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アキラ、剣道がんばります!

作者: 三津熊人

  火の位



一本。一本が欲しい、喉から手が出るほど。

狂おしいまでの渇望が、ヒリつく喉の奥からせり上がる。息苦しい。固唾を呑んで辛うじて冷静さを保つ。


 試合開始からまだ三十秒。紫紺の道着と防具に身を包む阿賀野修羅あがの あきらは、狭苦しい面の中で球の汗を浮かべる。息を潜めて中段の構えを執り、限界まで張り詰めた戦いの空気に身を浸す。


息詰まる緊迫した静寂の中。カチカチと竹刀のこすれ合う音だけが響き、鼓膜の奥で血流が轟々(ごうごう)と音を立て駆け巡る。

 もう、一本も取られてはいけない。そう思うと緊張に拍車が掛かる。身体が委縮いしゅくし出足がにぶる。手に馴染んだはずの竹刀が重く感じられた。


「やああああああああああああああああっ!!」


 弱気じゃダメだ。気勢を張り上げ己を鼓舞するアキラ。

 対する相手は黒の道着と防具姿。「鈴木」という垂れを引っ提げ、悠然ゆうぜんと構えるだけで仕掛けて来ない。先取している事もあり、慎重策を取って体力を温存する企図が見えた。その余裕が焦燥を掻き立て、打突だとつはやる衝動が胸を焦がすのを必死に抑える。


 現在、対峙する相手との間合いは触刃しょくじん。打突までの距離は最低でも二歩必要。

 アキラには、その間隔が果てしなく遠くに感じられた。詰めようと足を送っても相手が後退。結果、間合いが保たれる。更なる追撃は横に捌かれ、正対すると距離は変わらない。


 仕切り直しに下がれば、即座に詰められ先程の二の舞。ならば固める決意は不退転。

 逃がさない。剣先で攻めつつ、執拗に追い縋り出足を鋭く踏み出――


「面―――――ッ!」


 出端面でばなめん。足捌きが僅かに粗くなった所を狙い澄まされた。寸での所で竹刀を傾いで防御。

 鋭い痛打が鍔元つばもとから柄頭に迸る。その衝撃に総身が震え上がった。

 そこから追い打ちの体当たり。腹部の胴板がぜ、居着いついた両足が僅かに浮く。無防備になったアキラの脳裏に先刻の悪夢が甦る。


「面―――――ッ!」


 引き面。強襲で頭上に迫る物打ち、咄嗟に身体とっさを横に折ってやり過ごした。意地でも打突は喰らわない。けれど攻撃を不発にしても安堵はなく、生きた心地がしない。

 相手が後退、大きく空いた間合い。浮き立つ胃の腑を鎮めるため、アキラは大きく息を吸い込み背筋を伸ばした。


 体感的に、まだ試合は中盤。逆転の目はまだ残されている筈だ。

 だが、そのためには、

 

 一瞬たりとも動きをあらくしてはダメ。

 呼吸を悟らせてもダメ。

 僅かな隙をさらしてもダメ。

 打突の直撃は勿論ダメ。

 

 勝利の必須条項を反芻すると、それだけで消沈しそうになる。


 アキラは再び吠え上げ、気持ちをたかぶらせた。

 竹刀の尖端、先革さきがわが微かに触れ合う距離で対峙。前後に開いた足で行きつ、戻りつを繰り返して打突の機を窺う。


 そろそろ打突だとつを打たないと。消極的な試合運びがとがめられ、審判から反則を取られる。

 暴れる心臓、はやる気持ちをぐっとこらえ、攻撃の糸口を探った。

 上太刀うわたち。剣先を少し高くし、上から圧するようにアキラの竹刀を抑えにかかる。剣気の重圧が手元を襲った。固まりそうになる手首は刀身を軽く上下に振ってほぐす。


 太刀を制され、体捌きまで封じられては絶体絶命。剣先を左右に振ってとらえさせない。強引に攻めようものなら、しのぎを使って逆に太刀を封じ返す算段で待ち構える。

 上太刀うわたちから更に変化。竹刀を立てて先端底面、物打ものうちが視界に飛び込んで来る。初太刀しょだち出端面でばなめんが脳裏をかすめ、身体が勝手に防御姿勢を取った。


 竹刀をかしいで掲げると相手に小手を差し出す形になる。マズい。仕切り直すため、右開き足で横に捌く。左開き足で相手も追従。間合いが詰まって一刀一足。鈴木が上太刀うわたちりながら間詰め、はかまを翻し即座に打突へ跳ぶとアキラも堪らず防御。


(しまっ―――)


 打ちが軽く浅い。フェイント打ちに釣り出され、その事実が気後れを生じさせた。切っ先が虚空を舞い軌道を変える。狙いは恐らく小手。小兵相手に胴打ちは考えにくい。

 この一瞬。アキラの脳裏に過ぎったのは、この場に居ないあこがれの剣士の背中。


 自分でも気付かぬうちに身体が動く。柄から右手を離して腰元に引き付け、左に体を開きながら左手一本で竹刀を操作。肘を入れ込み剣先を走らせ、相手の面に向かって振り下ろす。


「面―――――ッ!」


 面あり。アキラが放った小手抜き片手面に対し、主審が高らかに宣言。掲げられた白旗が三本翻る。文句なしの一本。

 打突が決まった瞬間、寒々しい程の鳥肌が全身にほとばしった。吐く息が震える。


 打ったアキラ自身が目の前の光景を信じられずにいた。

 不意に出された土壇場どたんばでの大技に会場が湧き称賛の拍手が巻き起こった。が、しかし。


(こんなの、ただのまぐれだ………)


 自分の実力じゃない。開始線に引き揚げるアキラに一本を取った興奮や高揚はなく、気持ちは晴れない。練習でも打った事のない見様見真似の技で取った一本など、数の内に入らなかった。

 そんなアキラの心情を考慮しない喝采かっさいに内心で悪態を吐きながらも、最後の勝負に臨む。


「勝負ッ!」


 怒号のような気勢が二つ、試合場の空気を震わせた。闘気で張り詰めた緊迫の中、両者共に息を潜めて隙なくにじり寄り、相手の中心を制さんと右拳を支点に左拳で剣先をけしかける。

 気迫の伝わる太刀遣いから相手に気後きおくれは無い。それでも小手に対しある程度の警戒はしているはずだ。小兵の自分に胴は打つまい。アキラはそう予測を立てて試合を組み立て直す。


 上太刀から鋭く切り込む剣先。触刃の間合いから半歩進んで間合いは交刃こうじん

 切っ先を下げアキラの竹刀に刀身を潜り込ませて攻め寄せる。下段攻め。無意識の裡に剣先を下げて抑えに掛かると切っ先を急浮上させ中心を割って打突が伸びて来た。


「面―――――ッ!」


 跳び込み面。ヤマを張っていたことが功を奏し、竹刀での防御は間に合わずとも膝を曲げ首を捻って難を逃れた。下から鍔元で打突を支えて空隙を作り体当たりを防ぐ。鍔迫り合いに持ち込み引き技を打たせない。


 近年のルール変更により鍔迫り合いからの攻防は禁止されている。引き技を打つ余地がない以上は互いに下がって鍔迫り合いを解消するしかない。縁を切り先革が触れ合わない不敗の間合いまで後退してから試合開始となる。


