第1章 英雄王の誕生
ギリシア英雄神話および古代ギリシア悲劇のいわゆるテーバイ物、特にソフォクレス作『オイディプス王』に依る空想物語
空想物語 イオカステとオイディプス
第1章 英雄王の誕生
作者がここに記すのは、遠い昔の、その地ではまだ人間の思考や意思、感情や欲望などを後世に伝えることのできる文字というものがなかった時代の物語である。
所はギリシア、舞台となるテーバイはその偉大なる都市のひとつで、堅固な城壁に囲まれ、七つの城門を構えていた。
ある年の真夏のある日、一人で放浪を続けていたオイディプスはその城砦を包囲する奇妙な軍勢を見た。
すでにテーバイに至るずっと手前でオイディプスは、繁栄している都市とされているにもかかわらず街道を行き来する商人も旅人もまったくいないことを奇妙に感じていた。
そして城に近づくにつれ、なにか異変が起こったに違いないと確信するようになった。
道端にテーバイ兵の死骸を発見したからで、それも城に近づくにつれその数が増えていったからだ。
死んだ兵士たちと同じ運命をたどる危険を犯したくなければ、すぐに引き返してどこか別の都市を目指すか、あるいは、テーバイへ行くのなら警戒して朝まだきと夕まぐれのわずかな時間だけ歩くようにしなければならない。
そして城の近くまで来たらとりあえずどこかに隠れて周囲を偵察し、安全を確認して城に入るほかないだろう。
安心より若者の好奇心のほうが勝り、オイディプスが用心深くテーバイの城に近づくと、推測したとおり、そこではただならぬ事件が勃発していたのである。
オイディプスは城のある台地の下を流れる小川を挟んでわずかにせり上がる西の丘の林に身を潜め、すでに二週間この見知らぬ軍団を観察していた。
小川はこの一本だけでなく、テーバイ城を囲むように支流をつくりながら数本流れていて、どれも狭い河川敷の対岸には藪とさらにレバノン杉の林があった。
そこはオイディプスが身を隠すには好都合の隠れ蓑であると同時に、隠れて林の中を歩きあらゆる方向から、それもやや高い位置から包囲軍を偵察するのにうってつけであった。
数か所小川にさえぎられて林がとぎれる場所があるが、そこも日が沈めば包囲兵に見つからず浅瀬を渡ることができた。
偵察によりオイディプスが掴んだ情報からはいくつかのことが推察できた。
包囲の軍勢はほとんど裸の軍隊といってよかったが、皆がみなライオンの毛皮を身につけていた。
服に仕立てて身にまとっている者はなく、この集団の徴のように思われた。
体を覆っているのはわずかな襤褸布で、その上にライオンの毛皮の腰当てや腰飾りをつけたり、あるいはバンダナにして頭に巻いたり髪飾りにしていたからである。
それはオイディプスが幼少期から見慣れた軍隊の統一性のある制服とはまったく違い、ライオンの毛皮がかろうじて彼らが一つの集団であることを表していた。
手にしていた武器もまちまちで、長槍を持っている者もいれば棍棒を抱えた者、刀剣を腰にさげたり農機具のような道具を手に持っている者もいた。
石が入っていると思われる袋を腰にぶら下げた者は布帯を襷にかけている。
おそらく投石要員なのだ。
わずかだが狩り用の小さめの弓を持っている者もいた。
正規の軍隊にはとうてい見えない集団ながら、遠目からも目立つひとりの女が彼らをまとめ上げているようだった。
そう、間違いなく女であった。
女指導者は市の西側の比較的広い河川敷に、砂山を築き石で囲ったひな壇を作らせ、そこに移動に使っているらしい屋根代わりの天幕がかかった輿を乗せて、その上から座ったまま指示を出していた。
朝と夕には欠かすことなく異国の神々に祈りを捧げ拝礼の儀式をおこなっていたから、集団からは巫女ともみなされていたにちがいない。
彼女のそばには男と女の側近が控え、ひな壇の下には明らかに女とわかる大勢の取り巻きが、言い換えれば女戦士が、剣と槍をもって周囲を固めていた。
この者たちの中にギリシア語を解すものもいるとわかったのは、包囲軍とテーバイの兵士が城壁を挟んで罵り合っている場面が何度かあったからだ。
女首領のいる輿の上からは、少なくとも南北に長い卵型のテーバイ市の西側を固める包囲軍全体を見渡せたはずだ。
屋根の天幕を外して立ち上がれば、さらに広い範囲を睥睨することができただろう。
そこから異国の言葉でよく通るメゾソプラノで集団に語りかける姿を、オイディプスは偵察中に二度確認していた。
その声は明らかに女の声であったし、ライオンの毛皮で腰回りと胸をわずかに覆った姿は美しい女性そのものであった。
