春の国
某FPS界の重鎮さんのウォッチパーティーをきっかけにエヴァンゲリオンをいっきに見てきました!
面白かったですが、喪失感がとてつもなかったです!
現役世代の30-40代?の方々はもっと辛いでしょうね。
ともかく、創作意欲をいただきました。
そろそろ成長が目に見えてくるのではないでしょうか?自信ははないですが!
今回は面白いといいですね!
君は信じられるだろうか。例えば潤いの無い荒野の先、暗たんとした深緑の端に、可憐な少女を想わせる、いじらしい彩色が一面に施された大地があるなどと。その大地による恵みが極めて甘露で、量と言えば何万もの民を賄っても尚、有り余るほどであるなどと。そしてただ奇妙ばかりが取り柄の石ころの数個によって、望むままに食料が取引されるのだということを。
信じられるはずがなかった。現実だとは、夢にも考えられはしなかった。だが彼の国は存在したのだ。非力なる我が国を憂う慈悲深き春よ。愛しき春よ。麗しき主、春の乙女よ。どうかこの胸の悔恨が、いつの日かあなたに知れるように。
1
枯葉が風に舞っていた。絶えず風を受け、ひらひらと薄色の葉裏をちらつかせていた。枯葉らはその逞しい托葉を番人の背に絡めていた。ふと、その土気色の小高い背のちょうど真ん中に、黄色の花弁が降り落ちてきた。辺りでは規則正しく並ぶ木々が実を生らし、実はどれも黄色の花を傘にしていた。隣で笑みを含む息が聞こえ、そのすぐ上でちらと、顔色を窺う目が逸った。ニヤリと笑い、彼女の耳に口を寄せた。
「分かってるよ。」
早足で番人の背に寄り、背伸びをして彼の肩を突いた。
「失礼。今ちょうど、あなたの背に花弁が落ちましたよ。」
番人は足を止め、太い首を捻った。フードの端から曲がった鼻が突き出した。
「これはこれは、ご親切にどうも。少し待っていただけますか。すぐに除きますから。」
番人は背中に手を回そうとした。袖から除いた腕は不気味に細長かった。彼は花弁の位置が判っているのか、迷いなく手を動かした。腕の関節を軋ませながら、あらゆる方法を試みた。しかし指はどうしても花弁を捕らえられなかった。
隣で三度目のあくびが鳴き、彼女の小さな顎が私に催促した。私は番人の山のような背の天辺から花弁を摘まみ取り、それから番人の前へと回り出て、わざと白い歯を見せつけながら花弁を差し出した。
「大丈夫ですか。ほら、取りましたよ。可愛らしい花弁だ。ここの植物は皆がそうだ。活き活きとしていて、色がある。」
今日一番の笑顔を作って言ったが、番人は私の努力には目もくれず、花弁だけを受け取ると掌に乗せて息を吹きかけた。吐息によって、花弁は少しずつ崩れ塵となった。
「いつもいつも、ありがとうございます。あなた様には助けられてばかりだ。お礼をしなければ。優しい従者様。」
番人は頭を下ろしきる直前に、私の引きつった顔に気づいた。
「・・・おっと、そうでした。今は特別にあなた様の方が偉いのでしたね。従者様は後ろのお嬢様のことでした。いけませんね。私としたことがとんだ失礼を。」
番人は穏やかに笑いながら、肩に担いでいた頭大の革袋を漁り始めた。
「さて、お礼は何を渡すべきだろうか。与えすぎては狩人に叱られる。しかし主様は喜ぶのだ。私の心も、麗らかな気で満ちるのだ。」
ぼそぼそと呟く番人の手が止まった。
「うむ、そうだ、白がいい。白の果実を与えましょう。この時期が最も汁気があり、砂糖の原料でもあるこれを贈りましょう。手を加えずに、果実のまま食べることができる者は幸運だ。あなた様方の口が、どうか末永く正しくあるように。さあ、新鮮なうちに採りなさい。」