 さすがは最上級生なだけあり、スピードとパワーでは分が悪い。しかし、抜き胴なら腰の回転から遠心力を上乗せできるので相手の面に対抗できる。散々面打ちを喰らった経験は、そう確信できるだけの根拠となった。


 試合は終盤。アキラはいよいよ自ら仕掛けた。

 互いに細かく足を捌きながらも間合い触刃しょくじん。相手の刃下じんかに剣先をもぐらせ自身の面をよく見せ面を誘う。小兵のアキラがそれをやれば胴を狙っている意図が相手に伝わる。これは布石。


 鈴木は物打ちを見せ付けて威嚇いかく。込み上げる恐怖と本能の警鐘を気合でねじ伏せる。

 出足を鋭く差し出すと面打ちの強襲。左に体を開いて躱し、刀身を垂直に立てながらの小手打ち。しかし竹刀は空を斬り不発。それで良い。


 再び間合いを触刃に戻して互いが攻撃を仕掛ける機会を窺う。上太刀からの圧殺するような重厚な攻めが展開される。手元に掛かる重圧に抗するアキラは中心を割ろうとする相手の竹刀に傾いだ剣先の鎬を宛がい、防御姿勢を取りたい衝動を何とか抑え付ける。


 背中を伝う冷や汗が、ピンと張られた緊張の糸がきしむのを告げる。竹刀を擦り上げ中心を取り返す。 

 すると竹刀を裏に回し切っ先でアキラの右小手をにらむ。

 面への恐怖に加え、小手を襲う危機に耐え切れず構えを開いて応じた。構えの崩れに相手が打突に跳ぶ。アキラは竹刀を左肩に担ぎ―――


「突きッ!」

(マズい―――っ)


 出端諸手突でばなもろてつき。肺腑をえぐるような鋭い突きが空を斬って迫り、心臓が凍り身がすくむ。しかし、抜き胴の体捌きのお陰で打突は面の横を通過した。

だが安堵の瞬間は無い。突きの恐怖に縫い留められ隙を晒す。今の間合いは必殺の打ち間。すぐさま体を切り返――


「面―――――ッ!」

「……………っ」


 相手は不発と見るやすぐさま足をいで面に渡った。物打ちがアキラの面をしたたかに打ち据える。その瞬間、鮮血が散るように赤旗が三本はためいた。

打たれた。自分でも敗北がはっきりと分かるくらい確かな打突だった。


(ああ―――)                                               


 また、勝てなかった。負けを悟ると蓄積されていた疲労が一気に噴き出し、激しい虚脱感と倦怠けんたい感に襲われる。心が徒労感に支配され手足が鉛のように重い。


「勝負あり」


 試合場中央で主審が赤旗を掲げて宣言すると互いにしゃがみ込み、蹲踞そんきょして納刀。

 立ち上がって境界線まで後退し一礼してから落胆に深々と息を吐く。

 中学生の試合とは違う。分かっていた筈なのに、分かっていなかった。


 けれど、突きへの意識が無かったからこそ恐怖で雁字搦めにならずあそこまで立ち回れた。そう思うと、複雑な想いが胸にわだかまる。


「ご苦労さん」


 試合場に踵を返し沈んだ気持ちで顔を上げると、アキラと同色の装束を着た長身の男が見下ろして立っていた。

 清武御雷きよたけ みかづち。二年の先輩で面金の奥から鋭い眼鼻立ちの強面こわもてが覗く。


「………どうも」


 仏頂面で言葉少なにアキラの奮闘を称えると、境界線の前で一礼しながら試合場に足を踏み入れる。  

 序盤の山場、中堅戦が始まるのを横目に見ながら敷かれた畳の上に正座。竹刀と小手を置いて面                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   紐を解く。


 手拭いを外し小手の上に面を置くと、切り上げた短髪に女性と見紛う童顔が露わになった。

 火照った頬に外気が触れる。この時ばかりは会場の熱気よりも爽快感が優る。だが、そんな感慨も即座に敗戦の記憶が塗り潰して暗澹とした気持ちになった。


「よくやった。後は任せろ」


 隣で面紐を縛りながらそう声を掛けて来るのは因幡駿太いなば はやた。剣道部で二人しかいない三年生で男子部長を務めている。アキラと並ぶ小柄ながらも真っ直ぐ整った背筋は部長の貫禄を備え、その姿は頼もしくもあり、同時に眩しく感じた。


 この人のために勝ってあげられなかった。敗北の事実が胸に重く圧し掛かり、うずくまるアキラは己の無力さを噛み締めて膝元の拳を強く握り締める事しかできない。

 結局、駿太の健闘も空しくアキラたち燦耀さんよう高校はインターハイ予選を三回戦で敗退した。


 四敗一分け。大将の駿太はやた以外は全敗を喫した相手は遼原りょうげん高校。相打ちの勝負を身上とし長年埼玉県の玉座に君臨する名門。ただ、今年もそうであるかは疑問が残るとアキラは思った。

 何しろ、既に個人戦での優勝は逃しているのだから。



 顧問の鍋島大和なべしま やまとに引率されたアキラたちは互いに言葉を交わすことなく黙々と移動し、二階の控えスペースまで引き揚げて来た。

 それを出迎えるのは鳶色の髪を結い上げ純白の道着姿で微笑む美魔女。燦耀高校剣道部の外部監督である埴安美咲はにやすみさき


「みんな、お疲れ様。とても立派だったわ」


 優しい声音で検討を労う。端正な面差しで切れ長の翠眼を細めて艶麗に微笑むと、清楚でありながら蠱惑こわく的な色香をまとい、アキラたちの心を妖しく揺さぶる。悪気があっての事ではないのだろうが、いかんせん心臓に悪い。これで五人姉妹の母親なのだから恐れ入る。


 大和と美咲がお辞儀を交わし簡単な報告を済ませる中、顔を俯け弱弱しく双眸を揺らす中性的な顔立ちの男子生徒、五十猛頼愛いそたけ よりちかは申し訳なさそうに肩をすぼめおずおずと駿太はやたたちへと歩み寄る。


 「先輩………」

 

 視線を床に彷徨わせ、所在なさげに立ち尽くす頼愛よりちか


「そう暗い顔すんなチカ。お前のせいじゃねーよ」


 あくまで自分たちの実力だ。ニカッと快活に笑う駿太。


「ごめん、なさい…………っ」


 拳を震わせ悔しそうに歯噛みする。僕が出ていれば。無言の声がアキラの耳に聞こえてきそうだった。


「いいから。お前は自分の体調心配しとけ」


 破顔する小柄な先輩は気落ちする後輩の背中をバシバシと叩く。そんな駿太の気遣いに少しだけ表情を和らげる頼愛よりちか


「そうだぜ、チカ。飛車角落ちじゃ勝てるモンも勝てねェとか、誰も言わねェよ」


 肩を震わせ呵々と笑うのは鴫山優尽しぎやま ゆうじん。三白眼で不敵に口角を吊り上げる顔は顔立ちと相まって強面だ。


「……うん。そう、やね………」


 彼の言葉に頼愛はシュンと肩を落とす。


「おい、ユージン。相変わらずお前のはシャレになってねぇんだよ」


 険しい表情でたしなめるのは長身の清武御雷きよたけ みかづち。意志の強さを感じさせる双眸そうぼうに鋭い面差し。そして中央だけ残したモヒカンヘッドは見る者を威圧する。


