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中学を卒業した後、親が離婚した。
父と母、姉と俺の四人家族だった。
母が夏頃からずっと離婚の話をしていたから、こうなる事は何となく分かっていた。
離婚したいと言う母と、離婚だけはしたくないと言う父。二人の意見が全くの反対だから母はかなり苦労したようだ。俺たち二人がいない所で話していたから、何が原因だったかは分からない。けど、扉一枚挟んだだけじゃ、全部を隠せるわけじゃない。お金の事とか、家の事とか、俺たちの事とか話してた。理性的に話す母と、感情的に話す父では、まともな会話にすらなっていなかったようにも思う。
離婚の話をする度に憔悴していく母を見るのは、辛かった。別に父の事は嫌ってはいないが、ここまで小さな人だとは思いたくもなかった。子供にとって身近な大人は先生と両親しか居ないのだから、まともな大人のままでいて欲しかった。
何はともあれ、両親は離婚して、俺たちは片親になった。親権は母が持ち、俺たち二人は母に付いて行って生活している。この選択に関しては、姉と満場一致で母に着いていくと前々から話していたから、すんなり決まった。三人で1LDKは少々手狭だが、しょうがない事だし、母には必要以上に負担はかけたくない。
年明け頃には、ほぼほぼ離婚する事が確定していたようだから父には言わず進路を変えた。父と離れるということは、父から解放されるということだ。つまりテニスをもうこれ以上やらなくて済む。成績は人に誇れるくらいには残していたし、テニス自体嫌いじゃない。けど、自分がテニスを続けることで母を苦しめる事になってしまう。だから、辞める。それだけだ。
だってそうだろう。道具代も、遠征費も全て母に払わせ、自分はコーチとしているだけ。そんな馬鹿な話があってもいいのかと、子供ながらに憤りを覚えた。
子供の俺が出来る、最大の反抗。体育系の学校への進学を望んでいた父を捨てて、公立高校の進学科へ進学を決めた。人生初めての賭けに勝った俺は、晴れて普通の高校生になれる。辞めることに対して、なんの感情も湧いてこない。所詮、俺にとってはその程度のものだったのだろう。むしろ清々しさまで感じてしまったのだから、なんとも救いようがない。
「本当に辞めるの?頑張ってたじゃない」
部屋の隅に置いてあるラケットを見ながら、急にそんな事を言われる。案の定というか、冷めきった声をしていた。恐らく自分では気付いていないし、顔も酷いなんてものじゃない。
「もう、いいんだって……」
そんなだから、少しばかりイラついてしまうのも仕方ない。
「……ごめんなさいね」
「なんで謝るんだよ。じゃあ、もう寝るから」
前半分は聞こえないように。
後ろ半分はイラつきを見せつけるように。
まるで駄々をこねるガキのように惨めな姿だ。早く大人になりたいだなんて、これまたガキのような、そんな思いを抱きながら目をつぶる。
俺は父のような、母のような大人にはなりたくない。でも、大人が何か分からない。人間というのは未知に対して恐怖を抱いてしまうらしい。だから僕は早く大人になりたい。
***
俺が入学した高校は部活か委員会どちらかに必ず所属しなければならなかった。もう部活はやろうとすら思えない。だから、委員会に所属する事を前々から決めていた。どんな部活にでも大会や発表会があるのは少し億劫だし、以前のように熱量を持てない。そんな奴がいても迷惑だろう。
委員会に所属出来れば、部活をしなくていい。それが叶うのであれば、委員会の種類は問わない。強いて言えば、図書委員会になれたらいいな、と思うくらいだ。
本は嫌いじゃない。
本を読むという行為をしていれば、そんな人をわざわざ邪魔を仕様だなんて思う奴はいないだろう。本は一人になる為の手段にはもってこいだ。本当の本好きからは疎まれそうな不純な理由で本を好いているが、許して欲しい。