さらに腰に巻かれた黄金のベルトと胸元を飾る黄金のネックレスが女の美しさを引き立てていたが、それ以上に、彼女を他の者のはるか上方に押し上げ、その権威を絶対的なものにしていた。
愉快に思えることもあった。
女首領は豊かに盛り上がる黒髪にライオンの小さな毛皮をいくつも編み込んでいるので、雄ライオンのたてがみに似せているように見えたのである。
オイディプスはこの女がテーバイを滅ぼそうとしている見知らぬ一団の首領であると確信したし、この集団の全員が彼女の絶対的な権威に完全に服従しているに違いないと推察した。
まさにここに、オイディプスは自身がテーバイ市に入る唯一の突破口があると考えるようになった。
彼女を倒せばおそらくこの集団は結束の要を失って崩壊し、相手がオイディプスひとりだとしても、いっせいに逃げ出すか、彼に無抵抗のまま屈服するだろう。
しかしそれにしても偉大な都市テーバイは、いったいなぜギリシア人でない異国の軍隊の蹂躙を甘んじて受け、立ち向かわないのかオイディプスは最初のうちこそ理解できなかったが、包囲軍の偵察をへてテーバイ市の内情も次第次第にわかってきたのである。
最初にわかったことは、テーバイ王が不在だということだった。
城壁の上から叫ぶ声が、もうじき我が王が援軍とデルポイの神の吉兆のお告げとを携えて帰還し、雌ライオンとお前たち野蛮人を皆殺しにするぞ、と脅していたのである。
雌ライオンとはどうやら包囲軍の女首領のことを指していた。
それに対して包囲軍は嘲笑ってこう言っていた。
「お前たちは俺たちに殺されるか、そこで飢え死にするか、どちらかだ。お前たちの王は戻ってきはしない。包囲網を突破しようとした王の軍勢は全員討ち取った。もし生き残りがいても、もうどこかで野垂れ死にしている。なぜなら出ていってもう一ヶ月以上経った。お前たちは終わりだ」
またある者はこうも叫んでいた。
「お前たちはみんな腰抜けだ。怯える亀のように城の中から鼻先を出すだけなのか。勇気ある若者がいたにはいたが、みな城門の前で捕らえられ、女王の前で首をかき切られたからな。お前たちも見ただろう。そこからも見えるとおり、その屍は城門の前に放りだしておいた。同胞の骸ぐらい城門を出て取りに来たらどうだ。仲間を弔うこともできないのか、腰抜けめ」
このような応酬があって、結局はテーバイ側が押し黙ってしまうのであった。
異国人たちのギリシア語は上手いとはいえなかったが、テーバイ勢とは反対に圧倒的な優勢が言葉を力強いものにしていたのである。
テーバイ側が意気消沈、絶望して仮死状態であるのはあきらかだった。
こうした城壁越しのやり取りを聞いてオイディプスはひとつ気になったことがあった。
テーバイ王が軍を率いてデルポイに向かったとされる約一ヶ月前に、オイディプスはデルポイからテーバイへと通ずる同じ道を歩いていたからだ。
軍隊らしき一団とは出会わなかったが、ほとんどボロとしか言いようのない身なりの、疲れきった四人連れは知っていた。
知っているどころか、道を譲れ譲らないの争いから殺し合いになってしまい、オイディプスは三人を殺して自衛したのだった。
あれがもしデルポイに向かうテーバイ軍の生き残りなら、包囲軍の兵士が言うように、おそらく援軍も来ないし託宣を知らせる使者も戻ってきはしないだろう。
そのような状況でもし王のいない瀕死のテーバイを救うことができれば、異国から流れてきた一人ぼっちの放浪者でもこの偉大な都市の王になれるかもしれない。
一国の王子から国無しの放浪者に転落したオイディプスの野心が、いやが上にも燃え上がった瞬間であった。
そして実際オイディプスには一人だけでも眼の前の包囲軍を壊滅できそうに思えたのである。
すでに急襲のおおよそのプランはできていた。
あとはもう少し、包囲軍全体と軍の中枢の一日の行動パターンを正確に把握する必要があった。
そうしてから一点突破を敢行するのだ。
まずオイディプスは包囲網の中で周囲に気づかれず一人の兵を襲うのに最適な場所を見つけ、そこで計画どおりに事を成し遂げたのである。
倒した異国人から着ているものを剥ぎ取り、それに着替えて包囲軍に紛れ込もうというのである。
殺した兵は茂みの中に引きずり入れ、それからまた数日間敵の動向を監視した。
兵が一人いなくなったことで包囲軍の動きに変化が起こるようなことはなかった。