「おいおい本気にしてくれるなよ。ただのジョークだろこんなモン」


 肩をすくめたかと思うと再びケラケラと笑う優尽。その様子に鼻を鳴らす御雷。

そんな二人のやり取りに頼愛は安堵し調子を取り戻す。そして「あ、そうや」と思い出したようにアキラに声を掛けた。


修羅しゅらクン。さっきの小手抜き片手面、ちゃんと決まっとったなあ。いつの間に練習しとったん?」


 円らな瞳に好奇心を覗かせ屈託くったくなく尋ねる頼愛。愛らしさを覚える視線がアキラには心苦しい。因みに修羅しゅらとはアキラの綽名あだなで小学生の頃からそう呼ばれていた。


「いやぁ。ただの偶然ですよ……」


 練習なんて、してないし。思わず視線を逸らしはは、と弱弱しく苦笑した。


「へえ~。ならなんぼも練習せんと試合で決めたん?」


 すごいやんか。瞳を輝かせ拍手を送りながら手放しで称賛する頼愛。その様子にアキラは益々身の置き所が無くなる。


「こーらチカ。アキラが困ってるだろ」

「あたっ」


 頼愛に後ろからチョップを食らわせたのは、純白の道着姿で長い金髪を二つ緩やかに纏めて背中に垂らす碧眼の少女。埴安キアラ陽咲はにやす ひさき。頼愛が頭をさすりながら振り返ると、腰に手を当て呆れ顔を浮かべていた。


「ゴメンな修羅クン……」

「いえ………」


 目を伏して見るからにシュンとしながらアキラに頭を下げる頼愛。その姿が居た堪れない。

詫びを入れられているアキラの方が逆に罪悪感に襲われた。


 安堵も束の間。アキラよりも長身の女性が背中にぴとっと張り付く。その際絹糸のような黒髪がサラリと流れ、椿の香りが鼻孔をくすぐる。白地の道着の上からでも分かる豊かなバストが背中に圧し掛かって来た。


「お疲れ様ですわ、アキラさま♪ 試合、とってもカッコ良くてわたくし、思わず見惚みとれてしまいましたわ♡」


 頬を赤らめ熱っぽい声で耳元にさえずる。こそばゆいささやきと脇を締めて乳圧を上げたバストの誘惑にさらされ、アキラの顔が羞恥しゅうちに染まった。


「ちょっ サクヤ、近いからっ」

「フフフ♪ さっきまで離れ離れだった分、貴方様を近くに感じたいんですわ♡」

「うおっ―――」


 アキラの首筋に腕を回し抱きすくめ、体重を預けて来たので咄嗟に趾で床を噛み踏ん張る。背中の乳圧が更に増した。


 アキラの背中で頬を朱に染め婉然と微笑む少女は椿原朔夜つばきは らさくや

つい最近、とある事情から恋人同士を演じることになったのだが、いかんせん彼女は演出過剰でアキラは困惑していた。


「コラ、そこのバカップル。大会はあくまで学校行事なんだから、わきまえなさい」


 後ろから声を掛けたのは長い三つ編みをお団子に纏めた黒縁のメガネ女子。先輩の龍田静音たつた しずね。生真面目な彼女らしい諫言かんげんを朔夜は渋々受け入れ抱擁を解いた。


「いいではないですか少しぐらい。ねえ、アキラさま~♪」

「ちょっ―――」


 甘えたような口調で口を尖らせながらもアキラの竹刀を持つ方の腕に両手を絡ませる。そして締め付けられる乳圧が腕を襲う。全然懲りてない。


「だから。時と、場合を。選べっつってんのよ……っ」


 ドスを利かせて獣声のように。眼鏡の奥で釣り上げた双眸から眼光鋭く射竦める。

 アキラは峻烈な怒気に当てられ背筋が凍った。朔夜もビクリと肩を震わせると渋々応じた。


「まったく。彼女の躾くらいちゃんとしておきなさいよ」

「ごめんなさい………」


 両肘を抱える険し顔の静音がアキラをたしなめる。とばっちりだ。しかし言葉には出さない。


「美咲ちゃん~。オレ、そろそろ腹減った~~」


 自身の腹をさすりながら眉根を寄せて昼食の催促をするのは鳴鏑春希なりかぶら はるき。アキラと同じ一年生の彼は既に防具と竹刀を置いた後だった。


「そうね。少し早いけど女子の試合もある事だし、お昼にしちゃいましょうか」


 美咲の鶴の一声で防具や竹刀を置くと早めの昼食を摂事になった。


「はい、アキラさま。あ~ん♪」

「いや。いちゃつくなって言われたばかりだよね?」


 隣で弁当を広げた朔夜が玉子焼きを摘まんでアキラの方へと持ってくる。口角を引き攣らせ苦笑するしかない。


「フフ♪ そういう慎み深いトコ♪ 嫌いじゃないですわ♡」

「そう? それはよかったよ……」


 頬を朱に染めご満悦の朔夜。アキラは憮然と溜息を吐く。

 ありがたいことに弁当は朔夜の手作り。偽装とはいえご苦労な事である。

 アキラがそれに感謝を表すると、頬に朱が差し婉然と微笑み嬉しそうにしていた。


 気になって静音の方に目を向ければ、他の女子部員たちに混じりながらも口数は少なくパクパクと食指を動かしていた。取り敢えずは一安心。

弁当の中からアキラは朔夜お手製のミニハンバーグを摘まみ、おろしポン酢に付け大口を開けて頬張る。


 口の中で弾ける爽やかな酸味の利いたさっぱりとした味わいが肉汁の旨味を引き立て、大根のシャキシャキとした食感が涼感を喚起させる。

 まるで、梅雨の陰鬱になりがちな気持ちを晴らす涼やかな風を胸に吹き込むかのようだ。


「その………どうでしょうか? お味の方は」


 肩をすぼめおずおずと尋ねる朔夜。先程とは一転してしおらしい優婉な雰囲気を醸す。


「うん。美味しいよ。いつもありがとね♪」


 それを聞いた途端、頬を紅潮させ顔が晴れやかになり、


「はい♪ そう言って頂けて何よりですわ♡」

「そう? それならよかったよ♪」

「はい♪ 愛してますわ、アキラさま♡」

「うん………」

(演技、だよね………?)


 冷や汗を搔き、内心で懐疑の念を浮かべるアキラは婉然と破顔する朔夜に苦笑するしかない。

 まず、自分には惚れられる要素が無い。少なくともアキラ自身はそう考えていた。

 そもそも今まで同じ部活というだけで接点なんて皆無だったし、それ程仲良くしていた記憶もない。


 ゴールデンウイーク明けにたまたま失恋した時に話を聞いてやった事ぐらいしか思い当たらないが、それだけで真剣に恋人になりたいと思うだろうか?

 やはり演技なのだろう。演出過剰だとしても。あくまで完璧なカムフラージュを期しての事なのだろう。アキラは複雑な胸中でそう結論付けた。




 男子団体戦は鳳翔ほうしょう学園と遼原りょうげん高校の頂上決戦。互いに優勝をかけたその先鋒せんぽう戦。

 八十真勝やそ まさかつは退屈していた。


 竹刀を差し向け眼前で対峙する相手の事を真勝は気にしないことにした。どこの誰だろうと構わない。心の底からどうでもいい。

 確かに挙措きょそは隙が無く完成度の高い剣道をしている。技の豊富さや駆け引きの巧さも一日の長がありそうだ。


 だが――――それがどうした?


