ターラント1
「暑い」
羽織っていた外套を脱ぎ、ヴァレンティーナはシャツのボタンを一つ開ける。マリーやロッソがいたならば断固として阻止されるだろうが、今は二人ともいない。ヴィノルバの領内に入り、ヴィノルバ侯爵家のあるターラントの街へ近づくにつれ、気温が上がっていく。ノルニル国の南西に位置するヴィノルバは温暖な地域であり、ターラントがある位置はヴィノルバに入った後、さらに南西の方へ下がっていかなければならない。
ブリュックを素通りする羽目になろうかと思ったが、一度補給や馬の休息のために城へ立ち寄ることになった。すでにテオドールは出発した後で、城内は暗く静まり返っている様子だった。華やかなテオドールがいるだけでブリュック城は明るく、使用人や騎士たちも活気づいていたのだ。国王も伏せっているとのことだったので、ヴァレンティーナは誰に会うこともなくあてがわれた客室で大人しく出発の時を待った。ブリュック城を出たのは二日後である。
それから、馬車を走らせること三日。ようやくターラントの街にたどり着いた。荘厳な建物が数多く並ぶ街並みに、ヴァレンティーナは圧倒された。大きな石が切り出されて組まれた建物や、それに負けない頑丈そうなレンガ造りの家が道の両側に立ち並ぶ。ザクセンやオスロンの街並みとは雰囲気が違った。
間も無く馬車は一度止まり、門を潜ってまた動き出した。石畳の道を少し走ると屋敷の玄関にたどり着く。大きな庭付きの屋敷である。城と言っても差し支えないほどの大きさで、城内に厩舎があるのが見えた。
「ヴァレンティーナ!」
屋敷の一室に通されると、そこにはテオドールがいた。思ったよりも元気そうである。
「テオドール殿下、ご無事で何よりです」
「君も。オスロンでも精霊王との契約がうまくいったと聞いた。もうアルナダ伯爵家には頭が上がらないよ」
「殿下、そのような……」
よく見ると目の下にクマができ、疲れているように見える。それでもこの王太子の端麗な様は損なわれていない。碧眼を柔和に細め、微笑む様子に控えている侍女達がうっとりしている。
「ははは、殿下。私にもこちらの美しいお方をご紹介していただけませんか?」
「ああ、失礼した。ヴィノルバ侯爵、こちらはヴァレンティーナ・アルナダ伯爵令嬢だ」
「お初にお目にかかります。ヴィノルバ侯爵」
ヴァレンティーナが挨拶をした相手は、現ヴィノルバ侯爵、カミロ・ヴィノルバである。筋肉質でうわぜがあり、短く刈り込んだ髪に琥珀色の瞳が印象的な男性である。
「これは美しい令嬢だ。その珍しい赤紫色の瞳、まるで我が領地が誇る極上の赤ワインのようだ。知らぬ間に酔わされてしまいそうだよ」
「はあ……」
「ヴィノルバでは女性を口説くのが礼儀なんだよ」
横にいたテオドールがこっそりと耳打ちする。顔がとてもにやけているのが気になる。なるほど、この侯爵の側にいたら嫌でも明るくなるわけだ。かなりの切迫した状況であると思っていたのに、テオドールの様子が暗くないのが不思議であったのだ。
「お疲れであろう? アルナダ令嬢。湯にでも入って、ゆっくり休むといい。疲れなどあっという間に吹っ飛ぶぞ」
「そうだな。話はそれからにしよう」
控えていた侍女たちに囲まれて、ヴァレンティーナは湯殿へと強制連行されていった。
「殿下は随分と彼女を信頼しておいでのようで」
「ええ。なにせ土の精霊王、水の精霊王との契約を果たしてくれましたからね」
「しかし、聞けば精霊王が選んだのは彼女が連れたアルナダの従者だったとか。確か、風の精霊王が加護を授けるメリダにも、アルナダ伯爵家の者が嫁いでいませんでしたか?」
「何か問題でも?」
ひやりとした空気がテオドールとカミロの間に漂う。
カミロは基本的には陽気で明るい人物であり、己の懐に入れた者についてはとことん面倒を見る。このヴィノルバの領民は国王よりもカミロに忠義を尽くしていた。カミロの懐にいる者たちを守るため、外へ向ける目はとても厳しいとも言えた。
「王家は問題ないと? 四大公爵家のうち三家にまでアルナダの血が入るんだぜ?」
「彼らには国をどうこうしようという気はない」
「それはあのお嬢さんにはないだろうが、あの狸にはその気がないとは言い切れねえだろ」
父である国王もアルナダ伯爵を狸と呼んでいた。公然のあだ名なのか、とテオドールは伯爵の顔を思い浮かべる。
「事態は一刻を争うのです。ご存知の通り、ノルニルの地は精霊からの加護によって民の生活が成り立っているのです。話し合いも駆け引きも通じない精霊から加護を新たに受けるには、彼女の力が必要でした」
侯爵家のカミロがため口を聞いて、王太子であるテオドールが敬語を使うという不敬な状況だが、カミロにはその態度が許されるところがある。国王にすらもタメ口を聞くのだ。
アルナダとヴィノルバは自治区といってもいいほど、領民と領主の結びつきが強い。そして圧倒的な武力を持っているのがアルナダとヴィノルバである。王家は彼らを抑えられるほどの武力を保有していないことから、あまり強くは出られないでいた。
「ま、アルナダ伯爵令嬢のお手並拝見と行きますよ、殿下」




