蛇を見る。そして蛇になる。
「あ……」
スーパーマーケットからの帰り道に蛇がいました。私の両手にはレジ袋がぶら下がっています。右手の袋には牛乳、炭酸水、オレンジジュース、醤油、みりん等、液体重量級メンバーが揃っています。左手の袋にはタイムールの牛肉、豚肉、砂肝、ささみ、マグロの刺身、卵、葉物野菜等、重要度高めの商品がちらほら混ざっています。これだけの荷物を持った状態で走るのはどう考えても不可能です。
蛇がいるのは道路の真ん中です。私との距離は八メートルぐらいでしょうか。まだこちらには気付いていないようです。進むべきか戻るべきか……どうしましょう。蛇は嫌いではないのですが噛まれるのが怖いのです。
重量級揃いの袋を持つ右手は悲鳴を上げています。今から道を引き返す余裕は残っていないと筋肉が叫んでいます。仕方がありません、歩を進めるしかなさそうです。
蛇まで残り三メートルぐらいのところまで来ました。もう思い切って突破するしか…………おや? 何かが変です。蛇だと思っていたのですが……蛇ではない……みたいです。
よく見るとただの木の枝ではありませんか。見上げると古い桜の木が頭上まで枝を広げていました。どうやらこの木の枝のようです。なんだ…………ほっとする反面ちょっぴりつまらないなあと思いました。人間とは勝手な生き物です。
「あ……」
また蛇です。『また』ではありませんね。今度こそ蛇です。もそもそ動いているし形もさっきより滑らかにくねくねってしています。間違いありません。絶対に蛇です。
左右の荷物を持ち替えてみました。すると右手は痛みから解放されたのですが今度は左手が悲鳴をあげはじめました。やはり引き返す余裕はなさそうです。思い切って進むしかありません。
またまた蛇まで残り三メートルぐらいのところまで来た時に違和感を覚えました。よく見るとまた蛇ではありませんでした。汚れて擦り切れたロープのようなものが道の真ん中でころりころりと風で揺れているだけでした。
私はほっとしてもう一度歩き始めました。もちろんちょっとだけつまらないなとも思いました。
ロープを蛇に見間違えてから、ありとあらゆる細長いものが蛇に見えるようになりました。ぼんやり眺めると周りが蛇だらけのように見えます。
誰かが抜いて捨てた猫じゃらし、側溝に落ちた自転車のチェーン、洗濯バサミをつけたタオル、青いホースの切れ端、タバコの吸い殻まで蛇に見えました。なんだか不思議な気分です。
そういえば昨日は人の顔が誰でも絶世の美男美女に見える日でした。鏡に映る自分の顔はいつも通りなのに皆いつもより何倍も顔が整って見えたんです。テレビをつけると、どの番組も惚れ惚れするぐらい美しい顔の人ばかり映っていました。大御所コメンテーターすら昨日は爽やかイケメンに見えました。
うちの旦那が昨日だけはボリウッドスター並みにイケメンに見えた時は思わず笑ってしまいました。色白ひょろ眼鏡のうちの旦那がです。ハリウッドではありません。あの顔の彫りの深さは絶対にボリウッド系でした。
「あ……どうも」
足元から声がしました。下を見ると蛇がいました。あと一歩踏み出していたら踏んでいたかもしれません。
蛇が頭をもたげて私を見上げています。声の主はこの蛇のようです。
「あ、すみません突然声をかけてしまって。踏まれるのは嫌だなあと思ってつい声をかけてしまいました」
「それはそれは、こちらこそすみません。私も考え事をしていたものですから」
「いえいえとんでもない。私が道路の真ん中で寝ていたのが悪いのです。それにしても重たそうですね。左手が悲鳴をあげていらっしゃる」
「そうなんです。実は家まであと十分ほど歩かないといけないのに重たくて手がきつくて」
「右手の袋に卵がありそうですね。もしよければ一ついただけませんか? いただけたならお礼に荷物を家までお持ちしましょう」
「本当ですか? それは助かります。是非お願いします」
私は一度左手の荷物を地面に置いてから右手に持つ袋の中から卵のパックを取り出して、卵を一つ蛇に渡しました。すると蛇は嬉しそうに卵を丸呑みしました。
「ああ、生き返りました。ここ二日ほど何も食べていなくてお腹が減っていたんです。ありがとうございました。それでは荷物を運んで差し上げましょう」
蛇はそう言って頭を高くもたげたかと思うといつの間にか私とそっくりな姿になっていました。そっくりどころか私そのものです。きっと隣に並べば誰もどちらが本物の私かわからないでしょう。
「すごいですね、蛇は変身ができるんですね。初めて知りました」
「あら、そうなんですか。五年も生きていれば蛇なら誰でも変身ぐらいはできるようになりますよ」
私の姿をした蛇は楽しそうに笑いながら私の両手からレビ袋を受け取ると歩き始めた。私がここまで重たそうに運んできた荷物を蛇は片手で軽々と持っています。
「ここまで歩いてきてお疲れでしょう。私の肩にでも乗っていてください。あなたのお家の場所は何となくわかるので」
蛇が立ち止まりそう言った途端、私の身長はゆっくり縮み始めました。
すすすすす…………小さな音を立てながら私の体は小さく小さくなっていきます。私は小人になるのかしら、そんなことを考えながらわくわくしていると気がつけば蛇になっていました。蛇になった私が私になった蛇を見上げていると、私はくいっと掴まれて私の姿をした蛇の肩の上に乗せられました。