「おおおおりゃあああああああああああああっっ!!」


 咆哮ほうこう。張り詰めた空気に気炎を叩き付けた。動きの端々に警戒の色が強くなったのを感じた。

 剣先の攻め。竹刀の先革さきがわが触れ合う触刃しょくじんの間から左拳に力を込めて剣先を突き出す。竹刀を傾いで応じる相手。動きの途切れを狙って攻め返す所に僅かに足を継ぎ攻め寄せ。


 上背のある恵体がバネを活かしての急激な突貫とっかん。その迫力だけで相手は反射的に中段の構えを崩し、傾いだ竹刀を掲げ防御。構え直した直後、相手の刀身に剣先を被せ、


「面―――――ッ!」


 跳び込み面。上太刀を執られ動揺した瞬間、相手の眼前に切っ先を突き出しながら飛んだ。

 天性のバネから繰り出される打突は防ぐ暇もなかった。物打ちは強かに真面まめんを割り白旗が三本、文句なしに揚がる。が、真勝まさかつ自身にその事で特段の高揚や歓喜は無い。


 何故ならそれは、真勝にとって当然の結果だった。

 打突の完成度の高さで言えば、先に相手が放った二本の面の方が優る。体の運び、溜めや重心移動など優れた点は多い。しかし、当たらなければ意味が無い。


(哀れだな……)


 開始線に立つ相手に同情的な視線を投げ掛ける真勝まさかつ

 この目の前の先輩がしてきた努力は自分の剣才と恵体けいたい、身体能力の前に敗れ去る。それは確信だった。覆りもしないだろう。


 一体、彼はどんな気持ちで居るのだろう? 諦観、それとも絶望だろうか?


(いや、どうでもいいな……)

「二本目、始めッ!」


 主審の宣言を耳にした瞬間、猛る咆哮ほうこうを轟かせると頭が切り替わり雑念が消え去った。

 相手をどう斬り殺すか。冷徹に思考を巡らせる。同時に、徐々に足を送りつつ腰を僅かに沈ませ、小さく左拳を張り出し下段攻め。相手は刀身を水平にしつつ上太刀でにじり寄る。


 互いに間合いを詰め、緊迫した静寂が支配する触刃の間合い。上太刀と下段攻め。溢れ出る闘気がせめぎ合い空気がきしむ中、対峙する二人は嵐の前の静けさを保っていた。

相手が仕掛ける。上太刀から切っ先を微かに下げて真勝の鍔元に睨みを利かせる拳攻め。


 切っ先から迸る剣気に当てられ、真勝は右拳に無形の圧力を感じて動きがこごる。

 圧し掛かる剣気に対し、肘を伸ばして竹刀を水平に下段攻めで振り払う。抑え付けに来た相手の剣先が下がる。それを躱して逆にこっちが上太刀。そこから半歩の送り足。


 たった一歩。その踏み出しが、相手の打突を、構えを、闘気をことごとく粉砕する。

 守勢に回った相手が小手面胴を刃下じんかに隠す三所さんしょ隠し。浅く打つと返し胴の初動を見せたのでさっと隠す。互いに接近し間合いは打ち間、絶好機。


「面―――――ッ!」


 恵体けいたいとバネを活かし、風を切り裂き鋭く打ち込む。向こうは腰を沈め額を庇うように上方に竹刀を伸ばす。互いに打ち合い相面。突き出した竹刀のつばが絡まり、


「メ――」

「胴―――――ッ!」


 面抜き引き逆胴。絡まる竹刀を引きがして肩に担ぎ、腰を切りながら袈裟懸けさがけに振り抜く。竹刀が胴板でぜた。打突直後、左手に駆け抜け境界線際で構え直し残心。一本。

 胴技は得意だった。それこそ小学校時代から。


 短い歓声と喝采が起こるが、真勝まさかつの心に勝利に対する高揚はなかった。胸中にはただただ虚無が広がっていた。



 閉会式も終わりバスに乗車して引き揚げるわずかな隙間時間。真勝は人気のない窓際で格子状の手摺りに肘を乗せながら独り佇む。

 空を塞ぐどんよりとした雨雲。暗澹あんたんとした薄墨うすずみ色の空模様に何故だか共感を覚えた。


「………………」


 溜め息を一つ吐く。窓に浮かぶ気難しい顔が更に険しくなった。

 虚しい。こんなはずじゃなかった。

 五十猛頼愛。京都から剣道留学して来た天才剣士。小手抜き片手面という大技を得意技とする華麗な剣風で去年、ここ埼玉を席巻した。


 そんな天才と存分に斬り合える。そう監督に口説き落とされて熊本から来た。

 意気揚々と埼玉に乗り込んで剣道漬けの高校生活が幕を開け、毎日自分を限界まで追い込む研鑽けんさんの日々。


 自分がどこまでできるのか? その可能性を探るべく、誰よりも多く竹刀を振った。

 天才を倒す。その決意を胸に練習に取り込んで来た。

 ――――なのに。


 突如襲った急病による棄権。それによって真勝は対戦の機会を逸した。

 来年まで待てとか。冗談じゃない。

 なんだ、これは?


