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 モニターからは最近推されているバンドが曲を紹介している。シンガーソングライター、バンドマン、アイドル次々に流れてくる音を涼宮は聞き流す。椅子に浅く座り、姿勢を崩して、天井のぼんやりとしたライトを眺めている。


「なにも聞いてこなかっただけじゃん」


 誰もいない部屋で自身の胸の内を吐露する。その声はモニターから出る音に掻き消され、無かったものとなった。

 涼宮はこれまで答えることはしていたが、応えることはしていない。常に他者と一線を引いて接し、どれだけ関係が深まろうが、線を引き続けている。パーソナルスペースが広い訳ではない。他人に踏み入らせない絶対的な領域が存在しているだけである。


 涼宮なりの処世術。

 取り繕うにもボロが出る。変わろうにも変われない。まるでプログラミングでもされたかのように、いつも振り出しに戻る。

 誰にとっても生きにくい。それは涼宮本人にとってもである。しかし、生きにくい生き方が、一番生きやすい生き方となってしまっているのだから救いようがない。


 それ故、先程の彩乃からあのような言葉が出た。初めて応えてもらったかのように感じられたから。それが香織の事でという事実は、内心複雑なものであったに違いない。


「それにしても、さっきのは説明が下手くそすぎ。あれじゃなんも伝わらないわ」


 説明できても伝わるかは分からないけど、と最後に付け足して目を閉じる。飲まされた酒は少量。顔の火照りも冷め、心臓の音も静かになってくれた。

 とっくの前に日は超えているが、今日はまだ続く予感がする。誰もいなくなったカラオケボックスで誰かが戻ってくるまで休んでいても、文句は言われないはずだ。


 自分の価値観の話から再開するのであれば、説明を変えよう。もっと分かりやすく、みんなに伝わるように。それで皆がどんな感想を抱くのかを知りたい。普通では無いしにろ、理解してもらえるのか、同意してもらえるのか。もし違う話題が挙がれば全てを水に流そう。誰もが忘れて、忘れたことなんて忘れて、思い出すなんてつまらないことはしないはずだ。

 そんなことを考えつつ、涼宮は浅い眠りにつく。


 ***


 香織は御手洗と言ってカラオケボックスから飛び出てきた。向かう先は宣言したとおり御手洗だ。壁に貼り付けてある案内標識の指示に従い、角を二回ほど曲がり目当ての場所に着く。


 すれ違ったのは男女一人ずつ。男は泥酔していた様子で、千鳥足で歩いていたし、焦点も合っていなかったから問題ない筈だ。しかし、女の方は違う。顔は少し赤みを帯びていたし、眠そうな虚ろな目をしていたが、目が合ってしまった。つまり見られたのだ。今の自分自身を。

 それが原因で御手洗へと向かう足がより速まる。深夜という時間帯のおかげか、その後は誰ともすれ違わなかったのが救いだろう。


「……大丈夫。いつもの私。大丈夫」


 鏡の前には、普段と変わらない和泉香織が呆けた顔で立っている。茶色の髪は礼儀正しく腰へと伸び、白のブラウスも皺ひとつなく、手入れが行き届いている。メイクはいつもより丁寧にした甲斐が出ている。


 ふと、個室の扉に目をやる。

 個室の扉は全て開かれており、誰もいない事が一目で確認出来る。 それに一日で多くの人に使われた跡が散見される。まだ、この時間帯だと店員の清掃は入らないのだろうか。案の定、壁の清掃チェックシートは昨日の日付で記録が止まっている。佐藤、田中、加藤、伊澤、佐藤と続くシャチハタのスタンプを見つめてしまう。


 何かがおかしい。

 周りの確認をせず、独り言なんて呟いたりはしない。いつもであれば、先に個室の扉に目を向け、誰がもいないことを確認する。トイレの汚れに思う事はあるかもしれないが、壁のチェックシートをここまで見ることなんてしない。

 皮肉なことに、今の自分がおかしいことは、自分自身が一番分かっている。先程、涼宮からは自分のことは分かっていないと指摘されたばかりだが、こんな簡単なことであれば分かる。逆に言えば、ここまで追い詰められなければ理解出来ない訳だ。そう考えると、涼宮の指摘は至極真っ当なものであったか身に染みて感じられる。

