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五月の三週目、二度目の当番が回ってきた。
蓋を開けてみれば、図書委員の仕事は難しい事は何も無かった。本の貸出は名前とクラス番号を聞いて、バーコードを読み込むだけ。返却も返却ボックスに溜まる本のバーコードを読んで本棚に返すだけ。朝と昼の時間はなかなかにタイトだが、仕事に関しては概ね問題なくこなしている。
月曜日の放課後、時計も午後六時を指し、図書室を閉める時間。図書委員の他に生徒の姿はない。
「あの、ご迷惑おかけしました。えと、とりあえず、あの件は解決は出来たと思うので、はい」
誰もいなくなったタイミングで先輩二人に謝罪する。
原因は部活への勧誘。一度目の当番だった四月の三週目からつい先週まで、スポーツ科の奴が俺の所に押しかけて来ていた。朝のホームルームの前、授業間の休憩時間、お昼休みや放課後の部活が始まるまでの時間。多い時はほぼ毎時間付きまとわれていた。クラスに来るのは耐えられるが、図書室にまで来られたのは誤算だった。
俺が直接迷惑をかけた訳ではない。だが、その人物は俺が原因で図書室にまで押しかけてきた。であれば、直接迷惑をかけたと言われても、何も言い返せない。
先輩方には迷惑をかけないようにしよう。そう考えていたはずだった。にもかかわらず、一日目でその幻想は崩れ落ちた。
「気にしなくて大丈夫よ。図書室で大声出された時は驚いたけれど、注意したら素直に聞いてくれたもの」
「そうだよ、私たちよりも君の方が大変そうだったでしょ。それより、ちゃんと解決出来たの?」
先輩方の言うとおり、図書室で騒がれたのは当番一日目だけ。カウンターに座る俺の元へ一直線にやってくるやいなや、部活入らないとか何考えてんだ、みたいな事を言われた。隣に座っていた速水先輩が制止を試みていたが、止まる気配は見られず、注目されていく一方だった。宮本先輩が仲裁に入って、アイツを図書室の外へ連れ出さななければ、さらに大事になっていただろう。図書室の外でどんな話をしたのか分からないが、次の日から図書室だけには来なくなった。
「入部届の提出期限が先週末までだったので。もう諦めてくれたみたいです。今日は全くでしたから」
今週になった途端、無理で無駄な勧誘はピタリと止んだ。廊下ですれ違ったとしても、目すら合わせようとしない。自分からちょっかいを出し続けた挙句、勝手に興味を無くすとは横暴過ぎる。ただ、他人から取られていた時間が自分の手元に戻ってきたことは、素直に嬉しく思う。
部活に入れというアイツと、部活にだけは入りたくない俺。もはや会話にはならず、主張の押し付け合い。いや、俺はしていないから、主張の押し売りだ。
実力があるのに辞めるのは意味が分からない、理解できない。最後の大会で俺に負けっぱなしでいいのか。そんなことを、毎日繰り返し繰り返し繰り返し、説得され続けてきた。初めは説明もちゃんとしていたし、テニスはしないと言っていたが、意味は無かった。どうやらその行為は逆効果だったらしい。日に日にエスカーレートしていき、先週の追い込みは凄まじい気迫を放っていたように思う。
最後は俺の逃げ切りで話は終了。入部届を出さないだけで勝てるのだから、実に楽な戦いだ。
「あ、いけない、用事あるんだった。翠ちゃん、鍵渡すから戸締りお願いしてもいいかしら」
宮本先輩は速水先輩に鍵を渡し、足早に図書室を後にする。二人でその後ろ姿を見送る。
隣に佇む速水先輩を盗み見ると、渡された鍵を手元で遊ばせている。キーリングに人差し指を入れ、鍵をブラブラしてみたり、クルクルと回していたりする。終いには勢い余って鍵を足元に落としてしまっている。
「さーてと、私が戸締りしておくから、君は先帰ってもいいよ」
「流石にそれは申し訳ないです。来てすぐに迷惑かけてちゃってますし、せめて戸締りくらい手伝わせてください」
「そ?気にしないで全部任せてもいいのに」
ちゃっちゃっと終わらそっか、と落とした鍵を拾い上げ、握り締めながらそう言ってくれる。
戸締りといっても、窓の施錠の確認、机に置かれっぱなしの本が無いか確認する程度で済む。仮に施錠を忘れていたとしても図書室は三階だ、問題など無いだろう。
ふと、本棚の本が倒れているのが視界の端に映る。本が貸し出されていて、綺麗に並ばないのだ。本立ての一つでもあれば良いのだろうが、丁度よくそんなものが出てくる訳もない。
「どうしたの?」