「なんだよ、盲腸って……」


 わだかまった不安を独り呟く。徒労感と寂寥せきりょうが胸に込み上げて来た。そして、心情を吐露した事で胸中にくすぶっていた不満が噴出した。


「クソッ」


 手すりに拳を叩き付けて八つ当たり。だが、行き場のない気持ちは消えてくれず、持て余すばかり。一向に晴れない陰鬱な気持ちに顔を歪めた。


「まったく。探したぞ?」

「あ?」


 やれやれといった感じで憮然ぶぜんと腕組みするのは二年の先輩で早池峰満はやちね みつる

 掻き分けた短髪と露わになった額がさわやかな印象を与える。しかし、愛嬌のある顔立ちと円らな眸から険がありありと伺えた。


「ったく。高校生なんだし、いい加減いつまでも不貞腐れてんなよな」


 ちゃんと団体行動しろ。ため息交じりの小言に真勝の表情も険しくなった。そんな様子に先輩は呆れて肩をすくめた。


「ほら、行くぞ」


 くるりと踵を返し道着の背中を向けると、真勝がおもむろに口を開く。


「なあ」

「ん?」


 呼びかけると満は首だけこちらに向けた。


「大会直前に盲腸なんて偶然、ホントにあると思うか?」

「? どういう事だ?」


 今度は眉根を寄せて怪訝そうな顔を浮かべる。真勝の真意を測りかねているよう。それがもどかしかった。


「つまり、だ。逃げたんだよ。マトモに戦ったら勝てないから。要は敵前逃亡ってヤツだ」

「はあ?」


 きっとそうだ。そうに違いない。持て余した感情をしずめるために真勝は結論を出した。そう思わないと、とてもやってられないから。

 向き直った満は信憑性に疑問があるのか、胡乱うろんな視線を投げ掛ける。


「大体、そんな大きな手術だったら今日とか普通に来れてねえだろ。病み上がり? ただの言い訳、逃げ口上ってヤツだろ」

「わかったわかった。愚痴なら後で聞いてやるから。早く行くぞ」


 憤懣ふんまんやるかたないのはまさに今なのだが。同意を示すどころか全く真剣に取り合わない。再び前を向く背中に諦念を抱いた真勝は溜息を吐き、


「ったく。退屈な試合しかなかったぜ……」


 先週の個人戦も含めて。聞こえよがしに苦々しく毒づき、重い足取りでその場を後にしようとすると――


「ふざけるなっ!」

「あ?」


 鋭く言い放たれた声の方を向くと、そこに立っていたのは少女と見紛う童顔の少年。

 男子にしてはかなり高い声音。女装が似合いそうな華奢で小柄な体格をしていた。

 顔をしかめた少年が肩を怒らせ、凄まじい剣幕で迫って来る。


「ふざけるなよ、お前。他人が、どんな思いで戦ってたかも知らないクセにッ!」


 喝破かっぱした少年は鋭い眼付きでにらみ付け真勝と対峙した。だが、いかんせん見上げる構図では迫力も半減。全く怖くない。

 加えてこの時、燻ぶる真勝は苛立ちの捌け口を探していた。丁度いいと、そう思った。


 それからは身体が勝手に動いた。両手で道着の襟を締め上げると、全力でその小柄な身体をぶん回して強引に場所を入れ替え。そのまま鉄格子に背中を押し当てる。


「が………ぁ……っ」

「ちょ、おま………っ」


 涙をにじませながら小さく呻く少年と顔面を蒼白にして呆然とする満。その二人に構う事無く真勝は鬱屈うっくつした心情を吐露する。


「んなモン、知るかよ。どうしてオレが雑魚共の気持ちなんか考えなくちゃなんねえんだよ」


 えりを締め上げながら鋭く睨み付ける顔を限界まで近付ける。相手は涙を滲ませながらもひるむことはなく、屹然きつぜんと睨み返してくる。但し、言い返しはしない。真勝は一気にまくし立てる。


「大体、退屈って言って何が悪い? しょうがねえだろ、退屈だったんだから。手前らが弱いのが悪いんじゃねえか……っ」


 そうだ、悪いのは俺じゃない。弱いのは、本当に悪いのは五十猛頼愛や他の剣士たちだ。

 弱いのは実力が無いから。鍛錬が足りないから。覚悟が足りないから、才能が無いのが悪いのだ。それもこれも全て、怠惰たいだなのが悪い。


 圧倒的に努力の量が足りないから、弱いままなだけ。真勝は己の中でそう結論付けた。

 その後も舌禍ぜっかは止まらず、目の前の少年を悪罵あくばの限りなじり倒す。


「いい加減にしろ八十っ これ以上はシャレなんねえぞっ⁉」


 呆気に取られて傍観していたみつるがその身をていして両者の間に割り込む。そのまま真勝の両手に置いた片肘に思い切り体重を掛けて襟から手を引きがし、二人を引き離した。

 拘束から解放された少年は格子状の手摺りに背中を預けながら苦悶の表情で胸元を押さえて咳き込む。


「ウチの後輩が手を出して悪かった」


 満は真勝のうなじの髪を掴んで引っ張ると、怯んだ隙に土下座させる勢いで頭を下げさせ、自らも低頭に謝罪した。


「ただ、ほんの少しでもいい。コイツの気持ちも、五十猛とやるために必死こいて猛練習して来たのに、それが流れた無念も、考えてくんねえかな………?」


 それが何のいわれもない、不幸な結果だったとしても。頭を掻きながら片手で謝罪し、バツが悪そうに瞳を伏せながら気遣いを口にした。

 だが、真勝は髪を引っ張られた痛みと無理矢理頭を下げさせられた恨みから憎悪の眼差しを深慮な先輩に向ける事しかできない。少年も同じような様子だった。


「ほら、帰るぞ」

「ちょっ おま―――」


 みつるは有無を言わさずに両手で真勝の腰を押し込みながら退散する。床を噛んで踏ん張ろうにも、それ以上の力を掛けて来るのでされるがままになる。


「先輩が出るまでもない。お前はこのボクが倒すっ 阿賀野修羅が、必ずッ‼」


 絶対に。そんな負け犬の遠吠えを真勝は背中越しに聞き流す。

 そしていい加減、力づくで追い立てられていることに腹を立てて背中の先輩に裏拳を振り回した。難なくかわされるも、押し出しからは解放された。薄暗い廊下の中、改めて満と対峙する。


 中肉中背。色白の肌が露出する道着姿では華奢な印象を与える。

 それらに似合わない一九十を超える真勝の恵体を押し運ぶ体幹力。真勝はどこか部内の雑魚とは違う満の事を少し買っていた

 当の本人は殺気立った視線を前に泰然としながら嘆息した。


「今が退屈だからって、辞めて九州に帰んなよ」

「あ?」


 いつになく真顔で発する言葉を怪訝けげんに思う。


「どんなにキツい練習やったとしてもさ。やっぱり試合に優る稽古はないだろ? 九州の強豪校で最後の一年まで我慢する同い年の剣士より、三年間レギュラーで戦い続けられるのはお前にとって強みになる筈だ。」


 だから、辞めるなよ。そこには鬱屈した悪感情も憧憬しょうけいもなく、ただ真摯しんしな感情だけがそこにあった。それだけ言うと再びきびすを返して監督たちとの合流を促した。

 剣道王国九州。真勝たちが生まれる前の時代から九州勢は学生剣道において絶対的な地位を占める。 中でも真勝の居た熊本は『全国大会よりも厳しい』とまで言われていた。


「強み、か………」


 同じ台詞を監督にも言われたのを思い出す。

 そして、今みたく真剣に言葉を投げ掛けてくれる人間は鳳翔はにいなかった事に思い至った。




 昼食後。アキラたちが送り出した女子チームは本戦を順調に勝ち上がり、見事優勝を果たしてインターハイ出場を決めた。


「本当にありがとうございます、皆さん。私一人では、絶対にここまで来れませんでした……」


 全てが終わった閉会式の後。手にした表彰状に瞳を落としてしみじみと、感慨深そうに話す小柄な少女。三年生で女子の部長、高木八重たかぎ やえ。彼女が大将戦で引き分けた瞬間に燦耀高校の初優勝が決まった。


 おめでとうございます。他の一年生部員や男子の先輩たちと同じようにアキラも八重や陽咲ら女子チームの栄光を言祝ことほぐ。羨望せんぼうの眼差しを向けながら。

 因みに男子の優勝は鳳翔学園。決勝戦で遼原高校を一―〇の接戦で下した。一勝を挙げた優勝の立役者は八十真勝。部長である駿太を個人戦で圧倒した相手。アキラの胸中は複雑だった。