番人は袋から白い果実を二つ取り出して足元に転がした。喉が渇いていた私たちはすぐさま果実を拾い、豪快に齧りついた。硬い純白の皮が割れ、内側から次から次へと果汁が溢れ出した。隣で咳が喚いた。私は無理をせず、時間をかけて果肉を飲んだ。腹の中で何かが沸き立つような感覚があったが、不思議と心地よいものであった。
「お味はいかがでしたか?」
番人の濁った茶色の目が、フードの下から私たちを見た。
「あ・・・。」
礼を言おうとして、ただの一音で言葉を止めた。語ろうとする口に、喉奥から底知れない違和感が伝わってきた。番人は顎を上げて首を傾げた。フードの先で隠されていた顔が見えそうだったが、彼の背で揺れる苗木と枯葉が私の視線を攫った。
「言葉も出ない、と言うことですかな?では、従者様に窺うとしましょう。」
番人の鼻が隣へ向かった。隣で歯が嚙み鳴らされた。彼女は顔を強張らせて不気味な笑みを伴っていた。しかしそんな見るに堪えない抵抗も空しく、彼女の喉は金切り声を上げて肺に空気を溜め込んでいた。見開かれた目が私に助けを求めたが既に遅く、ついにその口は解放された。
「最高に旨かった!甘いのなんの、舌がとろけるって、きっとこのことだ。お前たちだけで食べるには勿体ないくらいに旨い。ずるいぞ?なあ、そうだろう。こんなの毎日だって食べたいのに、全部が砂糖になる。砂糖は高くてなかなか手に入らないのに。苦労しているのに。運んでいるのは私たちなのに。おかしいだろ!なあ、もっとよこせ、よこせよお!」
彼女は力の限りに叫んだ。顔を前へと乗り出し、口から滝のように涎を垂れ流しながら。それから慌てて群青の瞳を泳がせ、歯を食い縛り、喉を鳴らし震わせた。
「何を言っているんだ?」
声は余分な感情とともに腹の底から吐き出された。私は思わず動揺したが、それも束の間、番人を確かめた。番人の肩は震えていた。番人が機嫌を損ねたと思って焦り、世辞を考えたが、喉の違和感の為に言葉にできなかった。冷や汗が首筋を伝った。あらゆる悲劇を想像したが、反して番人は高笑いした。彼の皴だらけの頬が伸び、青い舌先が照らされた。
「ハッハッハ。なに、いいのですよ。試すようなことをした私が悪いのです。白い果実は他の何よりも優れて甘いそうですが、舌に効くあまり、食べた者を正直にしてしまうようでして。本来ならば手を加えなくては、食べることは禁じられています。」
番人は再び革袋から白い果実を二つ取り出した。
「ですが、それは気を付ければよいだけの事。そうでしょう?失礼のお詫びにもう一つずつ差し上げます。是非、今度はおひとりの時にお食べください。其れと、良ければ後で砂糖もいかがですか?私はあなた様方のこれまでの苦労に報いたい。この春を頼ってくれたこと。そして春を善く語ってくれたことに感謝したい。」
私たちは黙って草葉に転がる白い果実を拾った。果実を革袋にしまいながら、喉の違和感が消えるまでは口を開くまいと決心した。
番人は辺りから枝を折り取って杖とし、先導を再開した。
「さて、森の道はまだ長く退屈ですが、あなた様方はしばらく話せなくなってしまった。ですから代わりに、この私が語りましょう。どうかご静聴ください。あれは確か三百程の夜の前、私は突然に歩くことは愚か、立ち上がることすらできなくなりました。それは私の背に巨木がなった所為で、あの寡黙な飼い主が私の背の芽吹きを黙っていたのが事の始まりでした。あの時、麗しき我が主様は・・・・・。」
番人は語り出した。私は耳を傾けながら、隣に視線を送った。
「(絶対に喋るんじゃないぞ。)」
彼女は頷き、両手で口を塞いだ。
春はいつも、遥か先の霞の裏に待つ一点の色の頃から、目鼻を通じて頭を侵し、まるで迫るようにして現れる。私がこの神秘的な感覚を共有しようとすると彼女は眉を顰め、番人はわざわざ、実は一々に私が早足になっているだけなのだと教えてくれるのだが、私は自らの感性を疑わなかった。断じて揺るぎなく、春とは、色と風の一吹きによって世界を切り開いて訪れるものなのだ。