 今の情けない姿をあの三人には見せる訳にはいかない。すぐにカラオケボックスから出てきた判断に間違いはなかった。


「どうやって戻ろう……」


 どんな顔をしながら、いや、なんて言葉を言いながら、いや、もはやこのまま帰ってしまおう。だが、それではお金を払わないことになってしまう。鏡の前で次々と表情を変える香織は、自分が百面相していることに気付いていない。


 鈍い音と同時にトイレの入口が開く。

 香織はあたかも今トイレから出てきたかのように見せかけるため、咄嗟に手を洗う。自然な動作で、ハンカチを取りだし、前髪を直す仕草をする。

 先程トレイに入ってきた人は既に個室に入っている。しかし、手を洗う音を出してしまった以上、トイレから出ていかなければならない。こんな事になるのであれば、初めから個室に逃げ込んでいれば良かったと反省する。

 トイレの出口へと向かわざるを得ない状況になってしまった。気持ちの整理は何もついておらず、皆がいる部屋へ戻る決心はつかない。行くあてもない香織は重い足取りで店の中をゆっくり歩く。戻るための最短ルートから最も遠い道を選んで、なるべく時間稼ごうと、小賢しい真似をしていると自分でもそう思う。


 一番遠い道を選んだ結果、店の入口へと辿り着く。

 いっその事逃げ出してしまおうか。幸いにも携帯と鞄は手元にある。フロントに店員の姿は無く、部屋にも誰かはいるだろう。であれば、無銭で退室したとは思われないはずだ。


 一歩踏み出す。

 足取りは驚く程に軽い。先程までとは見違えるように一歩、また一歩と足が進む。比例して、心に何かが重くのしかかってくる。軽いのに、これ程までに重いのか。


「香織も外行くの?」

「───ぁ」


 後ろから聞き覚えのある声が聞こえる。

 今度は誰もいないことを確認したが、予想を外れて声をかけられたから反応が遅れてしまった。


「俺、酔っちゃってさ、風に当たろうと思って出てきたんだ。一緒にどう?」

「ゆ、うり君がいいなら、ご一緒させてもらおうかしら」


 逃げ出すことは出来なくなってしまったが、これはこれで良かったのかもしれない。


「今は涼宮と綾乃、二人きりでいるの?」

「そうだよ。恋してた人と恋されてた人が同じ空間にいるって考えると面白いよね。どんな話するのか気になるなぁ」

「そういうとこ。涼宮に負けないくらい性格悪いわよね、貴方」

「でも、気にならないなんて嘘はつけないよ。あのとき出来なかったから、とか言って告白でもしてたら笑っちゃうよ。ははっ」


 静かな町へ侑李の笑い声が響いて溶けていく。飲み屋街があり、人が集まりやすい東口とはいえ、時間も相まってか、人の気配は感じられない。

 侑李の笑い声を最後に二人の会話もピタリと止まる。静かすぎる空間に二人の足音が反響し、気まずい空間が出来上がる。


「───実は汐田先生に相談した事があって。私、諦めて、全部諦めて逃げてもいいですかって」


 香織からポツリとそんな言葉が呟かれる。侑李は足を止めずに、ただ無言で耳を傾ける。


「確か、三年生の春終わりとかだったかな。部活で成績残すとか言ってた癖に、二年間全く勝てなかったし、どんどん下手くそになってった。勉強だって、部活にばっか目がいって点数が下がり続けるなんて、ほんとに情けないことしてたの。だから全部嫌になって、投げ出したくなって、面談の時にポロっと漏れちゃった。聞いた先生よりも、言った私の方が驚いた顔してたと思う。……先生ね、なんて言ったと思う?」


 駅前の大通りから飲み屋街の細道へ抜け、歩き続けながら話をする。飲み屋の中からは叫び声とも悲鳴とも取れる声が漏れ出ている。

 少し騒がしい空間の中、香織は先生から貰った言葉を話す。


『逃げる、か。それは何に対してだ。部活か?勉強か?一体何からだ?私はどんな選択をしようが、和泉の選択を尊重する。どんなに重要な選択であっても、私個人には関係も無ければ、知るところではない。であれば、否定なんてことは出来ない。……よく「逃げてもいい」だとか「投げ出してもいい」とか、都合のいい言葉を言う奴がいるだろう。私も概ねその意見に賛成だ。何故ならば、そう思った時点で後は時間の問題だからな。だが、大抵そういう奴らはその次の事は何も教えてくれない。実に自己中心的なことこの上ない。相手を慮った言葉ではなく、自分に酔った言葉だ。甘い言葉で諭しておいて、後はご自由にどうぞなどと、そんな馬鹿な話があってたまるか。では、逆に一昔前に往々としてあった「逃げるな」「投げ出すな」なんていう根性論はどうか。言語道断だ。昨今の教育方針と真逆であり、生徒の精神衛生上宜しくない。───和泉、お前は「逃げてもいい」と「逃げるな」どっちがいい』