「これからは全国に向けて色々準備なり対策しないといけませんね」


 真面目な言動は静音。彼女の中では既に気持ちが切り替わっているらしい。


「お。いつになくヤル気じゃねーか♪」


 快活に応じるのは陽咲。そりゃあそうでしょ。と衒いもなく答える静音。それから、八重を囲んで雑談に興じる少女たち。そこへ――


「さて。これから学校に帰って練習するぞ」


 早く移動しろ。眼鏡を擦り上げて急かすのは監督の鍋島大和。眼鏡越しの怜悧な視線には油断も隙も無く、勝利に浮かれた雰囲気は微塵も感じさせなかった。

 そんな態度に女子部員たちは口々に不平を零す。


「えー?」

「いいじゃないですか。もう少し余韻に浸ったって」

「ですです」


 しかし大和は取り合わない。


「やかましいっ 優勝で変に浮かれて羽目でも外してみろ。インターハイ出場がふいになったらどうするっ⁉」

「老婆心。ひょっとして、監督が一番浮かれてんじゃないですか?」


 怪訝けげんを浮かべる静音が冷めた視線を向ける。そーだそーだと同意する女子たち。

 そこへ美咲がパンと手を叩き、部員たちのを集めると優しく呼び掛けた。


「はい♪ それじゃあみんな、荷物を纏めたら玄関前に集合してね。あ、もちろん忘れ物の無いように。お願いね♪」

『はーいっ』

「……………」


 各自が撤収の支度に入る。まさしく鶴の一声。その様子を大和は憮然ぶぜんと眺めていた。

 既にクールダウンを終えて竹刀や防具を仕舞い終わっていたアキラは残りの私物をリュックに纏め手持ち無沙汰になった。


「サクヤ。何か手伝おうか?」


 弁当のお礼として。それを聞いた途端、頬を赤らめ目尻を下げる朔夜。


「アキラさま。そのお心遣いだけで十分ですわ。わたくしも、もうすぐ終わりますので……」


 軽く会釈をすると作業に戻り、手際のよい挙措で荷物を片付けていく。

 言葉通り纏め終えた朔夜と階段を下がり玄関で待つ美咲の元へと合流した。その際、尿意に襲われ断りを入れてから素早くトイレへと直行。一階は満杯だったので、仕方なく二階を遣う。


 その際、様々な横顔とすれ違った。

 泣きらして尚、悔しさを滲ませる顔。暗澹あんたんとし俯ける顔。涙を拭い、決然と前を向く顔。解放感に酔いしれる顔や清々しい笑顔。


 享受きょうじゅした結果と胸に宿る想いは違えど、今日の大会を戦い抜いた同志には違いない。

 それぞれの横顔に思いを馳せ、自身もまた前を見据えながら歩み続けた。


「ふう…………」


 手を拭き終わりその場を後にする。廊下に出ると既に人気が無く閑散かんさんとしていた。

 つわものどもが夢のあと。胸に寂寥せきりょう感をにじませながら後にしようとすると、焦った様子で誰かが近付いて来た。


「あ、なあ。悪いんだけど、ちょっと。そっちの方に誰か人居なかったか?」


 中肉中背で見るからに先輩と分かる風格、愛嬌のある顔立ちに掻き分けた短髪と露わになった額が爽やかな印象を与える。

 弱り切った円らな眸でアキラに尋ねて来ていた。奥の方はガラス張りの窓辺に手摺りの付いた躍場があるだけ。静寂に包まれ談笑の声は聞こえてこない。


「さあ………? そっちはまだ行ってないので――」

「サンキュ」


 言い終らぬうちに足早に奥へと進んでいった。

 この時、アキラに深い考えがあった訳ではない。ただ、なんとなく興味の向くまま去っていく背中を追いかけた。


 壁際に身を隠しながら開放された窓際のスペースの様子を窺う。漆黒の道着に身を包む先程の先輩の背中が見えた。何やら話し声が聞こえる。

 覗き込んだ先では先程の先輩が窓際で誰かを前に話していた。目的の人物だったようだ。にしてもデカい。先輩の背中越しにも額や頭部が見て取れる。


(マズい―――っ)


 話が終わったのかこちらに戻って来る。慌てたアキラは咄嗟に身を隠した。


「なあ」

「ん?」

「大会直前に盲腸なんて偶然、ホントにあると思うか?」

「? どういう事だ?」


 大柄な少年が話を切り出す。気になって再び顔を覗かせた。


「つまり、だ。逃げたんだよ。マトモに戦ったら勝てないから。要は敵前逃亡ってヤツだ」

「はあ?」

(な――――っ)


 アキラは絶句した。よりによって頼愛が敵前逃亡したと見做みなされた事は心外だった。思わず目を剥いて言葉の主を凝視ぎょうしする。


「大体、そんな大きな手術だったら今日とか普通に来れてねえだろ。病み上がり? ただの言い訳、逃げ口上ってヤツだろ」

「わかったわかった。愚痴なら後で聞いてやるから。早く行くぞ」


 勝手な言動に怒りが燃え上がり握った両手がわなわなと震える。先輩が冷静な態度で真面目に取り合わないのがせめてもの救いだった。その後も滑り出した口は止まらず、遂には、


「ったく。退屈な試合しかなかったぜ。個人戦もどっちも……」


 我慢の限界だった。冷静になれ。そんな理性の制止も聞かず、気が付けば身体が勝手に動いていた。もう止められない。


「ふざけるなっ‼」


 少年と先輩、二人の視線がアキラに向けられた。大柄の少年の突き刺す眼光は鋭いが、それでひるむアキラではなかった。

 その眼光と決然と対峙。覆い被さって来るような体躯だが、今更引き下がる事など考えてはいない。

 そして思い出した。コイツは鳳翔学園の八十真勝。同い年ながら埼玉の頂点に立つ剣士。


『所詮なぁ、チビがどれだけ頑張ったって、本当の天才には敵わねぇんだよッ!』


 先週の個人戦。そこで駿太は八十真勝に完敗し、最後の挑戦が潰えた事に涙を呑んだ。

 ショックだった。駿太の活躍はアキラにとって希望だったから。よりにもよって一番言って欲しくない相手にそれを言われた。剣道にチビの生きる道はない、と。


 その後、敗戦のショックから立ち直り、頼愛を欠いたチームで大将の座に就いた。

 それまでに、どれだけの葛藤を乗り越えたのか。アキラは知らない。その強さを素直に尊敬している。


 しかし、彼の惨敗から出た言葉はアキラの心にとげとなって食い込んだままだった。

 だからこそ、視線に憎悪を乗せて相手に突き刺す。

 コイツが悪い。コイツのせいで。そんな思いが胸中を占めていた。


「ふざけるなよ、お前。他人が、どんな思いで戦ってたかも知らないクセにッ!」


 かっと目を見開いたかと思うと、即座に両腕をアキラに伸ばして来た。突然の事に対処できない。

 両手で道着の襟を締め上げると、全力でその小柄な身体をぶん回して強引に場所を入れ替え。そのまま鉄格子に背中を押し当てる。


「が………ぁ……っ」


 胸を圧迫され格子状の鉄棒が背中に食い込み身体がきしむ。痛みで涙が滲み心が折れそうになるも目に力を込めて必死で睨み返す。


「んなモン、知るかよ。どうしてオレが雑魚共の気持ちなんか考えなくちゃなんねえんだよッ!」


 えりを締め上げながら鋭く睨み付ける顔を限界まで近付ける。弱みを見せないアキラに顔を顰めた真勝は一気にまくし立てる。


「大体、退屈って言って何が悪い? しょうがねえだろ、退屈だったんだから。手前らが弱いのが悪いんじゃねえかッ!」

(弱いのが悪いだって………?)


 勝手な言い分だ。才能だけで剣道やってるくせに。あんなの、頼愛よりも遥かに劣る完成度の剣道で勝っておきながら。

 なら逆に、強ければ何をしてもいいというのか?