「世界は開かれた。」
その一言の為に声を作ろうとしたが、声はただ野太くなるだけであった。
「その顔と変な言い回し、まだ治んないんすね。やっぱ最初に貰った青い果実が悪さしてるんじゃないかなあ。あれ以来っすよね。あー、キモイ。」
隣で少女が言った。彼女は左目で侮蔑的に私を睨んでおり、右目はその細い顎の下まで伸びた朱色の髪によって隠されていた。私はその髪型の意味を知っていた。彼女の右目は、ある人為的な奇病によって不能なのであった。
「さあ、どうだろう。その次に貰った青かもしれないし、前回にもらった紫かもしれない。今となってはそれぞれの効能を想像するしかないけれど・・・怖いな。私たちにハッキリと起こった変化は何があった?」
「アタシはかなり若返ったっすよね。」
少女は数本の前髪を摘まみ上げて言った。その艶やかな髪は指からすべって逃れ、流水ように垂れた。私は、ちょうど私の首の高さほどにある少女の鼻に目を落とした。染み一つなく、木目細かな美しい肌だった。
「なんすかその目。ヤバいって。仮にも一回りも年上の女に対して向ける目じゃあないわ・・・ねえ、本当に大丈夫すか?やっぱりもっかい番人に恩を売って、頭に効く果実を貰った方がいい気がする。じゃなきゃもう、アタシたちやっていけないっすよ。」
少女は八つ当たりのように握った木の枝を振り回し、あちこちの草花を叩いた。刺激された草花からは金に輝く粉が発生し、僅かな気流に乗って上空へと昇った。
「いや、違うんだ。ワタシはまだ慣れていなくて、あれだ。きっとお前も、お互いがそうなんだ。だってお前の口調も変だ。だからワタシたちには時間が必要で、なんたってそう、変わってしまったことは仕方がないから。さあ、他には?」
苦し紛れに弁明すると、少女は意地の悪い表情を浮かべ、私を上目で見つめた。
「んー、そうねぇ。」
少女は呟いて、突然、旅装束の襟の紐を解き始めた。開かれた襟の奥には、あどけない容姿に釣り合わぬ豊満な谷間があった。
「なぜか、若返ってから異様に胸がでかくなった。」
「んがっ!」
首の下から頭の先へと熱が登るのを感じた。熱を抑え込もうとして力任せに首を捻り、春の兆しに視線を投げた。目に飛び込んだのは程よい間隔で並ぶ木々と、過不足なく空けられた道を挟んで咲く色とりどりの草花たちだった。目を瞑って深呼吸し、道の先から届く仄かに甘い香りを吸い込んだ。春の風は私の身体の隅々を循環し、乱れた理性をあらゆる邪念から解き放ってくれようとした。
「ほんっとに、あんたはどうしようもなくキモくなったね。」
少女の冷たい言葉は春の気配に阻まれ、私の耳には届かなかった。
それからしばらくして広場に着くと番人が足を止めた。広場より外側は隙間ない一面の春であり、所々に見える家屋の内外ではいつにない活気が行き交っていた。番人は私たちに掌を示した。少女が歩み出て、彼に木の枝を手渡した。彼は木の枝を撫で回すと、感心して喜んだ。
「よく働いてくれたようですね。ありがたい。春は拡がる一方で、この頃は私ですら果てが見えません。それでも花を叩き、粉を廻すのは番人の仕事だろうと、飼い主は私を叱ります。苦労を知らぬ訳でもないのだから、一度でもあなた様方のように手伝ってくれたのなら、いくらか印象も変わるというのに。」
番人は木の枝を半分に折り、息を吹きかけた。彼は時折にそうして、役目を終えたものや無価値なものに呪いをかけて塵に還していた。
