ただ、その言葉ひとつで
闇夜だった。月どころか星もない暗闇。わたしは手元の角燈の明かりを頼りに静まり返った道を歩く。そしてふと気配を感じて角燈を前へ掲げたとき、ふたつの金の瞳がきらりと光った。とても綺麗。それが、彼との初めての出会いだった。
わたしは驚いて飛び上がり、灯火を消してしまった。転げそうになったところを支えてくれた腕は逞しく、伸ばした指先には柔らかな感触がある。彼はわたしを立たせると、余韻もなく去ってしまった。
次に会ったのは真夏の真昼間。うだるような暑さに、あえいでわたしは天を仰ぐ。そして戻した視線の先に、彼は居た。その稀有な瞳の色から、あのときの人だとすぐに気づく。美しい人だった。
その時期のそれは恋だったのかもしれないし、他のなにかかもしれない。わたしは彼についてなにも知らず、飢えるようにその姿を探した。しかし声をかけるでもなく、それで満足していたのだ。だから冬のある日、彼がわたしの前に現れて問いを投げかけてきたとき、わたしは凍えて身を縮めた。
「なぜ俺を見ている」
ああ、ずっとバレていたのだ。わたしの物言わぬ思慕の情は。面映ゆく、また清々しくもあった。彼はダヴィト。その名を知ったのは、さらに言葉を重ねた後だった。
彼は雇われ人夫として、ときおり姿を現した。交易の街だから、日傭取りはたくさんいる。その中からわたしは彼を探した。黒く光る短い銀髪。しなやかで陽に灼けた強壮な体躯。そして、ひときわ異彩を放つその金色の瞳。
わたしはその腕が力強く、そしてどこか柔らかであることを知っている。
最初は姿を見るだけで満足だった。彼に認識されているとわかってからは、視界に入りたくなった。距離を縮めたくなった。声を聞きたかった。なんであれ、わたしに向けられる言葉が欲しかった。日々貪欲になるわたしは、彼の陰を追い続けた。
そして、彼はいなくなる。忽然と。街から、わたしの前から。
最初から、存在しないつながりだったのだ。わたしはわかっていたはずだ。それなのにまるで捨てられたかのように打ち沈む。そのまま時は過ぎて、彼を忘れられないまま二十年が経過した。毎日、同じことの繰り返しで摩耗し続ける。けれど思い出だけは褪せなかった。いつまでそうしているつもりなのか、自分でもわからなかった。
そんなある日、彼が現れた。街に、そして、わたしの前に。
「ダヴィト」
わたしは声を張り上げた。心の中で呼び続けた名を。彼は以前のままの精悍さで振り向き、そして少しだけ目を見張った。彼は変わっていなかった。なにも。
わたしは白髪が出始めたし、肌の張りや体力も、なにひとつ以前とは違うのに。彼の子どもなのかもしれないなどと、思うことはなかった。彼は、わたしが追いかけたダヴィト本人だ。そう確信がある。
それは彼も気がついたようだ。わたしを見知らぬ者としなかった。色には出さずに、けれどどこか困惑した様子でわたしを見た。彼がわたしをわたし自身として、視線を向けてくれたのは初めてだった。
「なぜ、わかった?」
ささやきはわたしの心に深く沁み入り、堪えることのできない涙が溢れる。また会えたこと、彼がわたしを覚えてくれていたこと、そのどちらもがわたしを切なくさせる。
「わたしが、あなたを忘れることなどありましょうか」
心からの言葉だった。彼は少しだけ戸惑い、
「そうか」
と言った。
二カ月だった。与えられた彼との時間は。それを限りに彼はここを去るのだと言う。そして、二度と来ないとわたしへ告げた。
「俺を知る者がいる街に、来るわけにはいかない」
わたしは無様に縋りつき、泣いた。どうか行かないで。あなたを想い続けたわたしを、ないもののようにしないで。どこまでもわたしは自分のことばかりを考えて、彼の事情がどうであれ、彼を永久に失うのが怖かった。
いくらかはわたしを哀れに思ってくれたのか。彼はわたしを拒まなかった。その優しさにつけ込んで、わたしは何度か抱いてもらった。けれど、彼は決して名を呼んではくれない。きっと、それは縛めになるから。
最後の日。夜の静寂にまぎれて彼は来た。まるで初めて会った日のようで、わたしは泣くことしかできなかった。
これを限りに彼はわたしの前から消えるのだと言う。わたしは、闇の中にある金の瞳を見た。
「せめて、最後に抱きしめてくださいませんか」
手を伸ばすと、彼はその手を取った。わたしはその腕の中で、ただひたすらに泣いた。逞しくて、でも柔らかではなかった。
口づけてくれたのは愛ではなくて、きっと労りの気持ちから。彼は言った。どこか驚いたような声色で。
「おまえは、俺を愛していたのだな」
わたしはもう子どもではなかった。想い続けた二十年を、恋という言葉に収められない。ただただうなずいて言った。それで彼が留まればいいと願って。
「愛しています、ダヴィト。あなたを。ずっと」
彼はそれには答えずに、わたしの手を取った。そして、自らの顔に添える。
「触れてみるがいい」
わたしは言われるまま、夢に見続けたおとがいに、削げた頬に、触れた。
そしてすぐに驚愕する。思わず声をあげてしまった。あるべき場所に、耳がなかったのだ。
過去の様子を思い出した。いや、わたしのどの記憶の彼も、身体に欠損はなかったはずだ。わたしが言葉を探している間に、彼はまた、わたしの手首を取って自分の頭頂へと導く。触れさせられたものに、それが何かを判別できず、わたしは戸惑った。
「普段は幻術を用いている。本来の俺の耳はこれだ」
彼の手はわたしの手首を放さない。なので、わたしは彼の『耳』の形状をしっかりと把握した。とても柔らかだった。
それは、まるで獣のような。外も内も毛で覆われた、とても大きな。わたしがまごつき、その触覚に気を取られている間、彼はわたしの顔をじっと見ていた。
「おまえを抱いたのは、獣だ」
わたしは彼が、嫌われるためにそう言ったのだと、はっきりと理解した。
「いいえ、いいえ、ダヴィト。違います。あなたはわたしの愛しい方」
彼は、わたしから手を放し、体を離した。そして言う。
「最初、人間はそう言う。そういう生き物だ。知っている」
わたしは、それになんと返せただろう。ただ小さく、わたしは違うとつぶやいた。
彼には豊かな尾があった。暗闇に慣れた目ではそれが見える。彼の髪色と同じ、美しい黒い銀の尾。きっと、わたしが最初に触れた柔らかなものはそれだった。彼の金の瞳はどこか傷ついているようで、それがわたしによるものか、過去に負ったものなのか、よくわからない。
ただわかったのは、本当にこれが終わりなのだということ。彼は、わたしにその身を明かしたのだ。わたしは、泣いた。
彼が、わたしとは違う時を歩んでいること、そのゆえに、ひとところに留まれぬ理由も理解した。彼は、人ではない。
わたしは、意地汚い人間だ。それでも手向けをもらおうとした。背を向けた彼に懇願する。
「もしわたしが、あなたと同じく生きられたなら。どうしてくださいましたか。どうかその言葉を。ただ言葉をください」
暗闇の中、金の瞳がわたしをじっと見る。
「きっと、愛していたよ。イェニフェル」
風が吹いて。瞬きの後、その姿はなかった。わたしはどうしようもなくて、なにもかもが悲しくて、でもうれしくて、泣いた。
ただ、その言葉ひとつで、わたしは生きて行けるから。
きっと。
ずっと。