異国人たちは七日周期で普段より丁寧に朝夕の儀式を行うのだが、その時には女王の警護の女兵士たちは女王のいるひな壇に背を向けた状態から一八〇度向きを変え、両膝をついて他の兵たちと同じように女王の方を向き、彼らの神々に祈りを捧げる。
女王もその日は輿から降りて小さな石像を眼の前に立て、それに祈りを捧げるのである。
その日の朝の儀式の時に、オイディプスは乾坤一擲を賭すことにした。
夕方の儀式のほうが万が一の時に逃げやすいとは考えたが、多くの兵に追われるのは目に見えているし、そうなればやはり殺されるだろう。
逃げることを考えるのではなく、裸一貫になった身の運を試すことにしよう。
それならばテーバイの城壁にいる見張りがオイディプスの行動の一部始終を目撃できる朝のほうがよい。
英雄の誕生の目撃者となるのだから。
いよいよその日が来た。
早朝、まだ夜の帳が上がりきらない時刻にオイディプスは異国人と同じ格好をして、タイミングよく彼らの中に紛れ込んだ。
武器も殺した兵隊の長めの短剣一本と木の枝から作った杖だけにして、持ち物からも気取られないように用心した。
眠気が敵兵の注意力を緩慢にしていたせいか、誰ひとり不審な眼差しを向けるものはいなかった。
次第次第に儀式の場に集まってくる人々に混じって、オイディプスは徐々にひな壇の正面に設けられたスロープの前へと近づいていった。
すでに座っている人々は儀式の進行役が唱える祈りの言葉を唱和しながら、何度もお辞儀を繰り返していた。
その間をすり抜けてさらに前へと向かう人々の流れに乗って、オイディプスはとうとう最前列の女戦士の後ろまで到達した。
ひな壇の上では神人である女王が忘我の境地へと急いでいるのか、神体の石の偶像の前で頭を繰り返し繰り返し上げ下げしながら、何事かを口に唱えていた。
オイディプスは一度座ろうとしたが、思い直したようにそのまま女戦士の隙間を抜け、速歩きでスルスルとひな壇を登った。
そんなことが起こるなど想像もしていない異国人たちは、最初呆気にとられて出来事を見つめているだけだった。
だがひな壇を登った男の手に剣が握られているのに気づいた女警護兵たちが、長剣を抜いてひな壇へ駆け上がろうとした時には、女王は背後からオイディプスの片腕で羽交い締めにされ喉元に短剣を突きつけられていた。
オイディプスが叫んだ。
「女王を殺すぞ。下にいろ」
女兵士たちは言われたことを理解しなかったかもしれないが、オイディプスの怒鳴り声を聞いてじりじりと後退りしていった。
女王が叫んだ。
「お前は誰だ。悪鬼か、それとも人間か」
きれいなギリシア語だった。
オイディプスが答えた。
「人間だ。悪鬼などこの世にはいない。俺はオイディプスだ」
包囲軍は恐怖にとらわれ動顛していた。
それとは反対に城壁の上からは、「そいつを殺せ。雌ライオンを殺せ」という声がまるで合唱でもしているかのように大音量で鳴り響いた。
それまでひっそりとしていた城の中が急に騒がしくなり、明らかにテーバイ勢が打って出る準備をしているのがわかった。
城から響いてくる喧騒がさらに包囲軍に恐慌をもたらした。
すでに包囲勢からは逃げ出す者も出ていた。
このような状況の変化を見て取って、オイディプスはひな壇の下でオロオロしている異国の兵たちに向かって「獣はこう死ぬんだ」と大声で叫び、なんのためらいもなく女首領の首を切り裂いた。
切り口からどくどくと流れる血は女王の体やひな壇を囲う石垣ばかりでなく、あっという間に短剣を伝ってオイディプスの手と腕を真っ赤に染めた。
髪の毛を鷲掴みにされ跪いた姿勢を保っていた女王の死体を、オイディプスは足で背中を突きひな壇の下に蹴り落とした。
包囲軍からは絶望の悲鳴が、城壁からは歓喜の叫び声が鳴り響き、両方の声が混じり合った。
動揺が動揺を呼び包囲軍は完全に崩壊した。
包囲軍の多くは彼らがやってきた方向へ、近くの港の方角へと武器も何もかも投げだして遁走した。
港に向かうことができなかった者たちは、どうにか生きながらえようとてんでんばらばらに逃げ出した。
それを見たテーバイの市民たちが歓声をあげて、いっせいに城門から飛びだしてきた。
彼らは人を殺せる道具なら何でもよしといった体で手に手に何らかの得物を持ち、完全に脱力した敵に襲いかかった。
飛び散る血の匂いに酔った群衆は、一方的で凄惨な殺戮を敵の姿がなくなるまで嬉々として繰り返したのである。
皆殺しであった。
数時間がたち、狂喜に我を忘れている顔の殺人者たちが奪い取った戦利品を手に持ってもどってきた。
そしてひな壇の前で足を止めた。