「さて、案内はここまでです。必要な物は三つ向こうの者に申し付け下さい。今日はどこも忙しいですから、いくらか時間がかかるかとは思いますが、どなたもあなた様方には多くを与えるでしょう。最後に砂糖と、この革袋をお持ちください。どちらもあなた様方への、私からの贈り物です。砂糖は是非、帰ってからお茶などと味わってください。革袋は中身を濡らさない優れものですから、この場で使っても良いでしょう。」
番人は腰から小さな葉包みを二つ取り、その中に角砂糖を一杯に入れると、折り畳まれた二つの革袋と合わせて私たちに与えた。
「多くの感謝を、この春の番人が代表して伝えます。本当にありがとうございました。どうか安らかでありますよう。それでは、さようなら。」
そう言って番人は頭を下げた。そして広場の少し先から四つに分岐した道の一つ、向かって左方向の、奥が赤い花で飾られた道へ入ろうとした。その道は名を、主への道と言った。
「待ってくれよ。」
少女が番人を呼び止めた。
「なんですかな。」
「果実はもう、くれないのか。例えば頭に効く果実とかさ。あるならあたし、欲しいんだ。」
少女は花園を見渡し、色の一つ一つに目を止めた。
「いいや、あるだろ。だってここには、こんなにたくさんの色が溢れているんだ。まだ食べてない色があるはずだよ。無い訳がない。」
少女の顎で涎が雫を作った。番人は微笑んだ。
「ええ、ええ。勿論、ありますとも。全ての色に相応しい果実がこの国にはある。ですが、必ずしも全てが食べられるものとは限らないのです。ですから、どうか夢を見ていてください。この国の万物が比類なく美しく、善いものであったと、そう、覚えていてください。あなたにとっても、私たちにとっても、それが最も幸福な事ですから。」
そう言い残し、番人は主への道を進んで行った。私は彼を見送った。その孤高なようで寂しげな後ろ姿に自分を重ねてしまい、孤独感に身震いした。少女が袖を引っ張った。応じないでいると今度は襟を掴まれ、強引に耳を引き寄せられた。
「なーんで黙ってるんすか。あんたがキモいまんまじゃあ、どんなに魅力的なお茶だって憂鬱に終わっちまう。いいんすか。別にアタシはあんたを置いて、噂の鐘の国とやらまで逃げる覚悟も準備もできてるんすよ。」
「鐘の国だなんて伝説の存在じゃあないか。途方もない、危険な旅路になるぞ。」
私の思考は妙に冷静で、加えて悲観で染まっていた。
「死んだら元も子もない。せっかく若返ったのに、勿体ない。」
「五月蠅いなあ。アタシは、アンタが来るまでは単身で外界を渡り歩いていたんだ。知識はあるし、恐れもない。それに何より自信がある。アタシはそこらの軍人よりも腕が立つはずだ。だから・・・うん、よし、決めた。この仕事が終わったら、アタシは鐘の国を探す旅に出る。あんたには構わない。精々、早く理解のある相方を見つけることっすね。」
少女はぶっきらぼうに言放つと私の耳を放し、番人から貰った砂糖を一つ口に含んだ。
私は少女の言葉のままに独りの未来を想像して戦慄した。新たな相方は空想にすら現れなかった。気力を失い揺れる視界に少女を収めると、いつになく少女が愛らしく映った。砂糖を舐める舌に押されて膨らむ柔らかな頬が、自然に綻ぶ口元が、誘惑的に湿った唇が。途端に心が温もりを帯び始め、温もりの端から理性が私に問いかけた。良くないのではないか。狂っているのではないか。だが、それでも、私には他に拠り所が無かった。
少女の肩を掴んだ。手に思わぬ力が籠ってしまったのか少女は悲鳴を上げ、砂糖を含んだ唾液を噴き出した。顔の広範囲に唾液を浴びたが、私はひるまなかった。
「なあ、聞いてほしい。ワタシたちは互いに身寄りがないだろう。でも今まで生きてきた。そして出会って、こうして相棒として働いている。気づいたんだ。これは運命だ。時々、奇跡なんじゃないかって思う。えっと・・・きっと。ワタシたちは二人で一つなんだ。一人じゃあ生きていけないし、生きていけたとしてもきっと、とても寂しい。だから、その、なんだろう。だから・・・。」
