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八ヶ月後、宮本先輩は卒業し、その一年後に速水先輩も卒業した。悩んでいた宮本先輩も悩まずにいた速水先輩も、大学へと進学した。学びたいことがあるそうで、実に熱心な事だ。
月日が経つのはあっという間だとよく言うが、それは振り返った時に出る言葉だと思う。短期的な話じゃなくて、長期的な話。楽しい時間は直ぐに過ぎるという話じゃない。三年間を振り返った時、三年もあったのにアレとアレとアレしか出来なかった、もっと違うことをすれば良かった、でもアレはして良かった。たまに自分を振り返ってあげる。それが人生なのだろうな、と考えてみる。
三年生になった所で俺という人間は変わることは無く、涼宮玲は涼宮玲のままだ。今までの違いといえば、隣に速水翠が居たことくらいだろう。
「それで涼宮、進路は考えているのか?」
二年前、夏休みの前日に図書室で聞かれた事と同じことを問われる。場所は進路相談室に変わっているが、問いかける先生も問われる生徒も問う内容も変わってはいない。
「進路希望調査票には就職と書いているな。具体的には何処にだ?」
「役所の人間にでもなろうかなって考えてます。それが一番性に合ってると思いませんか」
「そうか、お前らしいな。親御さんにも話しているんだろう?」
「はい、全部話しました。まず高校で試験受けてみて、駄目だったら専門に通わせてくださいって、全部話しました」
この話は一年以上前から考えていた。調べて、勉強して、不合格の時のことも考えた。間近に進路に悩む先輩がいたからだろうか、俺は何一つ迷うことなく、この道を決められた。
結果として、専門学校に二年間通うことになったが、今やもう役所の人間の一人になっている。
「そうだ先生に聞きたいことがあったんですよ」
進路に全く関係の無い話だけど、汐田先生は快諾してくれた。何でもいい、それが教師の役目だからと。
「大人ってどうやったら成れるものなんですかね?」
「それは難しい質問だな。携帯で調べてみたらどうだ」
言われたとおり、携帯で検索してみる。サイトの一番上には『責任が大きくなる』と書かれている。それを先生に伝えると、珍しく笑っている。嘲笑という表現が一番合っているように感じる笑い方だ。
「責任が大きくなるだけで大人なのだとしたら、実に簡単だな。であれば、生徒会長はもう大人なのかもしれないな。生徒をまとめあげるという責任は、教師の私でも知らない。その点で見れば、生徒会長は私よりも大人かもしれないな」
また、先生の長話が始まった。三年間の付き合いともなれば、既に慣れている。そして、大人の言葉は聞いていても不快じゃない。
「見方を変えようか。成人すれば大人になれるのか。私は否だと思う。最近隣のクラスに教育実習生が来ているだろう。彼は二十歳を超えていて、お前らから見れば大人かもしれないが、私から見ればまだまだ子供だ」
「責任とかいう抽象的なものはダメ、年齢のような具体的なものでもダメ。ますます大人が分からなくなりそうです」
「つまり大人とは何者でも無いんだ。自分から大人になるのではなく、周りから大人に仕立てあげられる、とでも言うべきかな。責任が大きくなったら大人、成人したら大人では無い。大人だから責任があって然るべきで、大人だから常に正しくて然るべき生き物だ。私から出せる大人はこの程度だが、満足はして貰えそうか?」
「はい、十分です。変な話に付き合って貰ってありがとうございます」
やはりこの人が一番大人に近い気がする。正に俺の思う大人なのだから、を体現してくれている人だ。入学式の日に感じた事は何も間違ってはいなかった。
「汐田先生が担任で本当に良かった」
「涼宮、お前はお前だけの道を往く事が一番合っている。寄り道は結構だが、くれぐれも道は外れるなよ。なぁに、教師の戯言だ。忘れてくれ」
先生は天性の人たらしだ。こんなにも恥ずかしいセリフを惜しげも無く言ってくれる。恐らく先生は人間の事が好きなのだ。
いつしか先輩が問うていた『先生はどっちですか』という言葉を思い出す。あの時の回答はきっと照れ隠しだったのだろう。そうでもなければ、あの顔は説明の付けようがない。好きなものを仕事にして、好きなままで居続けられるこの人は心の底から尊敬する。
その年の冬、俺も卒業した。
未練なんてものは持っていないつもりだったけど、図書室から離れるのは少し寂しい気がする。三年間も通い続ければ、情のひとつでも湧いて出てくるという訳か。奥の小部屋もカウンターの中も今日が最後。図書室にすらもう入れない。どうやら、卒業式の雰囲気に当てられすぎたようだ。
「玲、やっぱりここに居た。母さんが写真撮るから校門来いってさ」
