第3節 絶望の選択肢――守れぬ戦場、残せぬ希望
長い沈黙が、司令部を満たしていた。
ゼノンの7日間という断定が、まるで重い鉛のように空間を圧している。
だが――黒瀬慎也は動じなかった。
いや、動じていないように見えた。
現実から目を逸らさず、ただ一つずつ選択肢を見直す。
師団幕僚長の名は、決して伊達ではない。
沈黙は思考の深さ。指揮官は直感で動かない。
脅威に触れ、なお冷静を保つ――それが本物の軍人だ。
黒瀬は、ゆっくりと口を開いた。
「……選択肢を洗おう。現時点で理論的に実行可能な軍事的封じ込めを検討する」
ゼノンは応答しない。ただ、淡々とデータを蓄積し、冷徹な演算を続けている気配だけが漂った。
黒瀬は机上の地図を指でなぞる。
「第一に――水際阻止。空港、港湾、鉄道、幹線道……全て封鎖し、感染源の流入を断つ。即時対応なら、理論上、まだ間に合うはずだ。感染症初動の封じ込め――それは教範でも最優先に位置づけられる定石中の定石だ」
ゼノンが即座に反応する。
【パーフェクト・シールド(仮称)- 実行条件】
本件作戦の成功には、以下の三条件が、24時間以内に、同時に満たされる必要があります。
①全軍動員による全面封鎖体制
②民間交通・物流網の即時遮断と情報統制
③国内政治中枢の《超法規的措置》による全機関掌握――
黒瀬は苦笑するように、息を吐いた。
「……つまり、クーデターか」
「現行法では、水際阻止のために民間人の自由を制限することは《違憲》とされます。感染拡大が先に起きれば、封鎖そのものが国内に死地を生み、各地で暴動が発生します。可能ですが、正規系統では不可能――それがこのプランの限界です」
黒瀬は、ほんの一瞬だけ、机を軽く拳で叩いた。
「最悪に備えてクーデター?無理をしてどうにか……というレベルではないな」
再び、短い沈黙。
黒瀬は地図を睨みながら思考を進める。
「ならば都市ごと閉鎖する。発症地域を軍が囲み、検疫・隔離する。全体を囲えなくても、感染が拡大するエリアを切断することで、ある程度は制圧できるはずだ」
【局地封鎖作戦:戦術的非推奨】
要求兵力:対象都市圏43、うち、人口500万都市の封鎖に、約12,000名
作戦期間:感染終息まで(事実上の無期限に相当)
黒瀬は、無意識に眉間を指で押さえた。
「……非現実的だな。」
「加えて、法的強制力が存在しないため、住民の脱出・突破が現実に発生します。無症状感染という不可視の脅威は、制御不能な人流を生みます。自分は感染していないと信じ、外に出ようとする感染者を、簡易封鎖では止められません。また、都市封鎖に伴うパニック・略奪・ライフライン崩壊により、封鎖内が地獄と化す恐れがあります」
黒瀬は、声を落とし、唸るように呟く。
「……本当に封じ込めるなら、都市そのものを見捨てる覚悟が要る」
握りしめたペンが僅かに軋んだ。
それでも、黒瀬は思考を止めない。
「ではいっそ、感染者の出た区域を軍で掃討する。市街戦を戦う軍隊であれば、区画単位での完全掃討は可能なはずだ。現代市街地戦は地獄だが、それでも制圧は可能だ。火力支援と逐次制圧を併用し、建物ごとの確保と隔離を進めれば、理論上掃討可能では?」
ゼノンの応答は、かつてないほど冷たかった。
「それが今後最も選ばれるであろう選択肢です。しかし、都市構造は《殲滅戦》に極めて不向きです」
言葉と同時に画面にゼノンの分析が表示される。
【戦術的制約】
市街地は視界不良。
停電・火災・煙霧により暗闇となったマンション群・地下街・連絡通路が多数存在。
再活動者の群れは視界外から接近可能、防衛側は常に不利。
班単位の市街戦では、退路の喪失、通信断絶、分断→各個撃破という最悪のパターンに陥る。
【兵力損耗と士気崩壊】
再活動者は集団行動・物理突破・執拗な接近を行う。
生存者と再活動者の確認が難しい
→確認のために近接戦距離に接近せざるを得ず死者の波に呑まれる可能性が高い。
近距離交戦の継続による感染リスク拡大、兵士の士気低下、疲労による継戦能力低下、が加速的に増大。
