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紫眼のヴァレンティーナ  作者: 吉田 春
24/46

ヴェルゲニール 2

「知らないはずがない」

 国王がオスロン侯爵の婿が必ず娘が十三を超えると亡くなる事実を気づかないはずがない、とロッソは言う。なんとも言えない奇妙な空気になった部屋で、ロッソが最初に口火を切った。ヴァレンティーナは水の精霊王が人間の男を喰らう化け物だったというショックから立ち直れないでいた。気分が悪くて仕方ない。なまじ精霊が見えて言葉を交わすことができたので、土の精霊王との落差も合わせて衝撃が倍以上だ。

「知っていたとして、どうにもならないでしょう。水の精霊王の加護を受けられなくば、国が危うくなるのですから。一人の命とノルニルの民のどちらを優先すべきかは明白です」

 ルイーゼは落ち着いた声音だった。父も夫も生贄にされたはずだが、彼女の心はそれを悲しむことだと認識していないようだ。

「二人とも、お疲れでしょう。今日は休まれて明日また考えましょう」

 ヴァレンティーナとロッソは部屋に案内された。隣同士の部屋だ。

「従者の俺が部屋なんかいいんでしょうか」

「ご好意に甘えよう。水の精霊王が消えてしまった今、次の精霊王の手がかりもない。いつ終わるかわからないしな」

 どうにか調子が戻ってきたヴァレンティーナは、街の探索をしたいとロッソに頼み出かけることにした。



 港町であるヴェルゲニールは明るく活気のある街で、通りを歩く人々の陽気な笑い声が響いてくる。それだけにオスロン侯爵家の暗い影の部分がより濃く重く感じられる。

「海はもう少しか」

「ここをまっすぐ行くと魚市場があって、それを抜けると海だそうですよ」

 魚市場は朝早くからやっており、昼過ぎにはもう閉まってしまうそうだ。なので二人が通りがかった時にはもう人の姿もなく、開いたテントが立ち並ぶだけの通路となっていた。

「残念だな」

「明日の朝でも来てみますか」

 空の箱を眺めながら歩いていると急に目の前に人が現れて、ヴァレンティーナはその人の胸に思いっきりぶつかった。

「も、申し訳ない。よそ見をしていて」

「構いませんよ、お嬢さん」

 その人を食ったような言葉の響きに聞き覚えがあり、相手の顔を見上げると息を呑むほど美しい顔の男がいた。

「またか」

「またか、とは随分だなあ。何度ティナの危機を救ってあげたか」

 飄々としてつかみどころのないエルドは相変わらず、ヴァレンティーナの側を離れるつもりがないらしい。

「お嬢様、こいつは?」

 驚いて振り返ると、ロッソがエルドを不審人物としてジロジロ見ていた。

「え、見えるのか?」

「この色男のことですか? 見えますけど」

 てっきりエルドは精霊の類だと思っていたので、ヴァレンティーナは予想外のことに動転した。それでも、もしかすると精霊帝のように人間に擬態することができるのかもしれない。そうでなければ、今までのおかしな現象を説明できない。しかし、今はそんなことはどうでもいい。精霊であろうがなかろうが、エルドは新しい水の精霊王と出会うためにどうすればいいか知っているに違いない。

「お前が来たということは、私を助けに来てくれたんだろう」

「それは随分と都合のいい解釈で」

「違うのか?」

「前にも言っただろう? 必要があったからそうしただけとは思わないのかい?」

 得体の知れない男なのは間違いない。だが、精霊との契約に際してはこの男が役に立つことも間違いない。ヴァレンティーナは男の腕を無意識にぐっと掴んだ。逃さないように。

 傾き始めた陽光が瞳の中に入り込み、ヴァレンティーナの瞳は赤紫からうっすらと茶色く変化した。色白の肌と漆黒の髪に、爛々と輝く赤紫の瞳のヴァレンティーナの容姿は近寄り難さがある。この夕焼けの時間はわずかにそれが柔らかくなるのだ。

「そうかもしれないが、私はエルドに助けてもらえると嬉しい」

「お嬢様?」

 ロッソはこの男と初対面であるが、ヴァレンティーナが素直に甘える稀な姿を見て憮然とした。仕えるべき主人であると同時に、どこか妹のように思っていたヴァレンティーナに裏切られたような気持ちになったのだ。

「いいよ。俺、あの蛇女嫌いでね。やっと死んでくれたから気分がいいんだ」

「あんた、精霊が見えるのか? お嬢様とどういう……」

 ロッソが畳み掛けようとしたとき、突然雷鳴が轟き激しい雨が降り出してきた。チッ、とエルドは舌打ちをした。

「嫌な雨だな」

「お嬢様! 屋敷へ戻りましょう!」

「エルドも行こう!」

 空を見上げると先ほどまで太陽が出ていた青空は消え、灰色の雲がみるみるうちに広がっていた。雨粒は大きく、体に打ちつけると痛みを感じるほどだった。

「じめじめと、鬱陶しい」

 ヴァレンティーナに腕を掴まれたまま、息も切らさず走るエルドは恐ろしく不機嫌だった。




「まあ、大変。すぐに湯殿に行かれてください。着替えも用意いたします」

 出迎えてくれた双子の片割れ、リリアンは使用人を呼んでタオルを持ってきてくれた。

「ところで、そちらの方は?」

「あ、いや、私の知己で。偶然街を歩いていたら出会ったところで雨に打たれてしまって」

「そうでしたの。どうぞ、あなたも湯殿をお使いください」

 ロッソとエルドが一緒に湯殿に? と、ヴァレンティーナは心配になった。ロッソに詳しいことを説明できていないまま、二人きりにしていいものかと迷っているとエルドは明らかなよそ行きの顔で微笑んだ。

「ご親切に感謝いたします。行こうか、ロッソ」

「はあ?」

「ご案内いたしますぅ」

 すっかりとエルドの虜にされたリリアンが案内をかって出る。

「いけませんよ、リリアン。未婚の女が殿方の湯殿に付き添うなど。誰か、代わりに案内して」

 騒ぎに気付いてやってきたルイーゼがリリアンを制した。不服な顔をしたリリアンを睨んでから、ルイーゼはエルドの方を見た。すると、明らかにルイーゼは不愉快な顔をしたように見えた。しかしすぐに屋敷の主人としての振る舞いに戻り、ヴァレンティーナの方へ向き直った。

「さあ、あなたも早く。風邪をひいてしまうわ」

 窓に打ちつける雨は弱まる気配もなく、不気味な稲光が雲の隙間から姿を見せていた。

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