 暴力を振るっても許されるとでも?


(ふざけるなっ‼)


 激昂げきこうするアキラは更なる剣幕で正勝を睨み付けた。


「そもそも、テメェ誰だよ? よく知りもしねえクセに突っかかりやがって。誰の記憶にも残らねぇクソ雑魚モブ剣士が。秒で失せろ」


 弁舌は更にエスカレートし、面識のないアキラを見下しに掛かる。

 クソ雑魚モブ剣士。その通りだった。けれども強さにおごったその態度が憎くてアキラは怒りに顔を歪ませる。


「いい加減にしろ八十っ これ以上はシャレなんねえぞっ⁉」


 傍観していた先輩が身をていして両者の間に割り込む。そのまま真勝の両手を襟から手を引き剝がし、二人を引き離した。


 解放されたアキラは窒息しかけていた気道に空気を取り込む。気管が驚き思わず咳き込んで背中を丸めた。

 それでも闘志を絶やしてはならぬと、真勝の事を睨め付ける。


「ウチの後輩が手を出して悪かった」


 先輩は真勝のうなじの髪を掴んで引っ張ると、怯んだ隙に土下座させる勢いで頭を下げさせ、自らも低頭に謝罪。その後すぐに真勝を解放した。


「ただ、ほんの少しでもいい。コイツの気持ちも、五十猛とやるために必死こいて猛練習して来たのに、それが流れた無念も、考えてくんねえかな………?」


 それが何の謂れもない、不幸な結果だったとしても。頭を掻きながら片手で謝罪し、バツが悪そうに瞳を伏せながら気遣いを口にした。

 だが、アキラは素直に首肯する気にはなれない。


 いくら望んでも監督たちに出場を固く止められている頼愛の気持ちを考えない奴らに、どうして配慮しなければならないのか。意味が分からない。

 それに、真勝におもねるようなヘラヘラした態度も気に入らない。アキラは怒気を孕んだ視線を突き刺す。それは真勝も同様で。その様子に先輩は辟易した様子で溜め息を吐いた。


「ほら、帰るぞ」

「ちょっ おま―――」


 先輩は有無を言わさず踏ん張る八十の腰を押し込みながら退散していった。

 まだ何も言い返せていない。アキラは再び両手をキツく握り締め、意を決して口を開く。


「先輩が出るまでもない。お前はこのボクが倒すっ 阿賀野修羅が、必ずっ 絶対にッ‼」


 去り行く背中に吠えた。しかし、二人は特に気にした風もなくただ廊下の向こうに消える。

 アキラだけが独り、その場に残された。


「くっ……ふぐ………っ」


 奥歯を強く嚙み、引き結んだ口から嗚咽が漏れた。指先が白むほど手を握っても肩は震え、リノリウムの床を睨みつけても涙が込み上げる。悔しくて仕方なかった。


(どうして、どうして僕はこんなに弱いんだ……っ)


 滲み出る雫が床に一滴、また一滴と滴り落ちる。

 真勝に何も言い返せなかった自分が。公式戦で一勝もできない自分が。実力も才能もない自分が憎かった。呪いたくなる程。

 こんなに屈辱を感じたのは生れて初めてだった。


(強く、強くなりたい………っ)