少女がどんな表情で私の告白を聞いていたのかは知らない。なぜなら私の目に少女の顔は映っていなかった。理由は誤魔化すまでもない。私は兎に角、彼女と目を合わせるのが恐ろしくて、代わりに少女の開けた胸元に視線を置いていた。でなければ目が勝手な意志を持って、ただひたすらに、その柔らかな谷間の陰の底を探求しようとしただけなのだ。悪気は無いし、邪なこともない。
「あと二年だけ待ってほしい。二年の後、ワタシが成人したら・・・その、一緒に住もう。確かに歳の差はあるけれど、今の容姿なら変わらないようなものだろう。気恥ずかしさはあるかもしれない。でも、気持ちが大事だ。案外にそれは容易いことかもしれない。ワタシは構わない。覚悟がある。断じて、ワタシは、だから!」
私は決め台詞を、告白の着地点を考えようとした。だがすぐに、自身の着地点を考えなければならなくなった。いつの間にか視界が一転し、重力さえ感じられなくなって、頭が地面に迫っていくのだ。見える。咲き誇る一凛の花が眼球に突き刺さろうとしているのが。しかしその姿は闇に囲われ、哀れにも霞んでいく。
「ああ、花よ。君を助ける術はあるだろうか・・・。」
とうとう世界が光を失くした。暗闇の中でも、刹那の左頬への衝撃と、音が途絶えた左耳の不快感だけはハッキリと残っていた。私は一体どうしたのか。私は一体、何をしていたのだったか。ああ、私は一体、どこまで落ちていこうとしているのか。
「・・・世界は開かれた。」
「もう一発かまそうか腐れカス野郎。」
少女の怒気で満ちた声とともに小石が投げつけられた。小石は額に跳ね返って左の隅まで転がった。私は内なる声で少女に反論した。事実なのだと。今確かに目覚めたのだと。
微睡のままに少女を論破する空想に耽ろうとした。だが空想の中の少女は、彼女が少女に戻るより前の姿をしていた。どうにもいたたまれなくなり、更には吐き気を催してしまい、重い身体を起こして窓を探した。春の香りに導かれて小さな窓から顔を出すと、外には華やかな紫色が広がっていた。いざ吐き出そうと喉をこじ開けたところで馬車が揺れ、私は荷台の端に投げ出された。幸いにも口からこぼれ出るものはなかったが、肩を強く打った痛みで醜く呻いた。
「ちょ、大丈夫っすか。ヤバかったら言ってもらわないと、治すならここにいるうちっすからね。・・・ちょっと、本当に大丈夫?アタシやりすぎた?」
少女が心配そうに、手を差し伸べようとしていた。しかし私が前触れなく起き上がると、逃げるようにして隅で丸まった。
「大丈夫、大丈夫だよ。・・・ところで、ここは飼い主への道かな。」
どうも左耳の聞こえが悪く、平衡感覚にも不調を感じていたが、平然を装った。
「ええ。今は飼い主への道の帰りっすね。」
「帰り?ワタシはそんなに長く眠っていたのか。」
「あー、ええ。まあ、そうっすね。」
少女は消え入りそうな声で答えながら、視線を浮かせて顎の下を掻いた。
「飼い主の所では何を?」
「えっと、あの後・・・あの後って言うのは、あんたが倒れた後の事で。立ち往生していたら偶々飼い主と会って。で、なんと飼い主がアタシたちを手伝ってくれたんすよ。あんたを背負ってくれたり、今乗ってる、この屋根付きの荷運び用の馬車まで呼んでくれたり。それに、番人の世話をしてくれた礼がしたいって言うから、さっきまで飼い主の家に招待されてて。お茶をいただいただけんすけど・・・。」
言いながら少女は傍らに置かれていたやけに大きな革袋を担ぎ上げた。