そして、ゼノンの補足説明が続く。
「撃っても倒れない、戦闘力を喪失しない敵――その脅威度は桁違いです。両脚や胴体を撃てば止まる人類と、頭部または脊柱の破壊が必要な今回の敵性体。単純に面積で換算しても、銃火器による掃討難度は10倍以上と推定します」
黒瀬は、指先が白くなるほど拳を握りしめていた。
「……確かに厳しい。だが、これしかない。関東圏に配備された全兵力を動員し、実行した場合の成功率を算出してくれ。この瞬間から、俺たちが全力で支援したと仮定して構わない」
『――シミュレーションを開始します』
数秒の沈黙の後、結果が表示される。
『作戦名:都市掃討作戦』
投入戦力:関東圏配備、全兵力
特殊パラメータ:当AIによる最大戦術支援、及び、指揮官による、現行法規内で実行可能な、全ての措置の行使を前提とする
……算出完了
『成功確率――1.8%』
黒瀬の眉がわずかに動く。
「この数値は、完遂後の戦力保持を条件に含まない場合の数値です。換言すれば、掃討完了と同時に全滅という前提です」
ゼノンの画面が切り替わる。
【作戦失敗の主要因】
殲滅に必要な精密射撃の負担が大きすぎる(頭部・脊柱への限定射撃)
市街地・暗所・地下構造物での不確実性(障害物・死角・音響錯乱)
心理的ショックと士気崩壊(戦果不確実・敵の無反応・仲間の感染)
包囲、孤立、退却不能による局地的全滅の連鎖
生存者と再活動者の識別のため《遠距離戦》が不可能
「……総合評価:本作戦の性質は、都市封鎖ではなく都市消耗です。実行の際は、投入された兵力は戻らないという前提で立案すべきでしょう」
「さらに、補足します。この試算は、民間人の犠牲を許容し、掃討を主軸に置いた場合の値です。もし作戦目標が民間人の救助および避難誘導と命じられた場合――作戦の成功率は0%となります」
【成功確率を0%に収束させる、最大要因】
収容可能で安全な避難施設は存在しない。
民間人に避難を強制すれば、パニックと混乱により部隊は分断・停止し、やがて敵に《足手まとい》ごと押し潰される
「この戦場において救助は戦術行動ではなく、英雄的自滅行為となるでしょう」
黒瀬は目を閉じ、ゆっくりと椅子にもたれかかった。
「これは無理だな。……これでは崩壊までの遅延戦闘に過ぎん」
その声音には、静かな絶望と、しかし、現実を受け入れる《覚悟》が宿りつつあった。
『はい、これは防衛戦ではなく、崩壊を遅らせる時間稼ぎに過ぎません。稼いだ時間に意味がないのであれば、自己犠牲の名を借りた戦力放棄です』
――沈黙。
黒瀬は、奥歯を噛み締めたまま、やがて声を絞り出すように問うた。
「敵と見分けのつかない民間人を、敵と断定して排除した場合――成功率はどれほど変わる?」
ゼノンは、即座に応じた。
「試算結果:成功率13.4%。遠距離戦闘の実施が可能となり、部隊損耗を抑制できます。ただし、敵味方識別を放棄した掃討命令の徹底には著しい困難が伴います。上昇幅は僅か、作戦完遂の保証には至りません」
短い間が落ちた。
やがてゼノンが、静かに問う。
「――《可能》なのですか?」
黒瀬は答えなかった。
決断も、命令も、――断行することも。
そのどれも、自分には不可能だと知っていた。
その沈黙を前に、ゼノンは静かに演算を中断する。
黒瀬が《倫理の地平》に一歩を踏み出したという事実を記録するために。
黒瀬は諦めたように、力を抜き、静かにゼノンに向き直った。
「……分かった。全ては救えない。それを認めた上で、ゼノン――我々の勝利条件を再定義したい。現状達成可能な勝利ラインを何処にある?言い換えれば、俺が守れる可能性がある人々は今どれだけいる?」
それは、敗北ではなかった。
すべてを守るという幻想を捨て、本当に守るべきものを選ぶ覚悟。
それこそが、戦略の始まりだった。
『了解。我々の掴みえる最上の勝利条件を演算します』
その瞬間、室内に再び戦いの気配が戻る。
敗北を受け入れたうえで、それでも諦めぬ者だけが、次の《決断》に進む。




