」


黒瀬が静かに語ると、深田はふと目を細めた。


かつての現場を思い出したように。


「……緊急時は、その場でできることをやらなければならないものです。火事も、災害も、誰かの判断を待ってくれるような性質のものじゃありません。――準備を待っていたら、助かる命も助からない」


その声に嘘はなかった。


経験に裏打ちされた、重く、静かな真実の響きだった。



黒瀬は静かにうなずき、視線をゆっくりと正面に戻す。



「……ありがとうございます。やはり、深田室長のような方がいらっしゃる地域は心強い」


言葉に籠もる敬意は、本物だった。


そして――黒瀬は慎重に、しかし率直に切り出す。


「さて、本日は《災害時相互協力協定》の見直しにあたり、手続きの簡略化や情報共有の体制強化について、事前確認をさせていただきたく存じます」


「はい、お受けしています。可能な限り、実務レベルでの連携を進めたいと考えております」


深田の声もまた、誠実なものだった。


黒瀬は一呼吸置き、やや声の調子を落とす。


「……その本題に入る前に、一つだけ。これは個人的な関心でして――差し支えなければ、お答えいただけますか」


「どうぞ。答えられることであれば、何なりと」


深田の返答に、黒瀬は静かに頷く。


その眼差しの奥には、いま一度、ひとつの判断基準が灯っていた。


黒瀬は軽くうなずき、少し声を低くした。


「もし秩夫盆地が、万が一、孤立したとして――徒歩であれば外部と連絡できるルート。市民の避難でも、物資搬入でも構いません。歩いて通れる道として、頭に浮かぶ場所はございますか?」


一瞬の沈黙。そして、深田の眼差しが変わった。


「……そうですね。一つは、三峰口の裏手。林道の奥、登山道が繋がってます。あそこは地図にないが、通れます。もう一つは、西側の尾根筋。旧道のさらに古い道を伝えば……徒歩なら抜けられるでしょう。ただ、地元でも知っている人間は限られます」


黒瀬は小さく息を吐いた。


「ありがとうございます。想定より多くの道があるようで、助かります」


「いえ、道というより、《通す意思》ですな。誰が、何を、どう運ぶか――何より運ぶと決める人間がいないと、道も生きない」


深田の言葉には、現場を生き抜いた者だけが持つ重みがあった。


黒瀬は、目を細めた。


「……仰るとおりです」


その後、会話は協定の見直し手順や、自治体と自衛隊の協力体制に関する技術的な確認へと移っていく。


緊急展開時の宿営候補地、派遣連絡時の責任者設定、緊急時通話経路、名簿交換――全てが滞りなく進んだ。



そして終盤、黒瀬は静かに切り出した。



「必要に応じて、当方より《現地の状況確認》に伺わせていただく可能性がございます。通常は小隊規模ですが、状況によっては――」


「承知しました。その際は、私も調整に動きます」


会話は終始、形式の中にわずかな熱を宿していた。



――通話終了。



スクリーンが静かに消灯する。


黒瀬は、腕を組んだまましばらく動かなかった。



「……さて、ゼノン。お前の判断は?」



すぐに端末の表示灯が淡く光り、ゼノンの応答が返る。


「現時点の記録より判断。

 ――深田健司、秩夫市危機管理室長。人格的信頼性:高。地形知識:現場水準に準拠。

 倫理・判断能力において、市民の代表として行動可能。

 判定:協力対象として《有力》。予備的信頼連携を継続すべし」



「……よし。少なくとも、彼には『言葉』が届く。必要なとき、支えになる」



黒瀬は、ようやく椅子の背にもたれかかり、目を閉じた。


誰にでも信頼を寄せる男ではない。


だが、深田の言葉と眼差しには、確かに現場を知る者の実感があった。



――火事も災害も、準備を待ってはくれない。



それは訓練でも理論でもない。


《日常の向こう側》を知る者から出てくる言葉だった。



黒瀬の目の前で、表示灯が一度だけ青白く点滅し、ゼノンの通信状態を示す。


作戦支援AIの無機質な声が、冷静に語りかけた。



「秩夫地域における、現場型・防災実務型の幹部職員出現確率は、全国平均に比して高い傾向がある」


「……根拠は?」



「地形的孤立性。そして、それに基づく災害訓練の積算履歴だ。特に大規模な交通遮断や孤立化リスクへの備えは、関東圏内でも極端に高い。地震、豪雨、地すべり、凍結……主要インフラの寸断を前提とした意識が、防災行政の中核人材を自然に育てている」


「……つまり、本気の防災屋が育つ土壌が、元々あったと」


「ああ。そういう土地だ」



黒瀬はわずかに頷いた。


確率でも、必然でもいい。この戦場で――命を懸ける戦場で、言葉が通じる人間が、最初の一人としてそこにいた。


それだけで、十分だった。



その一人が、背を預けられる現場のプロであったこと。


そして、人の命を守る《覚悟》が既に備わっていたこと。



それは、作戦の絵図に《魂》が宿ることを意味していた。


「……あとは俺たち次第だな。深田が動くと決めたとき――その背中に、軍がついていると思わせてやらないと」


ゼノンの表示灯が、静かに応答の光を返した。

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