すぐ後ろから速水先輩の声が聞こえてくる。先に点検の終わった先輩が、戻りの遅い俺の様子を見に来た。
「その本、読んだことあるの?」
懐かしい本を見つけて、時間を食っているのかと思ったのだろうか。
俺の手にある本の表紙には『死ぬまでの一生』と黒い楷書体で書かれた文字がある。
「ここで初めて出会いましたよ、この本には。でも、こういう題材の本は嫌いじゃないです」
「と、言うと?」
本のジャンルは多岐に渡る。
ミステリー小説、歴史小説、ファンタジー小説、恋愛小説。ドキュメンタリー小説、自己啓発本。まだまだ他にも沢山ある。
「人の生き死にが書かれる本を手に取っちゃうんです。本によりますけど、凄く綺麗に死ぬ表現をしてくれるじゃないですか」
終わり良ければ全て良し、とはよく言ったものだ。人の終わりを綺麗事にするだけで、物語の完成だ。
「私はあんまり好きじゃないかな。だって、特別じゃないものになっちゃうように感じるから」
「だからですよ。皆こぞって書くもんだから、特別なものから変わっていくんです。綺麗なのが当たり前になって、気づいたらそれが当たり前になってくるんです。そういうのに触れた方が売れますし」
逆に先輩の好きな本は何か聞いてみる。ただの興味本位。俺が勝手に言っただけだが、先輩に聞いてみてもいいはずだ。
「綺麗な物語は好きだよ」
短い回答を貰う。
綺麗な話は好きでも、綺麗に人が死ぬ話は好きじゃない、特別なままにしておきたい。そういう事なのだろうか。もう少し詳しくとも考えたが、質問されてばかりというのは、あまりいい気はしないだろう。それに今の先輩には、少し聞くのが憚られる。
「───君は、もしもの話は好き?」
「好きか、嫌いかの二択なら、好きじゃないです」
「そ、残念。私は好きよ、もしもの話は」
質問の意図は理解出来なかった。
先輩は背を向け、荷物を置いている小部屋の方へ歩いていく。体の後ろで手を組んで、短い髪が左右に揺れている。
気の所為でなければ、先輩の頬が少しあがったように見えた。本当に不思議な人だ。態度はコロコロと変わっていくし、表情だってそうだ。宮本先輩や他の生徒の前では元気な姿を見せているクセに、急にスイッチが切れたような姿を見せることもある。そして、俺の前で元気な姿はなかなか出てこない。
好かれたい、嫌われたくない。そういう事ではなく、ただ当たり障りのない、健全な、普通の、先輩と後輩の関係を築きたかった。
初めて出会った時と同じように、先輩の後ろをいつもと同じ距離で付いて行く。歩く速度が変わろうとも、この距離だけは絶対に崩れない。
壁掛け時計の長針は六に触れようとしている。思っていたよりも話し込んでしまった。夏に向けて、少しずつ日も長くなってきているが、既に外は薄暗い。日差しがなければ、まだ肌寒い。一回りサイズが大きい学生服に袖を通して、荷物をまとめる。
「扉の施錠よしっと。ミヤ先輩に頼まれたの私だけど、君に鍵預けるね。いつも君の方が早いしね」
親指と人差し指につままれた鍵を差し出される。あまり気乗りはしないが、鍵を素直に受け取る。一年のペーペーがこんなに大切な物を預かっても良いのだろうか。職員室にはスペアキーがあるはずだが、無くしたら、それはそれで面倒そうだ。
「今日だけですからね。次は速水先輩が朝開けてくださいね」
「……はいはい。それじゃ、今日もお疲れ様。外暗いから気をつけて、じゃあね」
先輩から受け取った鍵をリュックに仕舞い、空返事を貰う。教室にでも用事があるのか、扉の前で手を振って帰ろうとはしない。図書室から出てしまえば、これといって関係値も無いため、特に聞いたりはしない。
「はい、お疲れ様でした。先輩もお気をつけて」
浅くお辞儀をする。
先輩に背を向けて、歩き出す。肩越しに先輩を観ると、まだ手を振っている。目が合ったような気がしたから、歩きながら小さくお辞儀をしておく。
『私なんか気にかけないでいいのに』
その言葉を拾ってしまう。声の主は一人しかいない。でも、振り返ってはいけない気がして、足早にその場を後にする。
階段を降りていく途中、先輩はまだ図書室の前にいるのかと疑問が出てくる。引き返したくなる感情をグッと飲み込み、階段を降り続ける。
校舎の外に出てから三階を見上げてみても、廊下は真っ暗で、中の様子はこれっぽっちも確認できない。先輩に気軽に質問した事、先輩に約束まがいのことをした事、先輩を勝手に心配した事。一人で反省会をしつつ、帰り道を行く。
翌朝、速水先輩は図書室に現れなかった。