「さあ、行きましょう」
私の姿をした蛇はそう言うと、とっても楽しそうな顔で歩き始めました。重たい荷物を持っているというのに足取りは軽くすたすた歩いていきます。
急な坂道もすいすいすいすい、上りの階段だってすたすたすたすた。蛇の姿をした私を肩に乗せた、私の姿をした蛇は楽しそうに周りの景色を眺めながら歩いていきます。
「どうしてそんなに楽しそうな顔をしているんですか?」
「実は人の姿になるのがかなり久しぶりでして、こんなに楽しいことだったんだなあと思い出してついうきうきしちゃいました」
ちろちろと舌を出して笑う様子を見て、私の姿をしているけれど、やっぱり蛇は蛇なんだなあと思いました。
「あ、お母さんだ!」
家に着くとちょうど小学校から娘が帰ってきたところでした。娘はきっと私の姿をした蛇のことを『お母さん』と呼んだんだろうなあと思うと面白いような、でも騙している気がして申し訳ないような複雑な気持ちになりました。
私の姿をした蛇を見るとなんだか嬉しそうな顔をしています。きっと自分の変身の完成度が高いことに満足しているのでしょう。なんとなくその気持ちはわかります。自分の力を確かめることができて嬉しい気持ちです。嬉しそうな顔を見て微笑ましく思った反面、やっぱりなんだかもやもやします。
「お母さん、どうしてヘビになったの?」
ランドセルをらんらん揺らしながら駆け寄ってきた小学一年生の娘は蛇の姿をした私を見て不思議そうな顔をしました。思わず蛇と私は顔を見合わせました。さっきまで嬉しそうだったのに私の姿をした蛇の目には驚きとひとさじほどの悲しみが映っていました。
娘を見ると娘は相変わらず不思議そうに私たちを見ています。
「理恵はお母さんが蛇になっているってどうしてわかったの?」
「どうしてって、そんなのかんたんだよ。ヘビはヘビにしかなれないし、お母さんはお母さんだもん」
「そうね、お母さんはお母さん。たしかにそうかもしれないね」
小学一年生の娘に言われた言葉の意味はわかったようなよくわからないような不思議なものでしたが、なんとなくすーっと胸に落ちました。私の姿をした蛇を横目で見てみるとなんだか残念そうな顔をしています。蛇は私が見ているのに気がつくと、ぱっと笑顔をつくりました。
「お家に着きましたね。荷物をお返しします」
私の姿をした蛇はそう言うと、私を肩から下ろしました。
すすすすす……小さな音を立てて私は蛇から人間の体に戻りました。そして私の姿をした蛇は私に荷物を渡すと、ぽんっと音を立てて蛇の姿に戻りました。
「荷物を運んでくださって本当にありがとうございました」
「いえいえ、とんでもない。久々に人間の姿になって楽しかったです。それではごきげんよう」
蛇はぺこりと一度頭を下げるとするすると道路を進み、茂みに消えていきました。私と娘は蛇を見送ってから家に入りました。
「お母さん、ヘビには気をつけないといけないんだよ」
家に入って手を洗っていると娘が真剣な顔をして言いました。娘の手はまだ少し濡れています。タオルでちゃんと拭けていなかったのでしょう。
「理恵、まだ手が濡れてるわよ。ちゃんと拭こうね」
私はタオルを娘に渡すと、娘はうんと頷きタオルで手を拭きました。
「お母さん、ヘビには気をつけないといけないんだよ。今日も学校で先生が言ってたもん」
娘は私にタオルを返しながら再び真剣な顔をして言いました。
「どういうこと?」
私はタオルをタオル掛けに戻しながら聞きました。
「あのね、最近ヘビにだまされる人が増えてるの。さらわれたり食べられたりしちゃう人もいるんだって」
「あら、そうなの?」
「そうなの。とっても危ないから知らないヘビに話しかけられてもお話ししちゃいけませんって先生言ってたよ」
「でも今日の蛇さんは優しい蛇さんだったわよ?」
「ダメなの、ヘビはいつだってやさしい顔をしてるって先生言ってたもん」
「そうなの、それは怖いわね」
「そう、とってもこわいの。亞田無さんも威武さんもやさしいヘビだと思ったら失敗しちゃったことがあるって言ってたよ」
「あら、そうなの。じゃあお母さんも気をつけないといけないわね」
「うん、そう!」
私が納得したのを見ると娘は嬉しそうに廊下を駆けていきました。
私がさっき会ったあの蛇はいい蛇だった気がします。理由は特にありません。なんとなくそう思うだけです。でも、娘が言うとおり優しいふりをしていただけなのかもしれません。
レジ袋の中のものを冷蔵庫に入れる時、卵のパックを見るといつの間にか卵は三つ減っていました。一つしか渡していなかったはずなので知らぬ間にくすねられたのだと思います。
もし娘が私が蛇になっていると気がつかなかったらどうなっていたのでしょう。今更考えても仕方がないのですが気になります。危ないことになっていた可能性もゼロではありません。
でも、蛇になって荷物を運んでもらっていた時、なんだか巨人の肩に乗っているような気がして楽しかったのです。それはもう、本当に。
もしまたあの蛇に会えたなら、また蛇になりたいなと思っていることは娘には内緒にしておこうと思います。