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「あ、おかえり」
侑李と香織がカラオケボックスに戻ると、やけに冷たく、そう言われる。部屋を見回すと、椅子で座りながら眠る涼宮と反対側に座り、無言で携帯をいじる綾乃が居た。
どことなくピリついた空気が漂っている。
侑李の理想では学生に出来なかった事を、等と話してはいたが、どうやら最悪の方向で着地していたようだ。
「玲寝ちゃってるじゃん。起こす?」
「どっちでも」
「それじゃあ起こしちゃうね」
「ねぇ綾乃、涼宮と何かあったの?」
「なんにも」
携帯から一切目を離さず、口だけで返事をする。何かがあったことは明らかだが、これ以上綾乃に追求して場の雰囲気を悪くする訳にはいかない。侑李と香織は言葉を交わさずとも、それぞれが同じ思考に行き着く。
何があったのか、どんな会話をしたのか、聞きたいことは幾つかある。あるのだが、綾乃を怒らせたことは聞かずとも分かるからタチが悪い。
「玲起きろ、おい、玲」
肩を揺すりながら、名前を呼ぶがなかなか起きてくれない。涼宮の寝姿があまりにも気持ちよさそうで、無意識のうちに肩を揺する力を緩めていたのかもしれない。中途半端に揺すってしまったせいか、座って寝ていた涼宮が椅子の背に沿ってずるずると滑り落ち、横になる形になる。
「……す…い…」
涼宮の口から漏れ出た言葉が、さらに場の雰囲気を悪化させる。
「涼宮、今『すい』って言ったわよね。どんな夢見てるのかしら」
「言ったね。どんな夢見てるんだろ。すいって何とか水とか、猫吸いとかしか思いつかないけど」
「少なくとも幸せそうな夢は見てそうね。そんな顔してる」
一定に寝息を立てる涼宮を起こす方が申し訳ないように感じてしまう。それ程までに涼宮の寝顔が穏やかなものなのだ。
「二人とも知らないの?玲くんがご執心のすい先輩のこと」
携帯を触る手を止め、侑李たちを見ながら綾乃がそんな事を言い放つ。
言われた側は困惑した、という表現が正しいだろう。綾乃の指している『すい先輩』という人物を思い出せなかった。
「あれ、ほんとに知らなそう。香織はともかく、侑李くんなら知ってそうだけど」
「ピンとくる人が居ないかも。そのすい先輩って人はウチの学校の先輩だったんだよね」
「そ、私たちの一個うえの学年の先輩。委員長だったとか、部活で活躍してたとか、有名な先輩とかじゃ無かったから、思い出せないのも無理ないかも」
「逆に何で綾乃はそんな事まで知ってるのよ」
「そんな事言わせないでよ」
涼宮の方を見ながら言い切る。相変わらず冷めきった目をしている。
涼宮の事が好きだった頃、本人が駄目であれば、外堀から埋めようと考えた時期があった。香織は元々友達の為、飛ばすとして侑李等の仲の良さそうな友達を見繕って話していた。その作戦が上手くいったかと言えば、答えは言わずとも分かるだろう。
だが、その中に『すい先輩』が居た。先輩であった事もあり、廊下で会った時に軽く挨拶する程度の関係に着地した。それでも綾乃の記憶にこびり付いているのは本人にとって苦痛でしかない。よりにもよって、このタイミングで思い出す事になろうとは、今日の集まりに来る選択が間違いだった。
「もう、何で私だけこんな気持ちになんなきゃいけないのかなぁ……」
「それは、なんて言うかごめんなさい。今のは私が無神経だった」
「あれ、待って。すい先輩って男子と女子どっち?」
「女の子だよ。身長はちょっと高めで、髪はショートとかだったかな。あんまりよくは覚えてないけど」
あと少しで思い出せそうだが、思い出せない。そんな気持ち悪さが侑李の中を巡る。思い出す人が本当にすい先輩で合っているか怪しいし、そもそも思い出した人が高校の時の記憶なのかすら怪しい。
「ちなみに玲との関係は?あー、えと、例えば部活の先輩後輩みたいなことね」
「それで言うと委員会のはず。玲くん図書委員だったでしょ。確か、当番が同じ日だったか何かでずっと一緒にいた先輩」
この情報のおかげで、ようやくとある人物がすい先輩であると確定した。先程までとは一転して、難解パズルでも解いたかのようなスッキリとした気持ちになる。
「やっと思い出せた。けど、俺は先輩の事を詳しく知らないや。玲との会話でも話題に挙がらなかったし、先輩と話した事も無いからさ」
「私だって正直な所、あの先輩の事よく知らない。知ってるのは玲くんとよく一緒に居たって事くらいだし。でも、あんまり好きじゃないんだよね、あの人」
それは何故、と会話の置いてけぼりの香織が無理やり入り込んでくる。当該人物についてはさっぱり分からないが、それでも輪に入れないのは面白くないだろう。
「機械みたいなの」
「と、言うと?」
「 話す時なのかな。すっごく同じだったの」
それの何が気に入らなかったのか、二人には理解出来ない。
人間である以上、人によって態度が変わってしまうものだろう。この人は自分に優しいから好きだ、あの人は横暴だから好きじゃない。他人に対する好感度というものは、この程度で上下する。そして、時と場所によって、その感情を仕舞い込める生き物だ。だから同じである事に変なところなど無い。常に監視でもしていれば、ほんの少しの綻びを見けられるものだろうが、そんな大層なことは出来ない。
では、何が同じだったのか、その疑問が残る。
「普通だったら対等か、先輩なんだから上から目線で来ても全然いいじゃん。文句が出るかどうかは、一旦置いといてね」
「確かにそうね。先輩というか、歳上から下手に出てこられても気持ち悪いわね」