「この時、私は先生が私に何を伝えたかったのか全く理解できなかった。逃げても良いって言ってるのか、逃げるなって言ってるのかね。だってそうでしょ、私の選択をどっちも潰されたんだから」

「でも、その言葉があったから今の香織が完成してるってことでしょ。なら悪くないんじゃない?」


 侑李は珍しく声色に熱を帯びていたように感じる。汐田先生に対して、怒りやそういった感情が込み上げてきた訳ではない。ただ、香織が香織自身のことを自嘲したように見えたから、それだけだ。


 香織は汐田先生の言葉の続きを紡ぐ。


『これから言うことを和泉に対して話すのは烏滸がましいが、私の独り言だと思って欲しい。私はな、そんな選択をさせる前に救ってやりたい。実に綺麗事だと、自分でも笑ってしまうような幻想だ。滑稽だとも思う。だが、二十もいかない子供がそんな選択肢しか残されていないなんて残酷すぎる。教師という立場である以上、特定の生徒に肩入れし過ぎは健全ではないだろう。丁寧に一人一人接しようにも、時間が圧倒的に足りない。平等に接するべきと頭で理解していても、私も人間である以上、ほんの少しだけ差が生まれてしまう。和泉もそのうちの一人だ。もっと早く気付いて、もっと早く手を差し伸べるべきだった。今更すぎるかもしれないが、私に和泉を救わせてやってくれないか』


「その先の事は私と汐田先生だけの思い出だからナイショ」


 汐田先生との思い出を語りきった香織は満足気だ。

 心の内に大切に仕舞っていたものを久しぶりに取り出して、改めて心に染み渡らせる。


「あの先生にも、先生らしいとこあったんだね 。てっきり放任主義かと思ってた」

「それは侑李くんがなんでも出来たから。口出ししたらマイナスに働くタイプって言ってたかな。だからじゃない?」

「それはそうかも。やっぱりあの人ちゃんと見てるんだね。伊達に先生やってないや」


 侑李は学生の頃の記憶を呼び覚ますが、汐田先生との思い出はあまりに薄い。学級委員をやっていたせいか、やれクラスをちゃんとまとめろだろ、やれ提出書類持ってこいだの、そんなありきたりな記憶しか湧いてこない。進路相談も無難に終わったし、香織のように爆弾を抱えていた訳では無いから、特別な思い出が無いことは当たり前なのかもしれない。


 東口の飲み屋街をぐるっと一周回る頃には、先程まで抱えていた物がすっかりと落ちきっていた。侑李が丁度いいタイミングで出てきてきたことは香織にとって救いだったに違いない。涼宮にとっての完璧な和泉香織に、涼宮が消えない傷が残すところであった。


「ねぇ、侑李くんは大学卒業したらどうするの?」

「俺は院に進むよ。就活とかそういう面倒臭いことは一旦先延ばし。香織こそ教員になるっていう夢は叶いそう?」

「今は採用試験に受かるために猛勉強中。模試の結果は悪くないし、一次試験は何とかなりそう。本当は来る気はしなかったけど、来てよかったって思う」

「そ。玲からの言葉も貰えて良かったんじゃない?良くも悪くも、涼宮玲っていう人間に狂わされてるからね、俺らは」

「間違いないわね。でも、狂わされてなかったら教師を目指そうなんて思わなかったから、結果オーライよ」


 香織は今日一番の笑顔を見せる。この笑顔の裏に様々な感情が見え隠れしているが、侑李はわざわざ指摘などしない。学生の頃からずっと香織のことを見てきた。だからこそ分かる。


「あのさ、香織……」

「ん、どうしたの?」

「いや、そろそろ戻ろうかって言おうとしただけ」


 名前を呼んだ後に続く言葉を無理やり修正する。

 時間も経っているし、二人を待たせるのも申し訳ないと、雑な理由をこじつけて本当に格好がつかない。

 今日は本当に酔っているらしい。

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