中学生から五年間の付き合いの侑李が迎えにくる。胸ポケットにはコサージュが付けられ、右手には花束、左手には鞄を抱えている。
「小言いわれるのも嫌だし、早く行こっか」
「卒業式の日くらいはさ、ノスタルジックな気持ちにさせてくれてもいいのにね。あれ、ノスタルジアだったっけ」
「どっちでもいいけどさ。またいつか、ご飯でも食べに行こうな」
「なんだよ、急に」
「いいじゃん今日ぐらいはさ、こんなこと言っても」
「玲は明日には忘れてそうだから、俺から声掛けるよ。断んなよ?」
「親友の誘いを断る奴なんて居ないよ」
「俺の隣に居るんだけどね」
「でも侑李なら上手くやるだろ?」
「この信頼は重いね」
未だに新しい校舎に二人の笑い声が響いて消える。
涼宮玲の高校生活は綺麗に幕を閉じた。
***
日の出の時間は日に日に早くなり、涼宮が語り終える頃には東の空は明るくなり始めている。あと一時間半程居座れるカラオケボックスから四人は出て、店の外へと行く。
五月の明け方はよく冷える。上着を着ていようが、容赦なく体を凍えさせる。アスファルトは濡れていて、肌寒さをより演出している。
そんなよくある五月の朝に、彼らは帰路に着く。街は静かに眠り、起きているのは自分達だけという錯覚すら覚える、そんな朝だ。
始発で帰るという綾乃をすぐそこの駅に送り届けて、電車が来るまでの二十分間ほど待合室で話す。若さとは恐ろしいもので、半日かけて語り続けていたというのに、話題が溢れて止まらない。内容は脈絡のないものばかりで、胸の内を明かしあった彼らにしか話せない事が多くあるのだろう。きっとこれからも似たような機会は巡ってくる。それでも、今しか話せない事があって、せっかくの機会を逃す事が惜しいのだろう。話し続ける理由など、この程度のちっぽけな理由で事足りる。
「今日はありがとね。ばいばい」
また行こう、と簡単に果たせる約束を結んで別れを告げる。
綾乃が改札の奥へと抜ける。時間に縛られている彼らは、それには逆らえない。一足先に日常へと戻って行った。
「綾乃、次も来てくれるかしら」
「それは和泉次第なんじゃない?」
「なんで私なのよ」
綾乃のいない駅構内で二人の声が反響する。
「あんた何かしたんでしょ?」
「心当たりが全くないね」
「ほーら、こんな所で言い合いとかやめてよね、ほんとに。香織も家まで送るから」
一人で帰れると騒ぐ香織の話を聞かず、二人は香織を家まで送り届ける。駅から離れると諦めたようで、素直に家まで送られる。綾乃とは対照的に話したい事だけを一方的に話し続けていた。涼宮は直すところしかない、侑李くんは完璧すぎて逆に駄目。そんな調子ですっかり明るくなった街を進んでいく。
朝五時を回れば、チラホラと街に人が出てくる頃合だ。ラジオを聴きながら歩く人、犬を連れて散歩する人。街が起きてきた。
「じゃ、採用試験頑張って」
「なんか涼宮から言われるのムカつく」
「コレでも社会人だから」
「人をコレ扱いやめてよ」
綾乃との別れがシットリしたものなのなら、香織との別れはサッパリしていた。送る側は何も変わっていないのだが、送られる側に色が出ているという事か。
残りは涼宮と侑李の二人だけ。こうして二人きりで歩くのは久しい。親友であった彼らはどれだけの時を経ても、変わることのない関係を築いている。
無言で歩き続けることは気まずいとは感じない。むしろ、こちらの方が性に合っている。互いにそう感じている。
「あ、そういえば聞きたいことあったんだけど」
「どした?」
「速水先輩ってさ、結局何やりたかったの?」
涼宮に対する問いではなく、涼宮の隣にいる人物への問いであった。聞かれた涼宮は答えていいものか少し悩んでから口を開く。
「カウンセラーになりたかったんだって」
「へぇ、こう言っちゃなんだけど、在り来りというかなんというか……」
「はは、自分でもそう言ってたよ。上から引っ張る人は居ても、下から背中を押してくれる人は居ないからって、前言ってたかな」
速水先輩らしいね、と侑李は笑ってみせる。涼宮から聞いた話でしか知らない速水先輩だが、涼宮が話したのだから正しいと直感的に信じている。
彼らもまた歪な関係だ。
「今日は誘ってくれてありがと」
「約束してたからね」
「また、頼むわ」
「そうだ、照れ隠しで好きを嫌いじゃないって言うのやめた方いいよ。じゃあね」
次があるから、簡単な別れで十分。最後に小言を残して、侑李も彼の日常の中に戻っていく。いつしかの卒業式の日と似たような別れ方だった。
侑李の家に背を向けて、歩き出す。
一歩、また一歩進んでいくほど、涼宮の日常が近づいてくる。速水翠が待つ、二人だけの家にゆっくりと近づいていく。
彼と彼女はいつまでも二人だけで、世界を見上げて生きていく。
[完]