第1節 命じろ、その声で、敵を殺せ――即応展開訓練
【D3 05:20|宿舎柴崎私室】
――着信音が、耳元で刺すように鳴った。
柴崎は即座に目を覚ました。
脳がまだ眠気の霧を抱えているにもかかわらず、身体が先に反応する。訓練された軍人の反射だった。
ベッド脇の端末を確認する。
発信者:黒瀬慎也。
柴崎は、直立するようにベッドから身体を起こし、迷いなく通話ボタンを押す。
「……柴崎です」
『柴崎、大至急、師団作戦室へ来い』
それだけだった。
いつもの、低く落ち着いた声音。
だが――何かが違った。
語調か、抑揚か、間か。説明できない異物感が、声の裏に張り付いていた。
「了解しました」
通信が切れる。
柴崎は数秒、無言のまま座っていた。
天井を見上げ、わずかに眉をひそめる。
(……この時間に、電話一本で……何があった?)
演習でも事故でもない。
単なる状況報告なら、作戦会議で済む。
「大至急」と呼びつけるには、理由が要る。
(……嫌な予感の話か?)
時計を見る。午前五時二一分。
外はまだ、ほの暗い。
柴崎は言葉を発さぬまま立ち上がり、制服に腕を通した。
靴紐を結びながら、一つだけ息を吐く。
「ともかく急ごう。黒瀬さんの本気は、待ってはくれない」
【D3 05:30|司令部作戦室】
白い蛍光灯が、夜明け前の空気をより一層冷たくしていた。
通路にはまだ誰の姿もなく、司令部中枢へと続く扉の前だけが、異質な気配を放っている。
柴崎は一度、制服の襟元を正し、深く呼吸を整えた。
そして扉の前に立ち、右手を上げ――
「柴崎。入れ」
その瞬間、手が止まった。
ノックよりも早く届いた声。まるでこちらの動きを読んでいたかのような即応。
柴崎は数秒、動けなかった。
それは確かに黒瀬の声――だが。
(……なんだ、今の圧。声が、刺さる)
まるで、知らない人間が黒瀬の声帯だけを借りて喋っているような感覚。
内臓のどこかを強く掴まれたような、説明不能の重圧。
柴崎は、躊躇を押し殺し、意を決して扉を開けた。
部屋の中は、異様なほど静かだった。
そして、そこに座っていたのは――
(……誰だ?)
照明の下、黒瀬慎也が一人、机に肘をつき、深く椅子に沈み込んでいた。
だがその顔。
その《目》。
昨日とはまるで違う。
生気がないわけではない。
感情が死んでいるわけでもない。
だがそこには、言葉にならない《断絶》があった。
あまりにも冷たい。
あまりにも鋭い。
あまりにも深い――まるで底の見えない、黒い湖。
柴崎の背筋に、冷たい汗が伝った。
《……黒瀬さん、ですよね……?》
呼吸が浅くなる。
昨日、食堂でくだらない冗談を交わしていた男とは、別人だった。
「中に入れ、柴崎」
黒瀬の声が、さらに奥底へ沈むように響いた。
柴崎は咄嗟に敬礼し、作戦室に足を踏み入れる。
機械的な動きで、再び敬礼。
「――ッ! 第三普通科連隊、第一大隊長、柴崎二佐、ただいま到着しました!」
視線は黒瀬の瞳に釘付けのまま。
何かを見逃せば、その瞬間に《死》が訪れるような緊張があった。
だが黒瀬は、言葉を発さない。
ただ、柴崎を静かに見ていた。
沈黙。
時間が止まったかのように、二人の間に音がなかった。
そして柴崎は、確信する。
(……この人、本物の軍人の顔をしている)
【D3 05:39|師団司令部・作戦室】
作戦室の空気は、静かに張り詰めていた。
蛍光灯の光が、黒瀬の瞳を鈍く反射している。
黒瀬は椅子に座ったまま、低く、静かに言った。
「お前……前に言ってたな。俺のこと、信頼してるって」
柴崎は小さく頷く。
「……はい。そう、申し上げました」
黒瀬はわずかに目を伏せ、微笑のような表情を見せる。だが、それは決して安堵ではなかった。
「……ああ。ありがたい。素直に、嬉しいと思う」
「――だからこそ、訊いておきたいことがある」
「お前、子ども……何歳になった?」
唐突な問いだった。
だが柴崎は即座に応じ、一拍置いて答えた。
「今年で十一になります。……来月で十二です」
「そうか」
黒瀬は短く返し、息を吸う。そして、吐く。
「……いい年だな。女の子だったか?」
「はい、娘であります」
言葉に滲むのは、誇らしさか、それとも不安か。
一瞬の沈黙が、作戦室をさらに冷たく染める。
そして、黒瀬の声が一段階、低く沈んだ。
「――仮にだ」
「お前の娘が《敵》に囲まれてる。守らなきゃ、死ぬ」
「その場にお前がいて、銃がある」
「家族を守れとの命令が出ている」
「敵を撃てるか?」
柴崎は息を呑む。
だが、即答する。
「はい。撃ちます」
黒瀬は続ける。
「もっと酷い想定だ」
「お前は撃てない位置にいる。距離がある。見えてるのに、手が届かない」
「代わりに、部下を動かすしかない」
「部下に撃てと命じて、撃たせるしかない」
「自分の子どもを守るために、部下に引き金を引かせる」
「《敵を撃て》と命じられるか?」
柴崎はわずかに目を伏せる――
それでも迷いなく、顔を上げる。
「……はい」
