序節 微睡む世界――死地の瞳
【D3 未明】
東の空が、わずかに白み始めていた。
作戦室の空気は、未だ、インクのように黒く、重く澱んでいた。
壁に設置された大型モニターが、静かに光を放つ。
そこに映るのは、関東一円を網羅した、無数の光点と線で構成された戦術統合マップだ。
だが、黒瀬の瞳には、それが単なるデータの集合体には見えていなかった。一つ一つの光が、そこで生きる1000万の魂の鼓動であり、これから彼が断ち切るべき未来の輝きそのものだった。
黒瀬慎也は、眠っていなかった。
彼がこの椅子に座ってから、既に4時間が経過していた。
机上のコンソールで、緑色のランプが心臓の鼓動のように、規則正しく点滅を繰り返している。応答を待つ、というよりは、ただそこに在ることを示すためだけの光。
黒瀬はそれに一度も視線をやらず、ただ、モニターの向こう側にある、まだ何も知らずに眠る世界を、見つめ続けていた。
やがて、壁の時計が午前5時を指す。
【D3 早朝】
薄明の空を、湿り気を帯びた生ぬるい風が撫でていた。
駐屯地はまだ、静かな呼吸を保っている。終わりなど何も起きていない――そう信じられる、最後の朝だった。
舗装路の隅を、軽快な足音が刻んでいく。ランニング姿の数名の兵士が、整った隊列で駐屯地を周回している。
その脇を、湿気に愚痴を零しながら、一人の女性隊員が軽く笑い声を上げた。
「んー、ジメジメヤバっ。ねぇ、昨日の焼きそばパン、誰が取ったか調べてから出発すべきだったかなー」
「お前まだ言ってんのかよ。戦闘糧食のほうがマシだって」
笑い混じりの応酬。平凡な、だが確かな日常の空気がそこにあった。
別棟の一角では、補給部隊の隊員たちが倉庫前に列をなし、記録端末を手に忙しなく物資を数えていた。缶詰、簡易寝具、乾電池、医療品。
どれも、いずれ来るかもしれない災害への備えという名目のもと、きちんと整えられている。
「……この在庫、手前のやつからローテ組んどけ。来週、点検ある」
「了解っす」
兵士は、かすかな眠気を残した声で応じ、黙々と作業を続ける。
生命のノイズが、駐屯地の隅々から立ち上り始めていた。
瞑目する黒瀬の耳に、作戦室の厚い壁を突き抜けて幻聴のように届く、愛おしい日常の音だった。
彼は、その全てを振り払うかのように、ゆっくりと目を開く。
その瞳に、もはや明確な感情はなかった。
だがその奥底には、底の見えない黒い輝きが、静かに灯っていた。
絶望と希望を、幾千もの選択と断念で煮詰め、最後に覚悟という名の重圧で圧縮し尽くした先にしか生まれない《黒い光》。
それはもはや、人間の瞳ではなかった。
死地を見据える、司令官の瞳だった。
黒瀬は、ゆっくりと視線を巡らせる。
コンソールに灯る状態表示灯、その隣で沈黙を守るAI端末――ゼノン。
一瞬だけ、そちらに視線をやり、かすかに顎を引く。
そして彼は、人類史上、最も価値のある一日の始まりを、静かに告げた。
「ゼノン――始めよう」