幕間 名もなき祈り──白飯とメモ帳と未来
都内の官舎の一室。
ワンルームの無機質な作り。
だが、観葉植物と、白いカーテン、古いアナログ時計が、どこか柔らかな印象を与える部屋。
日付が変わる頃には官舎もほとんどの明かりを落とすが、その中でひとつだけまだ淡い光を灯していた。
「・・・今日の分、終わりっ」
静かな独り言。
画面に映るのは、ある個人ブログの投稿ページ。
投稿者の名は伏せられていたが、筆致には確かな知性と、実体験に裏打ちされた温もりが宿っていた。
《日々の防災ノート:2025年6月某日》
今日のテーマは、「カセットコンロが使えない状況でもご飯を炊けるか?」です。
もしもの時、火が使えなかったら?という想定で、固形燃料と小鍋、それに庭の枯れ枝や牛乳パックを組み合わせて、簡易的な炊飯に挑戦してみました。
煙と格闘しつつも、なんとか炊き上がった白いご飯を見て、小さくガッツポーズ。
普段の台所仕事と違って、実験に近い調理でしたが、やってみると不思議と楽しくて。
備えは、重苦しいものじゃなく、少しの工夫と遊び心で続けられるんだと、改めて実感しました。
筆を止めると、如月遥は、少しだけ背伸びをした。
疲れた目元を押さえながら、キッチンへと足を運ぶ。
キッチンのコンロには、焚火台に炊かれた小鍋が置かれていた。
中には、ほんのりと艶のある白米。
冷蔵庫には、保存食と共に、野菜スープの冷蔵用パックが整然と並んでいる。
「うん、実験成功」
口に運ぶと、少し芯の残ったご飯が、意外にも香ばしく、懐かしい味がした。
防災実験を終え、部屋着に着替えた如月は、やや遅めの夕食を終えると、小さく伸びをしながらキッチンの換気扇を止めた。
ほどけた髪をかき上げ、タオルで首筋の汗を軽くぬぐう。
ゆるく広がる栗色の髪が、ふわりと肩に落ちた。
燃え残ったアルコールと、焦げた米粒の香りが漂っている。
小鍋一つ、固形燃料と焚火台で炊き上げた白飯。煙と闘いながらのプチ実験。
「・・・まあ、思ったよりいけるかな。でも、やっぱり窓はもう少し開けた方がいいかも」
微笑を浮かべ、彼女は窓際に立って外を見下ろした。東京の夜景は穏やかだった。
(誰かが本当に困ってるとき、家でちゃんと火が使えるって、案外大事なことかもしれない)
そんな言葉を、いつの日かのブログ用にメモ帳に書き留める。
「被災時にガスや電気が止まっても、カセットコンロや固形燃料で何とかなるレシピ集」
来週はそのシリーズ版を投稿する予定だ。
そして、画面の隅にふと映る自分の姿。
疲れているはずなのに、どこか嬉しそうな自分に、遥は小さく息を吐いた。
(姉さんも、こんなこと、やってるって知ったら、笑うだろうな)
口に出さずとも、そう思いながら、彼女は冷めたお茶を一口すすり、またノートPCに向き直る。
その日、彼女が未投稿のまま保存した記事には、こうも綴られていた。
「防災は装備ではなく思い出し方だと思っています。それは、日常の中で静かに積み重ねていけることだから。情報を集めて、忘れないようにして、ちょっと試してみる。それだけでも、人は強くなれます」
「たとえば、タオル一枚があれば水をろ過できるとか、トイレが使えないときの工夫とか。完璧じゃなくていい、でも、知ってるだけで心は折れにくくなるんです」
その言葉たちは、どこまでも優しくて、しかし、どこまでも強かった。
あのとき救えなかった命。
あのとき届かなかった支援。
それらすべてを前提にして、彼女は今日も備え続けていた。
これは、名もなき祈り。
そして、まだ世界が滅びる前の、静かな灯火。




