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死線の国境──《ゾンビ》よ、知れ。日本が、容易く滅びると、思うな。  作者: 斉城ユヅル
第2章 静寂の下に咲くもの──The Bloom Beneath the Silence
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幕間 彼女が愛した──仮想演習(シミュレーション)

「よし、できた」



深夜の内閣危機管理局。


すべての明かりが落ちた庁舎の中で、その一室だけが明かりを灯していた。



キーボードを叩く指を止め、如月遥は満足げに頷く。


机の上には空になった栄養ドリンクの瓶と、個包装チョコレートが転がっている。


彼女の深夜の戦友たちだ。



モニターに表示されているのは、来週実施予定の新型感染症を想定したパンデミック・シミュレーション最終設計シナリオ。


その全体構成と分岐の責任者が、彼女だった。



《フェーズ3:国内二次感染の拡大──制御不能フェーズへの移行》



茶色い瞳が、スクロールされる文面を追っていく。


最高のパズルを完成させた子供のように、その目は楽しげに輝いていた。



この《完璧な絶望》を創り上げる作業が、彼女は好きだった。


可能性という名の地雷をすべて洗い出し、国家が崩壊しうるすべての穴を見つけ、それを一つずつ潰していく。


それこそが、自分という存在の、国家における真の価値なのだと、彼女は信じていた。



「うん。これなら──誰も簡単には、クリアできないはず」



小さく呟き、保存。送信。


深夜二時を過ぎた東京は、それでもまだどこか、眠らぬ街の顔をしていた。


 



翌朝の対策会議室。


スクリーンに映し出された彼女の提出案を前に、空気は重かった。



「如月君。君の熱意は買うが・・・これは、少しやりすぎじゃないかね?」



最初に口火を切ったのは、年長の審議官だった。


その言葉に、他の官僚たちも苦笑交じりにうなずき合う。



「致死率が最大で40%? 感染経路が飛沫と接触の両方に加え、不規則な潜伏期間? これでは、対策の立てようがない。ただの終末論だよ」


「現場に不要な不安を与えかねません。もっと現実的な前提で組み直すべきです」


「これではシミュレーションではなく、演出されたパニックだ」



次々に浴びせられる、大人の正論。


だが、如月は、怯まなかった。


 

すっと立ち上がる。


声が澄んだ鈴のように響いた。



「ご意見は、もっともです。ですが」



会議室が静まる。


彼女は、全ての視線を正面から受け止めていた。



「あり得ないと、蓋をすることこそが、最大のリスクです。私たちの仕事は、希望を語ることではありません。あらゆる絶望の可能性を、一つ残らず、先に潰しておくこと」


「そのために、私たちはここにいるのではないでしょうか」



その声に、怒気も焦りもない。ただ確信と覚悟だけがあった。


誰よりも真剣に国家の未来を憂い、《守りたい》と願っている者の、それは魂の声だった。



「このシナリオは現場を困らせるためのものではありません。私たちがまだ気づいていない穴を見つけるための最高の砥石なのです。・・・どうか、このままやらせてください」



だが結局、彼女の案は現実的な形へと修正された。



致死率は2%に引き下げられ、感染経路も飛沫のみに限定された。結果として、シミュレーション演習はつつがなく完了し、記録上は「我が国の危機管理体制は十分に機能することが証明された」と結論づけられた。


その夜。


官僚たちは安堵の表情で赤坂の居酒屋へと向かう。


しかし、如月だけは一人、がらんとした執務室へと戻っていた。



モニターには、彼女が最初に作り上げた──《最悪》のシナリオが静かに表示されている。


致死率が異常に高く、複数の感染経路を持つ、未知のウイルス。


人間の社会を、音もなく崩壊させる設計。



(……誰も、本気で向き合おうとはしない)



彼女は、修正された理想的な成功例のファイルをゴミ箱へとドラッグし、本当の最悪のデータを、パスワード付きのフォルダにそっと隠した。



──いつか、本当に、こんな日が来てしまった時のために。



それは、誰にも理解されず、記録もされない、


ただ一人の官僚が行った、孤独で健気な備えだった。



窓の外では、相も変わらず、東京の夜景がきらめいている。


平和なその光景を見つめながら、如月は胸の奥にほんの小さな痛みを感じていた。



その理由を、まだ知らぬままに。

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