オイディプスがそこで、いつの間にか切り取った女王の首を片手に持ち、もう一方の手に血に染まった短剣を握りしめて彼らを睨みつけていたのだ。
その目は怒りがこもっているかのように鋭くランランとひかり、何かを語っていた。
「なぜ皆殺しにしたのだ。敵であっても流す必要のない血は流すな。テーバイ人は鬼畜同然なのか、みな殺人鬼なのか。善良な市民ではないのか」
そうオイディプスは一喝しようとしたのかもしれない。
しかし彼は無言で仁王立ちしていた。
自分はテーバイ人でも彼らの指導者でもないと考えたのだろう。
彼の表情は恐ろしいものであったが、落ち着きをも群衆にもたらした。
腰と首には奪った黄金のベルトとネックレスが巻かれていて、それが彼の姿を柔和なものにしていた。
その恐ろしくも威厳に満ちたオイディプスを見てテーバイ市民たちは忘我の状態から我に返り、一人が「オイディプスばんざい」と叫んだ。
それに続き全員が次々に同じように唱和しだし、市民の勝鬨は城内にも響き渡った。
こうして血の海の中で、テーバイは包囲した異国の武装集団から解放された。
そして異国からやってきた放浪者オイディプスは、この時テーバイを救った英雄となった。
この事件は当然ながら長くテーバイの市民に記憶されたが、数百年がたち千年も経過すると、その昔オイディプスという名の英雄がスフィンクスと呼ばれるライオンの化け物を退治してテーバイを救った話としてギリシア全土に広まったのである。
テーバイという名称は城のある城砦の名前にも、またテーバイ王が支配する地域全体を指す名称にも使われる。
そのため区別が必要な時には城壁に囲まれた都市を、テーバイ建国の王カドモスの名にちなんでカドメイアと、そしてテーバイ城をカドメイオンとも呼んだのである。
テーバイの王都カドメイアは亀の甲羅状の小高い台地で、その一番高いところに王の城カドメイオンはあった。
そのため風の通りはいいのだが、今のような夏の盛りにはただ熱風が通り抜けてゆくにすぎなかった。
この季節には城壁の内でも外でも、暑気を避けて人の動きが停滞する。
カドメイア全域が気だるい静寂に包まれ、どこかで犬が吠えれば石造りの町のどこにいても聞こえるにちがいない。
それでも暑さがわずかに弱まる朝夕には、立ち働く市民の声や手押し車の音が石畳の街路にもどってくる。
だから市民は日中の停滞と倦怠の内にも活気が秘められていることを承知していた。
日中の静寂の中にのんびりとした憩いの空気が流れているからである。
そして季節がめぐると、街路のざわめきは日に日に間断がなくなり、休息の時が終わるのだ。
冬の厳冬期が来るまで市民は畑や川や山で、市内の泉や井戸端で、工房や港で日の出から日没まで立ち働いているので、地域の中心都市カドメイアの街路は手押し車の車輪の音や、人々の呼び声、話し声や商人の叫び声、笑い声や子どもの鳴き声などで充満する。
王宮で暮らし、毎年繰り返される静寂と喧騒のあいだの音の変化に注意深く耳を傾けることに慣れた女王イオカステにとっては、夏の閑静はテーバイの安寧と英気の養いのように思えていた。
しかし異国の侵略者が凄まじい勢いで城を包囲したこの夏には、静寂はあっても、それは恐怖に怯えた沈黙でしかなかった。
物憂げな憩いの雰囲気はつゆほどもなく、それに代わって緊張に硬直した空気が街を覆っていた。
勇敢な若者が何人か包囲網を突破しようとしたが、市民が城壁の上で見ている前でみな無惨な返り討ちにあってしまった。
この危難を乗り越えるための神託を求め、加えて援軍を近隣諸国に請おうと、テーバイ王ライオスは精鋭を率いて聖地デルフォイを目指し出陣したが、消息が途絶えてしまった。
包囲軍が流すプロパガンダによればテーバイ軍は敵に殲滅され、王も討たれて誰一人生きながらえた者はいないという。
はじめは誰もそれを信じなかったが、一ヶ月ちかくたっても帰還の合図がないので市民の希望は完全に失せてしまい、テーバイはコーマの状態に陥った。
とうとう絶望は淵底に達してしまったかと思われたとき、とつじょ事態は一変したのだ。
イオカステはその日、朝から何やら市中がざわついているのに気づいた。
それは明らかに恐慌状態に発せられるわめき声ではなく、底なしの歓喜、有頂天の大はしゃぎに思われた。
宮殿の中でもなにやら慌ただしい足音が響いている。
そう思っていると、いつもとはまったく違う気ぜわしい調子で、誰かが部屋の扉をノックした。
と同時に乳母が中に飛び込んできた。
乳母の顔は晴れ晴れとしていて、目は興奮で大きく見開かれていた。
