第2節 戦時の論理――沈黙の濁流
【D3 午前】
午前の明るい光が差し込む中、一人の補給担当士官が、血相を変えて黒瀬の執務室に駆け込んできた。
「幕僚長、これは――さすがに異常です!」
彼が手にするのは、分厚い補給要求書。
その表紙には、『即応展開訓練』という名目が掲げられている。だが――
「高カロリー携行食、栄養剤、抗生物質。野営支援装備に、衛生防護資材。栄養剤、抗生物質、衛生防護資材、電源機材に至っては、部隊数年分に相当します。訓練とはいえ、これは――常軌を逸しています」
黒瀬は無言で手を伸ばし、書類を受け取ると、そのまま上から目を通した。
「計画名は即応展開訓練。訓練規模は二個大隊。長期山岳展開を想定した演習だ。
物資は現地展開分まで含めて、最速で整えろ。演習後の物失回収予定も、すべて書式通りに記載してある」
早口に、しかし、淀みなく黒瀬は告げた。
それは、まるであらゆる問いを事前に演算し、答えだけを語るAIのような冷徹な速さだった。
担当官が、乾いた声で問いかける。
「……本当にこれを、演習で通すおつもりですか?」
その声には、疑念と、わずかな恐れがにじんでいた。
黒瀬は、その言葉にふっと目を上げ、真正面から応じた。
「――実戦を想定している」
わずかな沈黙。そして、続ける。
「敵が来ているときに、お前はそういう話をするのか?これは演習か、戦争かと確認するのが、最初にすべきことか?」
担当官は、言葉を失った。
黒瀬は、静かにペンを取り出すと、要求書の承認欄に一文字ずつ、強い筆圧で記す。
――黒瀬 慎也
そして、無言のまま、書類を机に押し返した。
「この基地で、補給関係の最終承認者は誰だ?」
担当官が言葉を詰まらせたまま黙っていると、黒瀬は淡々と続けた。
「――俺だ。俺の署名がある。ならば、これは命令だ」
目を逸らすことも、声を荒げることもない。だがその言葉には、絶対の重みがあった。
「そして、全責任は俺が負う。それで足りないなら、明日から俺は補給担当士官として、お前の席に座る。その代わり――お前が幕僚長の椅子に座ってみろ」
担当官の顔から、血の気が引いていった。
法令にも、予算にも違反していない。書式も、通っている。
だがこの命令は、規則でも要領でもなく、ただ黒瀬慎也という一個人の決断で成立していた。
「……承知しました。調達部にも、根回しを。訓練計画の名目で、最大限、迅速に処理します」
力なく部屋を出ていこうとする彼の背中に、黒瀬は、最後の一言を付け加えた。
「それと、リストの最後にあるのは、《AI運用試験装備》だ。訓練資材として一括申請してある。名目は『即応訓練における指揮支援シミュレータ』。登録済みだ」
その言葉は、補給士官ではなく、黒瀬の隣で沈黙を守っていたAI端末――ゼノンに向けられているようにも聞こえた。
「……お前の現地展開を、合法的に可能とするための、準備だ」
その言葉に応じるように、それまで青い光を放っていたゼノンの表示灯が、ふっと、緑色へと変わる。
【D3 午後】
補給命令が下りた午後、駐屯地の空気は、異様なまでに静かだった。
兵舎裏の集積所では、複数の小隊が新型の個人装備や衛生資材、未開封の携行栄養剤を前にして手を止めていた。
それは、演習とは思えぬ装備。まるで「戦地に向かう準備」だった。
「……これ、訓練装備じゃないよな」
「栄養剤って、重症患者用の……?」
「誰か、本当の命令、聞いてないか?」
誰も大声では言わない。
だが、囁きのような不安が、荷下ろしの手を鈍らせる。
緊張は空気に沈殿し、命令への服従が、逆に異常性を際立たせていた。
そこへ――黒瀬が、歩いて現れる。
迷彩服に戦闘靴。肩からは戦闘用指揮タブレット端末が垂れ下がっている。
兵士たちが、緊張に背筋を伸ばす。誰も直視できず、何人かは無言で敬礼を送る。
黒瀬は積み上がった装備の一つ――高機能携行食の箱に目を止めた。
そして、手元の端末を一瞥すると、静かに頷いた。
そのとき、一人の下士官が、小さく前に出て声をかけた。
「……幕僚長。失礼します」
黒瀬が振り返る。
下士官は一度口を開きかけたが、逡巡した末に言った。
「これは……本当に、訓練なんでしょうか」
数名の兵士が、息を止めたように固まった。
黒瀬は一歩、二歩、彼に近づく。
「……訓練だと思って訓練しろ。――そう言った上官は誰だ?」
「……い、いえ、それは……」
「――誤解があるようだな。改めて、俺が言う」
黒瀬の声音は、静かに、しかし絶対に揺らがない圧を孕んでいた。
「これは訓練だ。だが、実戦なら、こうするという訓練だ」
その場の空気が、凍りつく。
黒瀬はさらに続ける。
「お前らは演習だからと自分に言い聞かせて、何も考えずに動いていないか?これは演習の物資だ、これは訓練の移動だと、勝手に意味を薄めて、責任から逃げてないか?」
誰も答えられない。
「思考を止めるな。現場の空気に逃げ込むな。命令は命令だ。だが、その命令が何を意味するか、自分の頭で考えておけ」
黒瀬は視線を下士官に戻し、静かに言った。
「訓練だと思うな。実戦だと思え。そして、部下にも確実にそう伝えろ。……これは命令だ」
下士官は、言葉を失ったまま、ただ直立し、思い直すように、背筋を正し、迷いなく敬礼した。
ゼノンの表示灯が、わずかに青から緑に変わった――
それは、「命令確認」のサインだった。