一週間後、図書委員となった俺は一回目の委員会に向かうべく、一人廊下を歩いている。一昨年、新校舎となった校舎は学校らしさというものを感じさせない。周りに生徒の姿が無ければ尚更だ。新しい環境で一週間生活してきたが、この異様なまでの排斥感は拭いきれないでいる。
階段を登り、三階へ。幾つかの特別教室を通り過ぎ、廊下の角を曲がる。コの字型をしている校舎の長い廊下を行った先、そこに図書室はある。
廊下の窓から下を見下ろすと、部活動説明会のために体育館へゾロゾロと移動する多くの生徒が目に止まる。少しでも状況が変わっていれば、今頃あちらにいたかと思うと寒気がしてくる。
「君も図書委員?」
図書室がある方向から、不意に話しかけられる。
髪型はショートで、少し背が高い。そしてリボンの色が違う。上級生に違いないが、二年生か、三年生かは検討もつかない。
「なら、急いだ方がいいと思うな」
振り返りざまに目が合う。
一秒も満たず、すぐに離れる。ほんの数瞬、瞳を交わしただけなのだが、どうにも惹き込まれてしまう。先輩の纏う雰囲気とは裏腹に、その瞳の奥はひどく冷たかった。
何故だろうか。
先輩だったから、容姿が整っていたから、感傷に浸っていたから。パッと思いつく理由はこれくらい。
でも、たぶん、そうじゃないんだと思う。
何故、先輩の瞳に引き込まれたのだろうか。
初めて会った人の内情など知る術は無く、初めて会った人に干渉的になる道理も無い。
思考にリソースを割いていた分、目の前のことが疎かになってしまっていた。先輩は既に歩き始めている。軽い足音が二人きりの廊下に静かに響いて、その音で現実に戻される。恐らく、目当ての場所は同じ図書室だ。この人の後ろを付いて歩いても、変だとは思われないだろう。
廊下に響く足音がひとつ増える。先輩の二メートル後ろを、付かず離れず、距離を保ちながら歩く。
ボソッと何か呟いたかと思うと、先輩は急に止まり、半回転。距離にして一メートル強、初めて先輩と向かい合う。
「ごめんごめん、いつもの悪い癖が出ちゃってた。後輩くんの前でくらいちゃんとしなきゃだね。私は速水翠。君がもし図書委員だとしたら、二年の付き合いになるからよろしくね」
速水翠と名乗る先輩はくるりと振り返り、ニカっとした笑顔で自己紹介をした。その姿があまりに自然で、綺麗だったから言葉を失ってしまった。
冬の晴れの日のような、そんな笑顔だ。
今度は一秒以上目が合う。
いつまでも黙っている訳にはいかない。いくらなんでも失礼過ぎる。亡くした言葉をかき集めて、なんと言葉にする。
「───お、れは涼宮玲です。二年間はお世話になりそうです」
「声掛けてみて正解だったね。ちょっと急いだ方が良いかも、みんな集まってきてるから」
そう言って、先輩はまた歩き始める。
また、その背中を追ってついて行く。
「………どっちが素なんだろ」
『何か言った?』と、先輩がもう一度振り返る。
心臓が跳ね上がる。これは先輩の笑顔のせいもあるのだろうが、恐らく理由はそれじゃない。たしかに、年頃の男子には先程の笑顔は実に魅力的だ。さらに歳上に対して、愛らしさまで感じてしまった。初対面の人になんて事を思ってしまったのか、自分自身に嫌悪感を抱く。
そんなんだから、考えが声に漏れてしまっていたらしい。先輩の耳に届いたのが音だけで助かった。今から図書委員会での集まりがあるというのに、気が緩みすぎている。気を引き締めなければ、首が絞まる。そんな面持ちで、図書室へと足を運ぶ。
一回目の委員会では、軽い顔合わせと委員会の仕事についての説明を受けた。配られたメンバー表の紙に目をやると、一年三組の欄には俺の名前が、二年三組の欄には速水先輩の名前が書かれている。
図書委員の仕事は至極簡単だ。本の貸出と返却された本の処理。当番はクラスごと縦割りで決められ、一週間単位で当番を交代していく。俺は運命的な確率で速水先輩と同じになった。
「たまたま、図書室に向かう途中に速水先輩から声を掛けてもらって」