昨日の今日だ。何かあったのかと心配になる。だが、それは杞憂だったようで、携帯に一件の通知が来ていた。時間は八時が過ぎた頃、送信主は件の人物。寝坊、と端的に二文字だけ送ってきている。携帯の画面を宮本先輩に見せ、二人でくすくすと笑う。
幸いにも、朝から図書室に用のある生徒いる訳がない。人が来なければ、図書委員としての仕事も発生はずもなく、この時間は雑談として消化される。
「翠ちゃんのこと怒らないであげてね」
「寝坊くらいじゃ怒りませんよ。そんなしたら、俺の方が倍は怒られる事になっちゃいますから」
宮本先輩とも、そこまでの関係値を持っていない。話す話題は自然と絞られてくる。
「速水先輩、去年も寝坊はよくしてたんですか?」
「うーん、たまにかな。でも今年は頑張って朝起きてたみたい。後輩出来るし頑張んなきゃ、ってね」
「こんな後輩だったから、張ってた気がプツンと切れちゃったんですかね。あはは」
自虐を混じえておちゃらけて見せるが、宮本先輩はお気に召さなかったらしい。優しい口調で諭されてしまった。その目はどこまでも優しくて、不思議と悪い気はしてこない。
恐らくアイツもこの口調に当てられたのだろう。これでは、図書室に怒鳴り込みに来るなど、二度と出来ないのも納得してしまう。
「宮本先輩は学校とか幼稚園とかの先生が凄く似合いそうです」
自分の中では褒め言葉のつもりで言ったが、どうやら上手く伝わってくれなかった。どちらかといえば、自分の魅力というか、強みというか、そういった自己分析が上手くいっていないような感じがする。勿論、こんな事を言ってしまった日には、今度こそちゃんと怒られてしまいそうだ。
「でも、進路もちゃんと決めなきゃなぁ」
「大学、行くんですか?」
「そのつもり……なのだけれどね。どこの大学に進学するのか、決めきれていないの。涼宮くんは今のうちから考えておいた方がいいわよ。ギリギリまで放置していた、だらしない先輩からのアドバイス」
経験からの出た言葉は、どこか重くのしかかるものがある。大学受験ともなると、高校受験とは比にならない選択肢が与えられるはずだ。先のことを考えて考えて、考え抜いて決めるプレッシャーは容易には想像できない。
目の前に悩んでいる先輩が居ても、自分はまだ大丈夫と考えてしまうのは、人間の性なのだろうか。将来、将来の事か。夢や憧れさえ持つ事が出来れば、真剣に悩める日が来てくれるのだろうか。
「───ごめんなさいっ、遅れました!」
扉の開く音と同時に、速水先輩の声が響く。肩で息をしているのが遠目からでも分かる。相当急いで来たのだろうか。リュックの肩紐が肘の辺りまで垂れ下がっている。制服もかなり着崩れていて、ブラウスが所々飛び出ている。
「おはよう、翠ちゃん。今朝も誰も来なかったから心配しないでいいのよ」
「それは、良かっ、たです。鍵、も預けてて、正解でした」
息を切らしながら話している速水先輩の呼吸は、落ち着くことを知らないようだ。言葉も、荒い呼吸のせいで途切れ途切れになってしまっている。
「ほーら、まず深呼吸して、息整えましょ。水はあるかしら?」
こうなった時の速水先輩への対応は手馴れていた。きっと去年もこんな風に面倒を見てあげていたのだろう。俺が入る隙間がどこにも見当たらない。仮に隙間があったとしても、何か出来ることは無いと自覚している。
速水先輩の呼吸が落ち着くよりも先に予鈴が鳴る。時計は八時二十五分を指している。何も無い朝の仕事を切り上げて、教室に向かわなければ、ホームルームに遅れてしまう。
一年の教室棟は二、三年生とは真反対に位置している。先輩方を見送ってから教室に戻るのが、自分の中で暗黙のルールになりつつある。
宮本先輩は一足先に教室へ向かい、速水先輩は未だ呼吸を整えている。完璧に落ち着いたとはいかずとも、ほぼ平常に近い。
「君もありがとね。私はもうちょっとだけ、休憩していくから。早くしないと遅れちゃうよ?」
それは貴方も同じだろうに。
「それじゃあ、またお昼に。……それと」
続きの言葉は敢えて言わずに、自分の頭の側面を触ってみせる。あの様子じゃあ、まともに朝支度の時間を取れていなかったと分かる。伝え方が正しかったかどうかは不確かだが、伝えたい事はちゃんと伝わっているようだ。顔を見たら、すぐに分かった。
「教えてくれてありがとっ」
先に行ってと言った癖に、先に小走りに去っていってしまう。ただ、感謝と笑顔が貰えたのだから、文句のひとつも出てこない。
今日は夏の晴れの日のような笑顔だった。