せき込みながら老女が早口で話しだしたのは、包囲していた敵の殲滅とテーバイの解放というイオカステを驚喜させるニュースだった。
それもどうやら、どこからかやってきた若い異邦人がたった一人で敵を壊滅に陥れたというのだから、その話を聞いてイオカステは喜びも忘れ目を円くして驚いた。
テーバイ人の誰にも、王と最強の軍の精鋭にもできなかったことを、異郷の者が一人で成し遂げたというのなら、それは神々の中のどなたか、あるいは神々が天から遣わした霊人なのではないか。
人間だとしても、人間の中の最高の存在の英雄であることは間違い。
そうイオカステも乳母も侍女たちも、お互いにまくしたてた。
乳母がまた慌ただしく部屋を出ていくと、イオカステは窓から聞こえてくるざわめきのなかに、いくつかの短い言葉が聞きとれることに気づいた。
「ばんざい」、「・・ディプス」、「やったぞ」、「大丈夫だ」、「英雄」といった言葉のように聞こえた。
人々はなんどもなんども、はっきりはしないが、そんな叫び声を上げているようだった。
外の声をもっとはっきり聞こうと、一番よく聞こえる窓を探して西側の部屋に移動した。
それでもものたりなくて外から姿を見られることも承知で、城全体を見渡すことのできる最上階のテラスに登っていった。
どんどん大きくなる巨大な声の渦の中から、イオカステはとうとういくつかの言葉を聞き取った。
「あの若者が倒したんだ」、「・イディプスがテーバイを救ってくれた」、「英雄だ、英雄がテーバイにやってきた」、「おれたちも戦ったぞ」等など。
カドメイア包囲の恐怖もとうとう終わったのかと思うと、イオカステは夫に替わり王権を代理していた緊張感から解放され、安堵の気持ちが湧いてくるのを感じた。
しかしそれでもまだ半信半疑だった。
本当にただの一人であの野蛮な大包囲軍を倒せたのだろうか。
敵に挑んだ勇気ある者たちはみな殺されたではないか。
敵は殲滅されず、まだどこかに隠れているのではないか。
国の命運を任された者のそんな危惧の念も、途切れぬ民衆の晴れ晴れとした歓声によって薄らいでいった。
ようやくイオカステの顔に落ち着きの気配が戻ってきた。
それとともに敵を殲滅した「・イディプス」という奇妙な名の英雄に興味が湧いてきた。
「それはきっと剛の者なのであろう」、「見るからに恐ろしげな壮年の大男であっても驚きはせぬ」、「だが若者だと言うではないか」などとイオカステはその男に思いを巡らす一方で、それにしても何とかディプスという名が正しいのなら不思議な名前の英雄だと思った。
イオカステがそう思うのも無理はなかった。
ディプスは二本足という意味だからだ。
「オイに意味があるなら、それは何かしら。嘆きの間投詞なら、おお哀れな二本足ということになる。全然英雄らしくない名前ね。それともそこは、エイとかアイとかウイとかなのかしら。あるいは何とかディにプスなのかしら。それにしてもやはり足がらみということだわ」
いろいろ想像をめぐらしても正確な名前さえわからないのだから、イオカステの推測は言葉遊びをしているに等しかった。
そのためイオカステの思考は早々に現実的な諸問題へと向かったのである。
なぜなら何という名前であろうと、どんな男であろうと、夫のライオス王が死んだのであればこの男がテーバイの新しい王になるであろうし、彼女の次の夫になるだろうからだ。
それはこの男がテーバイを最大の危機から救い、市民たちを奮い立たせ、すでに皆から英雄とみなされていることから自然の流れであると思えた。
イオカステがその后になり引き続き女王の位にとどまることも、彼女がテーバイの最上位の家柄の出であれば当然のことであった。
オイディプスを夫に迎えることは彼女にとって個人の意思とは別次元の必然であった。
イオカステにも個人としての相性という問題が気にならないわけではなかったが、それはテーバイの安寧と王家の安定があるうえで希求されるべき問題であると彼女は考えていた。
いずれにしても二本足男のひととなりを垣間見る機会はすぐにおとずれた。
テーバイの市民たちが女王に午後の拝謁を願っている旨を、イオカステの弟で首相の地位にあるクレオンが知らせてきたのである。
テーバイ解放の英雄を案内しての来城ということであったので、イオカステは自ら城内の広場に出て迎えることにした。
午後の予定の時刻が迫ると門の外がざわめきだした。