一拍置き、確信を込めて言い切った。
「俺は、命じます」
黒瀬の目が、わずかに細まる。
「……よろしい」
それは笑みではない。だが、何かを完全に見極めた男の目だった。
「今から言うことは、《そういう訓練》だ。形式じゃない、お前の意識が全てだ」
黒瀬の声の温度が、再び一段、低く沈んだ。
「これは訓練だ。だが、《本番》だと思え。守れなければ、お前の家族も、部下も、死ぬ。自分が死ぬだけでは済まない。家族もろとも、全部を殺される……そういう戦場を、これから訓練する」
言葉の一つ一つが、沈むように深く突き刺さってくる。
柴崎の内心で、雷鳴が轟いていた。
「これから行うのは即応展開訓練だ。目的は一つ――お前の部隊が、《実戦で動けるか》を確認する。いいか、これから行う全ての行動は、現実の戦場と寸分違わぬものとして遂行しろ。一つ一つの狂いが、死を意味する」
黒瀬は、低く、だが決して逸らさぬ声音で続ける。
「具体的な作戦は追って説明する。まずお前がやるべきことは一つ。部下の統制を、確実に掌握しろ。一切の齟齬なく、この《訓練》を遂行させろ。……以上だ」
――形式上は「気合を入れろ」と言われただけだ。
だがそれは、まるで「守れなければ、お前と家族を処分する」――そう宣告されたかのようだった。
それほどに、黒瀬の目は冷たく、静かで、揺るがなかった。
黒瀬は、机越しに身を乗り出し――
力強く、柴崎の肩を一度だけ叩いた。それは、上官から部下への最大の信頼の証。
「――家族と仲間を、守れ」
その声には、あの非人間的な響きはなかった。
柴崎が知る、黒瀬慎也の本来の声だった。
「お前を信じている」
柴崎の胸が熱くなる。
だが、と黒瀬は続けた。その瞳に、再び、司令官の冷たい光を宿して。
「だが、信頼で部下を動かすな。従わせろ。抑え込め。牙を剥かせるな。猟犬に戻せ。全員をだ」
柴崎、敬礼。
二度目の敬礼は、儀礼ではなかった。
それは、忠誠の誓いだった。
「了解。――《即応展開訓練》を開始します」
【D3 06:12|第一大隊 集結地・訓示】
まだ朝靄の残る広場に、柴崎はゆっくりと歩を進めた。
その背後に、大隊の主力部隊が静かに並ぶ。即席のマイクも、演壇もない。
ただ、自分の声と、兵たちの視線だけがそこにある。
彼の瞳には、黒瀬から受け継いだ、冷たい光が宿っていた。
「――訓練に入る」
柴崎は、一切の感情を排した声で、ただ事実だけを告げた。
「本日より、当大隊は即応展開訓練を開始する。理由は、ない。命令だ」
兵たちの間に、明確な動揺が走る。ざわめきが、波のように広がった。
その空気を、柴崎は、一瞥で斬り捨てる。
「初動準備に二日間。その後は、即応待機。三日目には、出撃命令が出ると、そう想定しろ」
「外出は禁止。各員、三日目に出動命令が来ると仮定し、個人装備・生活体制を整えろ」
彼は、一人一人の目を射抜くように、ゆっくりと視線を動かす。
「いいか、よく聞け」
「これは、訓練だ。だが――訓練ではない。そう思え」
兵たちが、息を呑む。その、矛盾した言葉の意味を、必死に理解しようとしている。
「これは、《演出》ではない。初動の遅れは、死を意味する。お前たち一人一人の、そして、お前たちの家族の死だ」
絶対的な命令と、理解不能な状況。兵士たちの顔に、困惑と、わずかな恐怖の色が浮かぶ。
その変化を見届けた後、柴崎は、ふっと、その全身から力を抜いた。
瞳の光が、わずかに揺らぐ。
「……不安に思う者もいるだろう。当然だ。理由も、脅威も、まだ、見えていない」
先ほどまでの、突き放すような口調が消え、そこにいたのは、部下を気遣う、いつもの「指揮官」としての柴崎だった。
「俺は、正直に言えば、昨日まで、少し迷っていた。日々の俺たちの訓練に、意味があるのかと」
「だが、今は違う。はっきりとわかる。俺たちが積み重ねてきた訓練には、間違いなく意味があった」
彼の声に、わずかに熱が帯びる。
「俺たちが歯を食いしばって訓練してきたのは、《その時》が来たとき、愛するものを守りきるためだ」
「お前たちの家族を。お前たちの仲間を。俺たちの国を。誰かの、当たり前の日常を」
「《その時》がきた。だから、俺は前に立つ。俺が立てば、お前たちも立ってくれると信じている。必ず、お前たちを守る。だから、お前たちにも、守ってほしい」
兵士たちの間に、戸惑いながらも、確かな一体感が生まれていく。
その空気を、柴崎は、再び、自らの手で断ち切った。
「だが――」
柴崎の瞳に、黒瀬と同じ、指揮官の冷たい光が宿る。
「信頼だけでは部隊は動かない。戦場で信頼とは、確実に命令が届き、確実に遂行されることだ。感情ではない。《統制》こそが、我々の命を繋ぐ」
彼は、黒瀬から受け取った、最後の《呪い》を、部下たちに告げる。
「幕僚長からは、こう命じられている。『全員が戦士に戻れ』と。……勘違いするな。これは、比喩じゃない」
そして、最後に一拍置いて、力強く言い切った。
「以上だ。展開準備に入れ。――訓練を、開始する」