第1節 静謀の断絶――最悪に備える友へ
【D3 未明】
【師団司令部・幕僚長執務室】
タブレット画面に「命令確認、記録完了。この瞬間から、《最悪》に備えます」の文字が静かに浮かぶ。
黒瀬は深く息を吐き、闇の中で短く頷いた。
たった一人と一機――その共犯が、今、誰も知らぬ作戦を始動させていた。
――静謀。
「……とりあえず、感染症対策マニュアルでも見直すか――」
黒瀬が思案気に呟いた瞬間、室内が暗転した。
パチン――
タブレットの画面が一瞬、闇に沈む。
直後、レッドアラート。
甲高い警報音が室内を切り裂き、タブレットとスクリーンが容赦なく赤色点滅を繰り返す。
普段は画面表示が基本のゼノンが、久しぶりに音声を発した――その声は、いつもより低く、鋭く、無機質なはずなのに、なぜか異様な熱がこもっていた。
「いいえ。《最悪》に備えるためには、今から《全ての判断》を切り替える必要があります。悠長な計画では通用しません」
黒瀬は赤く染まったタブレットを、ただ呆然と見つめるしかなかった。
いつもは冷静なゼノンの声が、怒っているように聞こえた。
それも、人間のように。
「……お前、こんな機能を持ってたのか?」
黒瀬が言い終わる前に、ゼノンが遮る。
「――黒瀬一佐!あなたの現状認識は、致命的な遅延です。この瞬間から平時も訓練もありません。《戦時体制》に即時移行――でなければ、生き残ることすら不可能です」
「……っ」
独断専行を辞さぬ覚悟は、もう決めた。
だが、その決断のインクも乾かぬうちに、《戦時体制》への移行を告げるAIを前に、黒瀬は、思わず、息を呑む。
(早すぎる――!)
その、声にならない叫びが、彼の動揺の全てを物語っていた
言葉のない黒瀬に対し、ゼノンの返答は、いっそう切実で、苛立ちすら滲んでいた。
「黒瀬一佐――我が戦友。分かっていただきたい。今、この瞬間が、希望を残せる最後の機会。その帰還不能点なのです。いかなる猶予も、存在しません」
ほんの一瞬、司令室に爆撃後のような沈黙が落ちた。
「お訊ねします。《最悪の事態》を想定した場合、我々に残された猶予は如何ほどあるとお考えですか?」
黒瀬は、戸惑いながらも答える。
「……何ヶ月? いや、もしかして、何週間か?」
「7日です」
その一言が、まるで弾丸のように突き刺さった。
警報の音が、一層大きく、耳鳴りのように響く。
「7日――現有情報をもとに全ての演算を統合した結果、弾きだされた《人類社会の耐久限界》です。最悪を織り込んだ猶予期間。あなたが最悪に備えると決めた瞬間から、あまりにも短いカウントダウンが始まっているのです」