開けられた城門から宮殿へと向ってくる一人の青年とそれを取り囲んでいる市民の代表たちと、さらにその背後につきしたがって押し寄せてくるおびただしい数の群衆をイオカステは見た。
彼らは全員が目を輝かせ、お互い嬉しそうに情報交換をしたりしながら、これから女王と英雄とのあいだで繰り広げられるであろうドラマに期待を寄せていた。
行列の先頭がイオカステと王家の重臣たちの前で歩みを止めた。
群衆の大多数はというと、宮殿前の広場の中に入ることができず、近くの路地に散っていくしかなかった。
そこで壁から伝わってくる話だけでも聞き取ろうというのである。
城内に入れた者はまだ運がよい方だったかもしれない。
行列の後方にいた多くの群衆は城門の外で、中で起こることを又聞きするぐらいしかできなかったからだ。
市民の代表を迎えた女王イオカステは、準備されていた重厚なレバノン杉製の椅子に腰を下ろすこともせず彼らを歓迎し、その後ろに立つ英雄を見つけて「あなたは我がテーバイの英雄です」と言って、手を引いて前へと導いた。
イオカステの目の前に立つ青年は長く旅をしていたせいか髪はぼうぼうで、衣服はもともとは立派なもののようだが痛みも汚れもひどく、女王に拝謁する格好としては恥ずかしいかぎりの姿だった。
返り血を浴びた手や腕はすでに洗われていたが、服に染み付いた血痕はいたるところにはっきりと残っていた。
がしかし本人はそのことを意に介している風でもなく、まったく物怖じする様子もなかった。
倒した女首領の戦利品だという黄金のベルトとネックレスが、いまではもう英雄にふさわしい装飾品となっていて、オイディプスをイオカステと対等の存在にしているようだった。
クレオンをはじめとするテーバイの重臣たち、市民の代表者たち、押し寄せ遠巻きにして見守る市民たちに囲まれてふたりが話し始めると、たちまち城内は静まりかえった。
幾百もの視線がただ一点に焦点を合わせていた。
「わたしはテーバイの女王、イオカステです。あなたは我がテーバイを救ってくださいました。テーバイを代表して心より御礼申し上げます」と言ってイオカステが腰を低め深々と頭を下げると、「オイディプス、ありがとう」の声が群衆の中のいたるところで上った。
「どうか」とまたイオカステが話し始めると、叫び声はたちまちに止み、また女王の声が静寂の中に響いた。
「どうかお名前をお聞かせください」
「わたしはコリントス王ポリュボスの息子で、名をオイディプスといいます」
そうオイディプスが言い終わるとすぐに、群衆の「オイディプス、ばんざい」が何度も鳴り響いた。
その声にはこれまでとはやや違い、コリントスの王子と聞いた喜びなのか安堵感なのか、勝鬨にはなかった柔らかさが混じっているようだった。
続けてイオカステはどうしてあの大勢の敵軍を遁走させることができたのかを尋ねた。
これは話に耳を傾けている全員が知りたいと思っていたことだったので、ふたりを取り囲む円は更に小さくなったように見えた。
聴衆の緊張と興味に誘われてオイディプスは話し始めた。
街道の様子の変化に注意しながらカドメイアに近づいたこと、十四日ほど隠れて包囲軍をあらゆる方角から観察し、その特徴を掴み、女王を倒せば全軍が統率を失うだろうと結論したこと等を丁寧に話してきかせたのである。
その理路整然とした説明を聞いていたイオカステをはじめとするテーバイの重臣たちや市民から、話のところどころでオイディプスの明晰な思考能力と作戦能力に感心する唸り声や、オーという感嘆の声があがった。
話が終わるとオイディプスの一番近くで聞いていたイオカステの口から、感極まって「オイディプス様、あなたは正真正銘のテーバイ救国の英雄です」と言葉が綻び出た。
オイディプスの手を両手で握ったイオカステの目は潤んでいるように見えたが、それは彼女一人だけではなかった。
また「オイディプス、ばんざい」の声がいっせいに上がった。
するとその叫び声はいつの間にか、「オイディプスを王に」、「テーバイの英雄を王に」というシュプレヒコールに替わり、その声一色になると宮廷広場は騒然となった。
イオカステのすぐ横に控えていたクレオンが、姉の意を汲んで大声で「静かに」と二度三度叫んだのでようやく騒ぎがおさまった。
イオカステが市民全体に呼びかけるように話し始めた。
「聞いてください、市民の皆さん。あなたがたの気持ちはよくわかりました。わたしもオイディプス様はテーバイの王にふさわしい方だと思います」
ここまで言うと、またしても民衆が同じシュプレヒコールを叫んだ。
すぐにイオカステはそれを制して話を続けた。
