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紫眼のヴァレンティーナ  作者: 吉田 春
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ヴェルゲニール3

 ブリュック城からヴェルゲニールまで旅をしてきた汚れを落とし、雨に打たれて冷えた体を温めると眠気に襲われた。ヴァレンティーナは湯殿から部屋に戻ると、ベッドに大の字になって倒れ込んだ。

「さすがに疲れた」

 客間は少し大きめのベッドに、丸い机と椅子が置かれ、さらには鏡台と板張りの床の上に厚みのある絨毯もひかれていた。女主人であるルイーゼの配慮が感じられる部屋だ。

 雨はまだ止んでいない。窓に雨粒が当たり水滴となって落ちる前に、また雨粒が上から降り注ぐ。不気味な雷鳴はまだ空に居座っており、時折雲間から稲妻を走らせ不安を煽る。急に寒気がしてヴァレンティーナは身震いをした。まだ新しい水の精霊王に会えていないのに風邪を引くわけにはいかない、とヴァレンティーナはすぐに起き上がり、布団の中へと身を滑らせる。

 しっかりと太陽の下に干してあったのだろう。温かくなった布団と清潔なシーツに包まれてヴァレンティーナは間も無く目蓋を閉じ寝息を立て始めた。




 気づけば暗闇の中に一人立っていた。

「これは、夢?」

「察しがいいね」

 上からふわりと降り立ったのはエルドだった。

「やっぱりお前、精霊だな」

「どうして?」

「夢の中にまでこうやって現れることができるなんて、人間技じゃない。ノルニルには魔法使いなんていない」

「やだなあ。俺が夢に入り込んでるんじゃなくて、ティナが勝手に俺の出てくる夢を見てるとは思わない?」

「思わない」

 きっぱりと断言するヴァレンティーナにエルドはクスクスと笑みを漏らす。そういう嫌味な様子も絵になるのがまた悔しい。

「まあ、それは置いといて。この雨、しばらくやまないよ。水の精霊達が力比べしてるんだ」

「力比べ?」

「そう。誰が水の精霊王にふさわしいか勝負してるんだ。土の精霊達は怖がりだから隠れちゃってたけどね。声だけ聞こえたでしょ。早く何とかしてほしいって俺にまで泣きついてきて、うるさかった。彼らとは違って水の精霊達は好戦的なんだ」

 そういえば地下で気を失い、地上で目覚める直前に声が聞こえた気がしたがあれは土の精霊達だったのかと合点がいった。エルドがあんな地下にいたのは土の精霊達に泣きつかれていたせいなのかも、とヴァレンティーナは思い至る。

「へえ。土の精霊に泣きつかれた? やっぱりエルドは精霊ということだ」

「ティナだって人間なのに精霊の姿と声が聞こえるでしょ?」

「それは……」

 確かに精霊の加護を受けている王族のテオドールは見えるだけで会話はできない。他の四大侯爵家も全く精霊の存在を認識できない。アルナダ伯爵の血縁であるマリーやロッソにも見えることはなく、ヴァレンティーナだけが精霊との意思疎通が可能なのである。

「そのせいでこんな厄介なことに巻き込まれて。別にいいんじゃない? アルナダに帰っちゃっても」

「そういうわけにはいかない。直接的に関係はないが、ノルニル国内の情勢が不安定になればいらん争いが起きる。真っ先に矢面に立たされるのは、傭兵として経験のある私達だ」

 他国に傭兵として雇われ、その実力は大陸中で知らぬものはいないほどになった。だが、傭兵団に犠牲者がいなかったわけではない。大勢の人間も殺した。戦争が終わってまだ一年しか経っていないが、傭兵団の中には精神的に病んでしまった者も少なくない。

「もう、争い事はごめんだ」

 ヴァレンティーナとて、たった十四歳で戦地へ赴いた。その年頃の貴族の娘達は、社交界デビューのために煌びやかなドレスを纏い、花のように髪を結い、無邪気にダンスを踊っていただろう。しかし彼女はドレスではなく鎧を着て、女であることを隠すように髪を甲の中に入れ、戦場で剣を振るっていた。

 静かにエルドはティナを抱きしめた。

「な、何を」

「いやあ、若いのに苦労してるね」

 夢の中だというのにエルドの体温を直に感じられた。温かくてほっとする。押し返すことも抵抗することもできず、ヴァレンティーナは腕を中途半端に持ち上げたままだ。

「ティナぐらいの年齢の悩みなんて、色恋のことばっかりだっていうのにね」

 耳元で低く囁かれた後、首筋に柔らかい感触が落ちてくる。びっくりして体を離そうとすると、思ったより近くにあったエルドの星空のような青眼に留め置かれる。

「朝までゆっくり眠るといいよ」

 目蓋の上に優しくエルドの手が置かれると、ヴァレンティーナは夢の中でまた眠りに落ちていった。




 目の中まで入り込んでくる光を感じて、ヴァレンティーナは勢いよく寝ていたベッドから起き上がった。

「……夢?」

 それにしては、はっきりと覚えていた。このいまだに止まない雨は水の精霊達の勝負のせいだということも、エルドに抱きしめられた温かさも、唇の触れた場所が痺れるように熱かったこともヴァレンティーナは覚えていた。

「お嬢様? 朝食は召し上がられますか?」

 扉を叩く音がして、外から気遣わしげなロッソの声がした。昨日は夕食も食べずに寝てしまったのだ。心配しているのだろう。

「ああ、いただくよ。着替えてから、すぐ行く」

「承知しました。後ほど迎えに参ります」

「ロッソ……あいつは?」

「あいつ、とはエルドのことでしょうか」

「そうだ。一緒に寝たのか?」

「まさか。湯殿も入らずに何処かへふらりと行ってしまいましたよ」

「そうか」

 少し間を置いて、ロッソが部屋の前から立ち去った気配がした。ヴァレンティーナは鏡台の前に座り、自分の顔を見る。大丈夫、いつも通りだと言い聞かせ、髪を一括りにして飾りのない紐で縛りつけた。

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