「そこなんだよ、香織ちゃん。しかも私にだけじゃなくて、皆に平等に下から出てくるの。なーんか好きになれなくてさ。それだけなんだけど、そこだけがずっと引っかかっちゃって」
人が人を好きになるのも、嫌いになるもの、人の勝手だからとやかく言うものではない。ないのだが、彼らにとって、涼宮が執心していた人物とあれば話は別だ。涼宮が関わっている時点で、興味が出てきてしまう。
「何で玲はすい先輩に執心してたんだろ。先輩ってだけで謎の魅力を感じる男心も分からなくはないけど……」
「今から涼宮を叩き起しましょ。いくら考えたって分からないのだし、本人から聞くのが一番よ」
「今日の玲くんなら話してくれるかもだけど、侑李くんすら知らない事を簡単に教えてくれると思う?」
綾乃の指摘はもとっもだ。
親友である侑李すら詳しく知らない関係を簡単に教えるものだろうか。綾乃曰く『ご執心』と表現された関係はただの交友関係である可能性は低い。
「玲とは割と何でも話してたけど、異性関係はほぼ話してないな。ほら、恋愛観の話聞いたでしょ。友達も先輩も後輩も恋愛対象にならないんだったら、話の広げようがないからね」
「仮にすい先輩が好きだったとしたら、あの説明はなんだったのよ。もういいわ、本人に直接聞きましょ」
事の詳細が気になって仕方ないのか、もう我慢が効かないようだ。もはやその気迫で涼宮が起きてもおかしくはない。
そして、香織を止めようとする者は誰もいない。侑李も気になるので止めはしない。むしろ、嫌な役を進んで買ってくれる出るのであれば、それに越したことはない。
「あ、でもわざわざ起こさなくても大丈夫そう。玲くんいい加減、寝たフリしなくてもいいと思うよ?」
香織を目の前にした涼宮の目が開かれる。少し驚いた様子で二、三歩後ろに後ずさる。
わざわざ言葉を発さなくとも、目を見れば何を言いたいか、よく分かる。
「面倒くさそうな話してるから寝てやり過ごそうって思ってたのに。今日は目ざといんだね」
「玲くんが目を覚まさせてくれたからじゃない?」
うふふ、あははと二人だけの世界に入ろうとする寸前で待ったをかける。二人だけの世界に入るのは、二人きりの時だけにして欲しい。
「起きてたんなら話も全部聞いてたでしょ。それなら私が言いたい事も分かってるわよね」
「また俺の話すんの。もっと話す事あるんじゃないの?今何やってるかとか、就活の話とかさ」
「それは一軒目で話したし、就活の話も既にしたわよ。私たちはすい先輩とあんたの関係の話をしたいのよ」
「それは話をするんじゃなくて、聞きたいだけじゃん。会話って知ってる?」
苦し紛れの挑発に乗ることもせず、話を逸らし続ける涼宮を軽くあしらう。
自分の恋愛観はすんなり話し始めたにもかかわらず、すい先輩については一向に話したがらない。それだけで涼宮にとって、すい先輩という人物は重要なのだろう。
「それじゃあ会話してあげようかしら。涼宮にとってすい先輩はなんなのよ」
「いきなり確信めいた事聞くのは焦りすぎだよ、香織。こういうのは馴れ初めとか、出会い方とか少しずつ聞いていくのが楽しいんだから」
「侑李もそっち側かい……」
侑李と香織から向けられる好奇の目。
今日はどうも逃げ場が無くなることが多い。大人数であれば、多数の意見に共感したふりをしていればいいものの、こうも少人数だと無理だ。話題の中心が自分自身であれば尚更無理だろう。唯一敵になり得ないのは興味無さそうにしている綾乃だけというのは皮肉めいている。
この空気に充てられるのは本日二度目だ。
涼宮の性格上、やり返すなどという面倒な事はしないだろうが、居心地が悪いことこの上ない。
だが、話さなければ場が進むことは無いだろうし、解放もされないだろう。不思議なもので、こういう時の選択肢は二択のようで一択しかない。
「……翠のこと話せばいんだろ」
我ながら心底嫌そうな声で言ったな、と自覚する。だが、それ程までに嫌なのだから仕方がない。内容にもよるが、自分の事を赤裸々に話したがる人などいないだろう。
「嫌なら話さなくてもいいと思うけどな、私は。話したくないことの一つ、二つくらいあるでしょ」
「綾乃からすい先輩の名前出した癖にそれはムリよ。話題提供しちゃったのは貴方なんだから」
まさに正論。
綾乃の援護も虚しく終わる。
綾乃の誤算は、ここまですい先輩の事を話したがらないことだ。涼宮であれば、二つ返事とはいかずとも、すんなり話してくれそうであると思っていた。さらに今日の彼は何でも話してくれる、そんな気がしていたから尚更だ。
「ごめんね、余計な事しかしなくて」
「別にいいよ。人ってそんなもんだから。それで和泉は何が聞きたいの。もうちょっと具体的な質問してよね」
「じゃ、じゃあ、すい先輩との関係は?」
これまで涼宮から向けられたことの無い目が向けられ、少し竦む。しかし、この程度で止まる香織ではない。
「それはいつの」
「いつって、高校の時以外あるの?」
「今でも関係持ってるってことでしょ。ちょっとくらい考えてよ。香織、頭はいいんだから」
「それで?」
「どうせならどっちも教えてよ、玲」
侑李がこの険悪な雰囲気を修正しようにもお手上げ状態だ。これまで何度かイラついた涼宮の相手をしてきたが、今日が過去一番である。
「高校は先輩後輩。今は……」
「今は?」
「───同居人」
こうして、涼宮の昔話は始まった。
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