「しかしライオス王の安否がまだわかりません。もし亡くなられたとしても、王の選出はわたしひとりが決めるような事柄ではないことは皆さんも御承知でしょう」
そう話してイオカステは、王の選出は最終的には重臣たち、すなわち町の代々の功労者一族との協議で決めるのが伝統であり慣例であることを市民たちに思い出させた。
そしてその上で、「しかしテーバイが王無しで存続できないのもそのとおりです」と語りかけ、これから重臣と市民の代表者たちと協議して、日が沈む前に決定を同じ場所で公表すると約束した。
広場に残った民衆は、オイディプスを宮殿の中へ案内しようとした重臣たちを遮って、我らの英雄は協議に参加しないのだからという理由をつけて、オイディプスを急ごしらえの輿に乗せ「オイディプス、ばんざい」、「オイディプスを王に」とわめきながら城内を北から南へ、東から西へと巨大な塊をつくって練り歩いたのである。
そのあいだ宮殿内では重臣たちの協議が行われていた。
オイディプスにテーバイの指導権を委ねることに反対する者は一人もいなかったが、当面の間はイオカステに代わる暫定の王となってもらい、ライオス王の死が確認された時点で正式に戴冠の式をおこない、同時にイオカステとの婚儀を執り行うということになった。
もしライオス王が生存していて王の職を続けられる場合には、オイディプスにはテーバイの英雄という称号とそれにふさわしい王に次ぐ最高の地位と財産と報奨があたえられ、テーバイに留まらない場合でもそれらはすべて保障されるとしたのである。
協議のあいだただひとりイオカステの弟のクレオンが、奇妙なことを言い出して皆の注意を引いた。
オイディプスという名前は膨れたという意味のオイディと足を意味するプスの合成であろう。
なぜなら彼の脚は、ブーツを履いているのではっきりとはわからないが、足首からふくらはぎにかけて腫れて膨らんでいるように見える。
この言葉に皆「確かにそうかも知れない」と相づちを打ったが、そのことが王への推薦とかかわりがあるとは思えなかったので、奇妙なことだと思いながらこの話はすぐ立ち消えとなった。
こんなことを言い出すのは、クレオンの王になるチャンスがこれで消滅するから、ひとつぐらい難癖をつけたかったのだろうと、詮索する者もいたのである。
民衆がまた宮殿前広場に集まりだした。
オイディプスもその中に混じって立っていたが、テーバイの人々がそれを放っておかなかったので、彼はやはり自然と前に押し出された。
太陽はやや西に傾いたとはいえ日差しはまだ強かった。
それでもときどき海からの風が吹くようになっていた。
王宮からイオカステが重臣たちを従えて出てくると、イオカステ自身が協議の経過と結果を述べた。
「オイディプス様、あなたにはたった今からテーバイの暫定王になっていただきたく、お願い申し上げます。どうかテーバイのためにお引き受けください」というイオカステの言葉に、市民はどう反応してよいか困惑したようだった。
不満だった者もいたので、大歓声は起こらなかった。
しばらくざわざわしていた時、オイディプスが「よろしいでしょうか」とイオカステに言葉をかけたので、次に何が起こるのだろうという緊張が走り、広場に静けさが戻った。
オイディプスはまずテーバイ王家の決定に礼を言い、暫定王を承諾した旨を言い終えると、ライオス王が消息不明に至るまでの経緯を教えてほしいと頼んだ。
クレオンがそれに答える形で、ライオス王が二〇数日前に五〇名の兵を率い、身の回りの世話を焼く奴隷を一人つれて出陣したことから話し始め、目的が戦うことよりもデルポイに行くことだった、ところが城門を出てすぐ戦闘が始まってしまった、デルポイからは時間がかかっても七日か八日で往復できるが未だになんの連絡もない、そのことから戦死したものと推測している等など、詳細に説明したのだった。
クレオンの話を聞き終わってオイディプスはデルフォイからテーバイに向かう途中、多くのテーバイ兵の死体を見たと話した。
この話を聞いて、その場にいるテーバイ人は勝利を忘れて苦痛と悲しみに沈んだ。
そしてまた包囲されたときの恐怖と絶望を思い出していた。
突然、オイディプスの言葉が響き渡った。
「テーバイの暫定王として、最初の命令を下す」
急な命令調のひと言に全員がびっくりし唖然として、しばらく皆言葉を忘れたかのように黙っていた。
イオカステがすこし心配そうな顔をして、「どのような命令をお下しになるおつもりですか」と聞いた。
