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紫眼のヴァレンティーナ  作者: 吉田 春
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シュトロウム2

「お嬢様」

「ああ」

「こちらをどうぞ」

 街の小料理屋を出ながら、ヴァレンティーナはマリーから剣を受け取り腰にさした。伯爵家の令嬢として剣を持つのは控えるようにしていた。しかし、今は身を守るために必要だと判断された。

「何人いる?」

「二つのテーブルに分かれていましたね。合わせて十人ですか」

 ロッソと小声で会話を交わしながら日の落ちた石畳の道を、なるべく人気の多い道を選んで歩く。

「いやだな。疲れたから寝たい」

「でも宿で寝込みを襲われるよりも、片付けといたほうがいいんじゃないですか」

「次から次へと出てきたらどうする」

「その時は諦めましょう」

 は、とため息をヴァレンティーナがついた時、人通りが消えた。二の腕が泡立つ感触がする。後ろを振り返るとマリーとロッソの姿がない。周囲は先ほどと同じ街並みなのに全く別の世界にいるかのようで、動悸が大きくなるのをヴァレンティーナは感じた。

 これならまだ先ほど料理屋からついて来た連中の相手をしていた方がマシだ。ヴァレンティーナは戦に何度か出向き、剣をふるった経験がある。命のやりとりの経験があっても、人の力が及ばない現象は得意ではない。

 宿を目指しながらヴァレンティーナは周囲を警戒して視線を走らせる。大通りにはまだ出歩く人の姿があったはずだ。家には灯りがともり、窓から子供の泣き声も聞こえていたはずなのに今は水を打ったように静まり返っている。

「こういうのは苦手だ」

「へえ。静かなところが好きそうな顔してるのに」

 甘く絡めとるような声が聞こえたのは、後ろからだった。ヴァレンティーナが振り向くと先ほど通り過ぎた花壇の縁に腰掛けている男がいた。花壇には黄色と白のプリムラの花が寄せ集まって可愛らしく咲いていた。それに似つかわしくない妖艶な姿の男だ。

「あ、お前」

「お前とは随分だね、お嬢さん」

 青玉の瞳を持つ男は小首を傾げた。

「命の恩人に対してそういう態度を取るのがお嬢さんの礼儀なの?」

 ヴァレンティーナの前に現れたのは、地割れに落ちた際に地下で出会った男であった。気を失う際に抱き留められたのは覚えている。その後、目を覚ました時には姿は無くなっていたのだ。

「命の恩人……」

「違う?」

 男は花壇から腰を上げてヴァレンティーナの前に立った。手足は長く均整の取れた体をしている。細く見えるがヴァレンティーナを支えた体は力強く、異性であることを感じ取れた。その感触を思い出してヴァレンティーナは頬を熱くする。

「あ、あの時はありがとうございました。私の連れにもあの後すぐ会えましたし、感謝しております」

「どういたしまして。無事にお仲間に会えてよかったね」

「私はヴァレンティーナと申します。お名前を伺ってもよろしいですか?」

「名前ね。エルド、と呼ばれてる」

「エルドさまですか」

「エルドでいい。ティナ」

 ヴァレンティーナは息を飲む。ティナはヴァレンティーナの愛称には違いないが、それを呼ぶのは家族以外に誰もいないし、本人に許可も得ず使うのは貴族の間ではあり得ないことだった。

 しかし、この青年にそれを抗議したところで軽く一蹴されそうな気配がある。不思議とヴァレンティーナ自身も彼にそう呼ばれて不快な気持ちにはならなかったので、呼び方に関しては黙認した。

「宿まで送るよ」

 自然に差し出されたその手を取ってしまいそうになり、ヴァレンティーナは慌てて自身の手を引っ込めた。助けてくれたとはいえ、エルドのことをヴァレンティーナは何一つ知らないのだ。見知らぬ男の手を取ることはできない。

「結構です」

「そう? じゃあついておいで」

 断られたことを気にする風でもなくエルドはヴァレンティーナに先立って歩き出した。それは確かに宿の方向だったのでヴァレンティーナは大人しく後についた。素直に後ろを歩くヴァレンティーナの態度を見てエルドは含み笑いを漏らした。

「なんですか」

「ティナは面白いね」

「何がですか」

 時折落ちる街灯の光に二人の影は長く伸びたり縮んだり、そして暗闇に溶けて見えなくなる。今日は雲の多い日で、月は出ているはずだが淡い光は地上には届かない。日中は心地よい風も夜になると冷たく吹き抜け、ヴァレンティーナは無意識に外套を胸の前で握りしめた。相変わらず人の気配はない。

「警戒心はあるのに、素性のしれない男のあとを黙ってついてくる」

「それは……前に助けてもらったから」

 エルドは突然振り向いて、ヴァレンティーナを冷たい煉瓦の壁に追い込んで見下ろした。背中の硬い煉瓦の感触と、衣服の上からも伝わる冷たさが酷く恐ろしく感じた。

「前に助けたのには理由があったからだとは思わない?」

 夜気よりも冷ややかにエルドはヴァレンティーナに問いかけた。不思議と甘い掛け合いよりもこういう危機感のある問答の方が、ヴァレンティーナの頭の中はより冴えて冷静になる。

「そうだな。だとしたら、理由もなく私を殺さないだろう?」

「理由ができたとしたらどうする?」

「生憎と、黙って殺されてやるほど慎ましい令嬢ではない」

 凜然と紅紫色の瞳を見開いて言い放つ。エルドは最初のうちは表情を変えなかったが、やがて吹き出すと腹を抱えて笑い出した。

「はははっ! つ、慎ましい令嬢じゃないよね! 確かに」

 自分で言うぶんにはいいのだが人に言われて笑われると、ものすごく不快だ。ヴァレンティーナは口をへの字に曲げて腕組みをした。

「用がないなら私は失礼する。宿はすぐそこだ」

「あー? ああ、ちょっと待ってよ。用はあるんだ」

 目尻の涙を拭うとエルドはヴァレンティーナの顔の横に手をついて、口づけを落とした。

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