始まりの終わり
男は木々をつたって城壁へ辿り着いた。地面におり、城の掃除係が出入りする小さな木戸へと身を滑らせた。その木戸に立っている門番は男の雇主の手がかかった兵士だ。何も言わず扉を開いて男を通す。
街の雑踏に紛れ、男は依頼内容を反芻した。
紫色の瞳を持つ伯爵令嬢がいる。もし精霊が見えるのなら殺せ。見えていないのなら、見えるようになる前に殺せ。
男の雇主の命令だ。まだ十六歳にもならない少女を殺せとは嫌な命令だと思った。しかし報酬の額は後味の悪さを加味しても見合うだけの額だった。男は機会を伺っている最中、少女が城に招かれた。
部外者が城内に入る場合、身につけている全ての武器を預けなければならない。さらに国が統治されて以来、大きな戦争も反乱も起きていない城の兵士の警備など恐るるに足りない。
男はメイドの格好をし、付け毛をつけ、謁見の間にまんまと入り込んだ。玉座の真裏にある紋章のついた垂れ幕の後ろに身を潜め、王達の話の内容を知ることに成功した。
結果、そのヴァレンティーナという少女は精霊が見えるようになってしまった。見えていなくても殺せと言われているのだから、見えようと見えまいと関係はない。
「失敗とはな、ローマン」
人通りのない路地裏に入り込むと後ろから下級ブリュック兵の格好をした男にローマンは話しかけられた。
「もう少し獲物の情報を寄越すべきだぜ。付き人どころか伯爵令嬢自身まで、あんな手練れだとは思わないだろ」
あの至近距離でナイフを避けるなど、相当な訓練を受けた兵士でも難しい。おまけに横に座っていた可愛らしい少女にまで投げ飛ばされるとは思いもしなかった。
「獲物の情報を事前に調べるのも仕事のうちだ。浅はかな。貴様のおかげで城の警備が強化された。しばらく身動きがしにくくなる」
「そりゃあ悪いな。俺はこの一件、手を引かせてもらう。報酬はいいが俺の手にあまりそうだ。それに姿も見せない雇主は信用できないんでね」
「そうか。それは残念だ……」
屋根の上に人影が見えた。ローマンは身を低くして男の方へと突っ走った。弓矢が頬をかすめる。剣を振りかざした男の股の間を地面を滑ってくぐり抜けると、そのまま走って人混みに紛れた。
「チッ、見つけたら殺せ」
屋根の上にいた男に命じると男は見回り兵の格好で、街の雑踏に紛れた。
「すまない、ヴァレンティーナ。まさか城内でこのような事態になるとは……」
駆けつけたテオドールは部屋の惨状を見るなりヴァレンティーナに詫びた。
「見たところ怪我はなさそうだが、大丈夫か?」
「はい。ロッソが合図してくれたお陰で大事には至りませんでした。お気になさらずとも結構です」
「合図?」
「私たちの中でいくつか決めている合図があるのです。ロッソが警戒の合図を出したので、メイドの攻撃を避けることができました。ああ、でも皿を一枚割ってしまいまして。大事な城の備品を壊してしまいましたことは申し訳なく……」
テオドールは呆れた顔で首を振った。
「皿の一枚ぐらいどうでもいい。あなたが無事ならそれでいい」
ヴァレンティーナは瞬きをすると、そうですか、と少し困ったように頭を下げた。
「それより、お嬢様はなんで狙われてるんですかね? あんたらの話じゃ、精霊との契約にうちのお嬢様が必要だってんでしょ? それが困る輩でもいるんですか?」
「ロッソ、王太子殿下に失礼よ」
頭に血が上って乱暴な口調になるロッソを、マリーがたしなめる。気に食わないのはマリーも同じだ。けれど、それを表に出してヴァレンティーナが非難されることはもっと気に食わない。
テオドールは合図をして部屋にいた従者達を下がらせた。
「実は一部の者達から、精霊との契約などもう必要ないという声が上がっている。建国から今日まで、権力が四大侯爵家にあり続けるのを妬む者達がそのようなことを言っている」
「じゃあ、さっきのはそいつらの手先ってわけか」
「内々に調査を続けてはいるのだが、中々、尻尾を出さなくて困っている」
「わかりました」
突然、ヴァレンティーナはそう言うと立ち上がった。
「ヴァレンティーナ? わかったとは何が」
「このように王権が不安定な状態のまま、テオドール殿下はこの城を離れられないでしょう。精霊たちとの契約は私たちだけで向かいます」
「お嬢様⁉︎」
「ヴァレンティーナ様、私達がそんなことする必要ないですよ! だいたい、今回のことは国王がお父上である伯爵様に依頼するのが筋のはず」
「父に話はついているだろう。先ほど謁見の間で、国王陛下は私が父から何も知らされていないことを酷く嘆いていた。単に父が私達に説明しなかっただけで、国王からの依頼を承知していたはずだ」
ロッソとマリーはアルナダ伯爵の顔を思い浮かべてから、ため息をついた。確かに、面倒くさいから何も説明しなかったという可能性が高い。
「お察しの通り。我々は四大侯爵、アルナダ伯爵には事の次第を早急に知らせた。その上で今回、私の婚約者探しという名目で王都に貴族を多数集めた。国の大事であるという事実は伏せ、普段は領内の学校に通う侯爵やアルナダ家の人間も呼び寄せたかった」
テオドールは苦笑いをする。
「しかし、ヴァレンティーナが事情も聞かされていないとは。まあでも、入学してからの君の様子を見ていたら察しはついたけどね」
「父のご無礼、お許しください」
「謝らないでくれ。アルナダ家については断られる覚悟はあったんだ。それが、きちんと君を送ってくれただろう。感謝している」
高圧的でない物言いに、ヴァレンティーナは素直にテオドールに対して好意を抱いた。頬を緩めて自然と笑みを浮かべる。
ロッソとマリーは二人の間に流れる空気にちら、と目配せをしてそっと部屋を退出しようとした。
「失礼いたします! 殿下、大変です!」
飛び込んできた知らせは、ノルニルの異変の始まりを示す合図だった。