「そうなんですよ、ミヤ先輩」
三組の当番の集まり。
一年の俺、二年の速水先輩、そして三年生の宮本萌先輩。男一人に女性二人は少し肩身が狭い気もするが、考えてみれば家の中でも同じような構図だ。姉も友達をよく家に上げているから、女性ばかりというのも慣れている。
「実際どうですか?当番の週は忙しいですよね。聞いた感じだと、時間もあんまり余裕なさそうですし」
「うーん、確かに慣れるまでは大変かもしれないけれど、慣れちゃえばそこまで大変じゃないかしら。お昼も図書委員だけは奥の小部屋で食べていいことになっているし。始めてしまえば、何とかなるものよ」
「それはミヤ先輩が完璧超人だからですよー。私はちょっと朝が苦手で……えへ」
速水先輩はその言葉の続きを言わなかったが、言わんとしていることは分かる。夜更かしのし過ぎという人もいれば、体質という人もいる。女性は特に体質のせいで朝が弱いとはよく聞く。貧血気味の人は朝起きれないとか、でもそれはあんまり関係ないのだったか。あまり覚えていないが、そういう人だっているに違いない。
「えっ、図書室でお昼食べていいんですか!?」
「え、流されっ……」
「そうよ、司書さんのためにある部屋なのだけれど、お昼当番がある関係で、お昼の時間だけは空けてくれるの」
「ミヤ先輩まで……」
「ごめんね、翠ちゃん。でも、今は涼宮くんに色々説明してあげないとだから、ね?」
無いはずの耳としっぽが垂れ下がっているように見える。その姿はさながら、飼い主に遊びを断られ続けている子犬のようだ。この人は犬のような人なのだろうか。先程の廊下での雰囲気と違いすぎる。
いや、自分を高く買いかぶりすぎている。初対面である俺と、一年間共に過ごした宮本先輩とでは対応が違うのは当たり前の事だ。そして今も、慣れていない後輩には優しすぎさなければならない、という固定観念で優しくされて、良くしてもらっているだけだ。
「他に聞いておきたい事はないかしら?」
「そうだよ、聞いておける時に聞いておいた方がいいよ」
これらはあくまで先輩方の優しさだ。考えすぎかもしれないが、この善意にタダで乗るのも申し訳ない。例え善意のみで構成されていたとしても、俺が耐えられない。
「いえ、先輩方の説明は凄くやすかったかので、今は大丈夫そうです。分からないことが出来たら、すぐに聞きに行きますね」
いつでも聞いていいからね、と惜しげもなく言ってくれる。どこまでも善意の塊のような先輩だ。せめて、この人たちに迷惑をかける事だけはしないよう心がけよう。
「盛り上がってるところ悪いけど、話をやめて、前を向いてもらっていいですか。はい、ありがとう。では、今年一年間はこのメンバーで図書室を運営していくので、よろしくお願いします。最後に先生からの挨拶でいいですか?」
委員長の言葉に従い、みんなが静かになる。委員長の声は芯がしっかりしているおかげか、声がよく通る。そして、委員長の目線の先に、この一週間で見慣れた先生がいる。担任の汐田先生だ。
「丁寧な司会、進行をありがとう。やはり前田を委員長にして正解だったようだ。改めて、私が図書委員会の顧問の汐田だ。私から話すことは特には無いが、何か問題等が起こった場合には直ぐに私の所へ来るように。報告、連絡、相談は社会人の基本になる。お前たちが図書委員の活動を通して、少しでも成長してくれれば良い。それだけでもこの活動には意味があったということだ。早速、明日から仕事が始まる。よろしく頼む。では、時間より少し早いが解散でいいだろう」
汐田先生が委員長に号令の合図を出して、一回目の図書委員会は終了した。
先輩方に別れを告げて、図書室を後にする。行きは一人ぼっちだったが、帰りは他クラスの一年と話しながら教室へと帰る。
仕事に慣れるまでの辛抱、と言ってしまえば身も蓋もないが宮本先輩もそう言っていた。そのうち、図書委員の仕事も日常として落ち着くだろう。日常の一部となってしまえは、どうということは無い。それまでの辛抱だ。