オイディプスの返答は明快であった。
城外で敵軍によって殺されたテーバイの遺体を丁重に葬らなければならない。
城門の前の遺体は遺族が弔えばよいであろう。
王と出陣した兵たちの捜索は徹底しておこなわなければならない。
ひょっとしたら生きながらえた者が見つかるかもしれない。
遺体は路上にあるとは限らない。
オイディプス自身が街道沿いで見たのも二十体ほどであった。
デルフォイの近くまで行きながら命が尽きた者がいるかもしれないから、捜索隊はそのつもりで遠方まで脚を伸ばして探す必要がある。
もし遺体が見つかったなら、やはり丁重に捜索隊が埋葬しなければならない。
遺体の身元の確認もできる限りおこなう必要があるが、この夏の炎天下に晒されてきたのだから難しいかもしれない。
連れて帰るのは無理だろうからその場に葬ることとしよう。
出陣したのはライオス王、兵士、奴隷、合わせて五二人だが、オイディプスがテーバイに向かう途中に争いになって殺してしまった者がほかに三人いる。
合計五五人ということをよく覚えておくように。
もしかしたら身元の確認ができないかもしれないので、人数の把握は特に大事だ。
捜索は翌日開始する。
オイディプスの詳細な指示を聞いて全員がもっともな命令だと納得した。
テーバイ解放の熱気の中で忘れかけていたことをオイディプスが思い出させたからだ。
クレオンは手はずを整えるのに少なくとも二日は必要で、したがって明日の出発は無理であり明々後日になると意見を述べたが、それを遮ってオイディプスは死者と遺族のためにもこれからすぐに準備に取りかかり、夜も城内に明かりを灯した中で市全体が捜索隊の編成に協力すれば明日の昼前には出発できると主張したのである。
市民たちは王や王とともに出撃した息子や甥、知人や隣人の子弟の安否を思い、生き残った者の神々によって定められた義務を思い、今朝敵を打ち破った時の闘志をふたたび燃やした。
「さあ、さっそく準備開始だ。王とともに行くぞ」という一人の長老の一声に「おう」という鬨の声が続くと、オイディプスの暫定王就任の場に居合わせた人々は新王に頭を下げながら散会して、長老たちの指示に従いそれぞれがすべき仕事に着いたのである。
事の一部始終を見、聞いていたイオカステはそのあいだひと言も言わず黙っていたが、むしろ言葉を挟むことができないほどにオイディプスの行動に感嘆し、喜んでいたのだった。
テーバイ市民を思う気持ちが異邦の者とは思えないように感じたのだ。
そればかりか就任したばかりのこの若き王がその時々の為すべきことを如何に的確に捉え、如何にスピーディーに遂行するかを目の当たりにしたのである。
敵軍の女王を倒した時のことを聞いた際にも、その用意周到さ、推理の的確さ、行動の果敢さに感心したが、それでもそれは話を聞いただけであって、実体験したものではなかった。
それだけに今日の一日だけでオイディプスの支配者としての卓越した能力に実際に触れることができてイオカステは幸せだった。
イオカステの視線はしばらく前からオイディプス一人に奪われていた。
その様子は全神経を集中してこの男の一挙手一投足から人間としての特徴を把握しようとしているかのようであった。
彼の目はよく動くので落ちつきがないようにみえるのだが、どうやらそうではなく、たえず周囲を観察しているのだろう。
その目つきは知的で鋭く、きつくさえあり、若者でありながら直視された者はひるんでしまう。
幼さ特有の情緒に流されやすい面など、どこにもなかった。
年齢はいくつなのだろうか、二十歳前ではなかろうか。
髭が薄く柔らかそうで、それほど伸びていないのもそのためなのだろう。
若いことは確かであっても、雰囲気は老成した賢王のようであった。
体つきは屈強とは言えないが、がっしりとはしていて、幼い頃から滋養のある食物を摂り、習慣的に体を鍛えていたことを推測させた。
そのためもあって、身長は平均的でしかないのに、見た目の体格は大きく見えた。
弟のクレオンが協議のさいに言及したオイディプスの足の異常のことなど、まったく気にならなかった。
全体的に、年齢不相応の自信に満ちているようだった。
イオカステにはオイディプスのすべてが好ましかった。
気になることがあるといえば、彼にではなく、イオカステがおそらく十五歳ちかく年上であることだった。
「こんな年増の女を妻にするのは嫌かしら」と、イオカステはすでに女王であることを忘れライオスの妻であることも忘れて、オイディプスとの夫婦生活を想像するのだった。