「ほら見て。これ、肉っすよ。飼い主が育てた肉。全部アタシらが食べていいんすよ。この澄んだ新鮮な血の匂い。もう、最高。今晩の飯が楽しみぃ。」
少女は革袋の口を広げ、肉が入っているのであろう、中の巨大な葉包みに頬擦りした。少女の唇から流れた涎が葉包みに垂れ落ちた。
「そっか。」
旅装束の襟を引っ張って鼻に寄せ、匂いを確かめた。慣れ親しんだ、土と煙の匂いがした。旅装束の前面に目を凝らしてみたが、飼い主の痕跡は見当たらなかった。
「飼い主か。会ってみたかったなあ。さぞ素晴らしい方だったろうに。」
「あ・・・。」
私の囁きを聞き、少女は言葉に迷った。少女は知っていた。私が春の飼い主や狩人に憧憬の念を抱いていたことを。
「えっと、飼い主は面白い感じじゃあなくて、物静かな人っすよ。すこーし料理が上手くて、気前が良くて。番人が言うような、頻繁に叱るような印象では無くて、物腰が柔らかい?・・・くて。すごく、いい方ですけれども・・・。」
少女は強張った声で説明した。言葉を探して開け放たれた口から涎が溢れた。
「・・・。」
「・・・・・。」
互いにかけるべき言葉が見つからず、私と少女は黙りこくった。
気まずい静寂から逃れるべく外の景色に意識を預けた。車輪が鳴き、小石が跳ね、風が吹き、草木がそよぐ。甘い温もりが鼻を掠め、春はまだそこにあるのだと知って安堵した。しかし春は永遠ではない。間もなく僅かに湿気を帯びた冷たい森の空気が度々に首や頬の横を過ぎるようになり、それは胸の温もりすらも攫おうとした。窓から乗り出し、遥か後方へ離れ行く花の一凛一凛を恋しく思った。とうとう春が去って森の道へと入ろうとした所で、森のどこかで煌々とした明かりが灯るのを見かけた。事を推測しようとしたが、答えに至るより先に深い新緑が視界を塞いでしまった。乱雑な枝が鼻を引っ掻かれて車内へと戻った。推測は早々に止めてしまった。なんせこの森では異常が常である。
いくらかの時間が経ち、軽い眠気を覚え始めた。一方の少女は退屈そうに小石を跳ねさせて遊んでいた。私は心の踏ん切りの為に砂糖を食そうとした。甘いものを食べ、甘い夢に会えれば気持ちも晴れるだろうと思った。膝で隅に寄り、そこにまとめられていた荷物の中から自分のものを分別した。分別する私を、遊ぶ手を止めた少女が鋭い目つきで監視していた。私は間違っても少女の私物には手を出さないように注意を払った。底に泥の色が染みた麻袋を慎重に手繰り寄せ、次に砂糖の葉包みを取り、最後に畳まれた革袋を取ろうとした。しかし、革袋はまるで荷台の床に張り付いたように動かなかった。不思議に思い陰に目を凝らせば、少女が革袋の端を掴んでいた。私は手を尽くして革袋を奪い取ろうとしたが、少女は巧みに対抗した。
「なんだよ。」
「それはこっちの台詞。」
「邪魔するんじゃない。ワタシの荷物を分別しているだけなのに。」
「いや。だってこれ、アタシの。」
少女が強引に革袋を引っ張ったが、私も対抗した。
「そんな馬鹿な。」
「馬鹿はあんた。証拠なら、裏側に飼い主に描いてもらった染料の印があるっすよ。お茶のついでに、お礼の一つとして頼んだのが。」
「・・・本当に?」
手ぶりで休戦を促すと少女は舌打ちしながらも革袋から手を離した。革袋を引き寄せて広げると、その裏側には確かに紫の印が刻まれていた。しぶしぶと革袋を畳み直す私を、少女はじっと不機嫌に睨みつけた。革袋を返すまで、ずっと睨んでいた。
引き続き隅の荷物の中から自分の革袋を探そうとした。するとそれを察した少女が先んじて彼女自身の荷物を抱え込んだ。その後には何も残っていなかった。念のため、隅の陰に手を這わせた。やはり何も残っておらず、冷や汗をかいた。
「ワタシの革袋はどこに?」
「知らない。どっかに置いて来ちゃったんじゃないっすか。」