 今よりも遥かに、誰よりも。

 負けの屈辱はもう沢山だ。

 だから、変わらなくては。


 切った啖呵を現実にするために。なりたい自分、英雄ヒーローになるため。自らの誇りに懸けて。

 今のままでは足りない。圧倒的に努力の量が。

 覚悟を決めよう。こんな惨めな思いは、今日で最後にすると。


「…………っ」


 浮かぶ涙を道着の袖でキツくぬぐい、床の涙を足でく。


「………………よし」


 目を赤らめながらもその横顔はどこか晴れがましい。

 もう過去は振り返らない。決意を固めて歩き出す。

 アキラが足早に玄関まで戻れば、既にメンバー全員が集合していた。


「遅えぞ」

「すいませんでした」


 開口一番、ドスの利いた御雷みかづちの声。素直に平謝りする。


「ん? 修羅、どうかしたのか?」


 泣きらしたあとに気付いた陽咲がアキラに尋ねる。


「あ、いえ、別に……」


 何でもありません。無理に笑顔を作って追究をかわす。


「アキラさま……」


 この世の終わりのように深刻そうな顔の朔夜が近付いて来る。


「いや、本当に大したことじゃ――」


 華奢きゃしゃな腕に抱かれ、迫りくる胸元に言葉を遮られた。フワリと、優しい感触とほの甘い香りに包まれる。


「とても辛かったでしょう? お可哀想に……」


 線の細い身体から伝わる温もり。張り詰めていた心がほぐれ、身体の力みがすぅっと溶けていく。不覚にも泣きべそをきそうになった。


「…………ううん、朔夜。もう、大丈夫だから」


 君のお陰で。彼女の暗く沈んだ顔をこれ以上見たくなくて精一杯の晴れやかな笑顔を見せる。

 そんなアキラの想いに応えるように、朔夜もまた優しく微笑む。


「………この会場、包丁ってどこでしたっけ………」

「え?」


 狂気をはらんだ獰猛な笑みから零れる物騒な言葉。当惑して思わず声が漏れた。


「止めておきなさい」


 獰猛に爛々と目を輝かせる朔夜を静音が諫める。


「よし。じゃあ行くぞ」


 駿太の号令で移動を開始する燦耀高校剣道部。

 パラパラと濡れた地面を叩く雨の中、アキラは朔夜と傘を差しながら手配されたマイクロバスへと向かった。



 学校に着く頃には雨も止み、改めて剣道場に全員集合した。

 全面板張で継ぎはぎの木目が覆う床に白線で区切られた試合場が二つ。き出しの鉄骨と鉄格子の窓が並び、その中央には神棚が鎮座していた。


 神棚を背に道着に着替えた大和と美咲が立ち。その前に部員たちが整列していた。全員の顔を見渡した大和が眼鏡を擦り上げながらおもむろに口を開く。


「さて。インターハイ予選も終わった事だし、そろそろこの情報を解禁する時だろう……」

「あのさぁ、監督。わざわざ勿体付けなくていいから、早く教えてくんねーかな?」

「ホントにねー」


 うんざりした様子の陽咲。頭の後ろで手を組む春希が同意をしめす。


「…………まあいい。来る七月、女子は全国大会の前哨戦として、男子は現メンバーでの最後の大会として。今年は玉竜旗に出るぞ」


 玉竜旗。その言葉に部員の面々がざわついた。

 玉竜旗争奪剣道大会。高校剣道四大大会の一つ。

 毎年七月末に福岡で開かれるオープン参加型のこの大会は、全国各地から名だたる強豪校が一堂に会して覇を競う。


「漸く出ても恥ずかしくないくらいの実力が、このチームに付いて来たという訳だ。

だから駿太。引退するにはまだ早過ぎるぞ?」

「ハイッ!」


 頼もしい返事を発した駿太が喜色を浮かべて両拳を強く握り締める。武者震いで肩が震えていた。

 それは頼愛も同じだったようで、表面上は平静を装い密かに拳を強く握る。

 二人のそんな様子を、アキラはどこか冷めた目で見ていた。


 ふと朔夜の方を見やると、彼女も余り関心を示していないようだった。

 無理もない。出場の機会は無いと考えるのも、彼女の実力はまだ上級生に劣るのだから仕方ない。

 そして。それは自分も同じようだと、アキラは冷静に自身を分析した。これからの事を想えば無理らしからぬ事。そう結論付けた。


「それじゃあみんな。あんまり時間もない事だし、さっそく練習に取り掛かりましょう♪」

『ハイッ!』


 目を細め艶麗に微笑む美咲の号令に、部員たちが返事を唱和した。アキラはその上で独り挙手をする。


「監督、それに先生。ボク、実はちょっとお願いがあります」


 皆の注目を集める中でアキラは腹をくくる。もう、後戻りはできない。


「僕に、上段を教えてください」

「ほう」

「あら♪」


 その一言に二人の指導者は感嘆の声を漏らす。


「よろしくお願いします」


 今のままで通用しないなら、やり方を変えるまで。二人の前に進み出て頭を下げた。

 二人は顔を見合わせて頷き合うと、


「よし。いいだろう」

「ええ。新しい事に挑戦する事は良い事よ♪」


 共に快諾してくれた。よし。これで一歩前進。手応えに両拳を握り締めた。

 それから練習は開始され、準備運動から素振り、切り返しや打ち込み稽古まで終わったタイミングでアキラは美咲に呼ばれた。道場の窓際で二人膝を突き合わせて正座する。


 大和に指導され日々の練習について記している剣道ノート。それと素振り稽古に使った木刀を指示通り持参したアキラは脇に置いて指示を仰ぐ。


「さてと。それじゃあ、さっそく上段を教えていく訳だけど。まずはアキラ君が上段に転向しようと思った理由は何かしら? やっぱり、今日の敗戦?」


 首を傾げ結い上げた髪を揺らす美咲。当たらずとも遠からず。流石に鋭い。


「それもありますが、今のままでは大した成長が見込めないと、そう思いました」


 そう、八十真勝を倒すためには、今のままでは無理。構えから何から帰る必要性をアキラは感じていた。故に、自分の言葉に力強く頷く。


「それじゃあ、次の質問。上段をどういう風に感じているか。それを教えてもらえるかしら?」


 目尻を下げ首を傾いで艶麗に微笑む美咲。蠱惑的で妖しく心を揺さぶる表情も今はアキラに通じない。はい。首肯してから改まって理路整然と言葉を並べ立てた。 


「ボクは背が小さく、間合いを盗む技術もありません。ですが、半身を捌いで放つ片手技ならリーチの問題を克服できると考えました。それと、打突スピードのアドバンテージですね」


 剣道において、実は片手技の方が剣速が出る。何故なら諸手技とは違い半身を捌く際に腰の回転による遠心力を打突に付与する事ができ結果、諸手技よりも早く打突部位に到達する。

 リーチとスピードの優位性。それが飛び道具と呼ばれる所以。


 打突の打ち合いを制すどころか、一方的に叩き潰すことができる。上段を物にする価値がそこにあった。

 アキラの説明を美咲は満足そうに目を細め、適度にうんうんと相槌を打ちながら聴いていた。

 全てを聴き終えた後で、改めて口を開く。


「大事なことだから最初に言っておくけど。上段は、中段には不利よ?」

「へ?」


 アキラはその一言に固まってしまった。

 どういう事だ? ならば何故、生徒に上段を教えているのか。

 そもそも、何故自身が上段を執っているのか? 不利なのにも拘らず。

 頭が混乱して言葉に詰まった。


「それじゃあ、まずは剣道ノートを見てみましょうか♪」


 嬉々として人差し指を立てて。見るべき項目はゴールデンウイークの座学で書き記した剣道形のページ。

 日本剣道形。太刀の形七本、小太刀の形三本からなる剣道の原点にして奥義。これの制定を以て剣道の創始と言っても過言ではない。現在では昇段審査の際に必修科目として修練が義務付けられている。


 アキラも中学時代に昇段審査会が近くなる度に仕方なく部活や道場で練習していたが、高校の剣道部で形に内在する術理への理解を深めれば深める程、剣道修行に不可欠で、試合で勝つためには不可欠な物だというのが理解できた。


「それじゃあ、上段の項目を読んでみて♪」

「はい。えっと――上段とは頭上に太刀を振り被り、身体の上部に持って来る事からそう呼ばれる。防御を棄てた攻撃一辺倒のこの構えはその苛烈ぶりから火の位とも形容される。

しかし、陰陽五行の相克に則り、木の構え、陽の構えとも言われる八相から生じるこの構えは金の構え、陰の構えと呼ばれる脇構えには有効だが、水の位である中段には不利である……」


 本当だった。では何故、大会で度々上段使いが散見されるのだろうか? 意味が分からない。


「フフ♪ 疑問を払拭するためにも、実際に上段を執ってみたら分かるわ。教えるのは左上段で良いのよね?」


 アキラの心を見透かす美咲に促されるまま、立ち上がり中段の構えからスッと上段を執る。

 左諸手上段。振り被った木刀を右に傾いで左足を前に出して構える事からそう呼ばれる。


 対する美咲の構えは平青眼。相手の左目に切っ先を付ける青眼の構え。その手元を平らぐように構える事が由来する。

 美咲の指示通り、せーので互いの小手を打ち合う。


「せーの♪」

(くっ―――)


 平青眼は前方に掲げた右手を傾いで刀身の下に隠す。そのため上段から諸手で打とうとした場合、一旦竹刀を左肩口に担ぐ必要がある。それが致命的なタイムラグとなり、相手に先んじられる。


 つまり、剣道形五本目の摺り上げ面において、上段は平青眼に対し実質的に面しか打てない。

 そこで理合いの観点から燦耀では独自に、上段が放つ面は出端面と教えている。

 平青眼が出遅れ足捌きが間に合わないからこそ、鎬で相手の攻撃を逸らす。それが理合い。


 それにしても、この平青眼という構えはつくづく対上段に特化した構えだと思い知らされた。

 アキラは痛感する。上段は中段に不利。それは物理的に証明された、と。


(―――ん、待てよ?)


 現実を突き付けられたからこそ、閃くものがあった。途端、暗く沈んだ顔が明るくなる。


「フフ♪ それじゃあ、今度は逆に私が上段を執るわね♪」


 艶麗に微笑む美咲の顔を見て確信した。

 そして答え合わせ。美咲の片手小手がアキラの小手打ちよりも早く部位に到達する。確信が証明されぞわりと戦慄が駆け巡る。目を見開き感動に打ち震えた。


「ええ、そう。上段は片手小手を放つ事で中段や平青眼に対し、小手の差し合いで互角どころか優位に立てるのよ。だから、上段は片手小手が基本。私が師事した上段の先生は、そう教えてくれたわ♪」

「はいっ!」


 片手小手と片手面。この二者択一が迷いを生み出し隙となり、打突の好機となって現出する。

 これが上段における片手技の理合い、戦略的合理性。

 アキラは光明を見出し、歓喜に頬を上気させる。胸の高鳴りが止まない。


 これなら勝てる。八十真勝に。

 外の雨模様はいつしか止み、雲の隙間から陽光が差し込む。

 黄昏の金色が美咲の笑顔を照らしていた。


「眩しいから移動しましょうか」

「ですね」


 竹刀が爆ぜ打突音が響き踏み込み足が轟く中、二人はいそいそと移動を開始した。


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