「置いて来たって、そんな、ワタシは気絶していたんだぞ。なんてことを!」
頭を抱え、項垂れた。どうしたものかと記憶を辿り、気づいた。
「いや、待てよ。置いてきた場所は判るぞ。戻れば、まだあるかもしれない。」
「えぇ・・・でも、めんどくさくないっすか?」
「多少の面倒なんか問題じゃない。あの革袋にはとてつもない価値があるんだ。それに番人からの贈り物を無下にはしたくない。」
荷台の後方に備え付けられた両開きの扉を開けて腕を出し、外側に取り付けられたベルを手にした。ベルを三度ならすと馬は道を外れ、背の高い草を踏み倒しながら木々をかわして大きく回り、方向を百八十度変えて春の国へと戻った。
「馬車がもう一回借りれるかわかんないすよ。せっかくなんだから、楽に仕事終わらせないっすか?何ならアタシの革袋は共用ってことでもいいんで・・・。」
「いいや。駄目だ。あれが欲しい。あれでなきゃいけない。」
ベルが少女に使われないよう懐に隠し、荷台の隅に籠った。少女は涎を垂らして「いー」やら「うー」やら唸っていたが、突然に黙りこむと鼻をひくつかせ、窓の外を見ると動きを止めた。私は少女の行動を怪しんだが、すぐに異変に気づいた。窓から熱い空気が吹き込んできていた。たちまちに荷台の中が煙で満たされ、私と少女は咳込んだ。私は急いで荷台の扉を開けた。馬が鳴いて足を止めた折に私たちは馬車から飛び降り、春の国へと走った。走りながら、私たちはその惨状を目の当たりにした。
赤の花園の先、主への道のあたりで火が起こっていた。炎は木々を覆って山のように立ち、まるで巨大な生き物が毛を逆立てているようにも見えた。更には森までもが生きているかのようだった。木々は火を払おうとして身を撓らせ、草花は熱気を避けようとして地面に伏していた。
「ちょっと、なにぼーっとしてんすか。ただ事じゃないっすよ。春の国の火事なんか聞いたことがない。こんな、このままじゃ春の国が燃え尽きてしまう。そうなったらアタシたちの居場所がなくなっちまう。あたしらの国だってどうなるか。食料が無くなっちまうんだ。何とかしなきゃ。番人を探さなくちゃあ。」
少女は革袋に全ての荷物をまとめると、二つの指輪を取り出して一つを指にはめ、もう一つを私に放った。指輪は私の手の甲で跳ね、地に転がった。私は指輪を千鳥足で追いかけて拾った。紛い物、と銘を掘られたそれは、亡き宰相から賜った呪いの一品だった。
「無理だよ、あんなの。僕らじゃあどうしようもない。革袋なんかいらない。逃げようよ。馬車に乗って帰ろうよ・・・。」
恐怖で足が震えていた。遠くからでも伝わる熱気に、目を閉じたくなった。
「なんて様だ、あっけない。お兄さんごっこはお終いっすか?」
「・・・・。」
「いいさ。そんなことだろうとは思ってた。遊びじゃあ、自信は付いてこなかったね。アタシは一人で行くよ。できればその辺で馬車を守ってくれたらありがたいけど、別に帰ったって構わない。どうせアタシらは、この仕事が終わったら解散なんだからね。」
指輪を嵌められずにいる僕の肩を少女が軽く叩いた。そして少女は主への道を歩き出した。その勇敢な後ろ姿hs、恋い慕った彼女の面影を宿していた。
「待って、待ってよ!」
急いで指輪を嵌め、走って少女に追いついた。
「ごめんよ。やっぱり僕は駄目なんだ。僕は、人の真似しかできない。」
少女は足を止めず、振り向きもせず、そっと僕の肩に手を当てて押した。僕は手を、彼女の手の甲に重ねた。指が絡み合い、彼女の指は僕の指輪に触れると、確かめるように撫でた。
「真似ったって、今度は覚悟がいるよ。指輪でどうこうできるとは限らない。アタシや番人みたいに、あんたのあほらしい都合に付き合ってくれるような相手でもない。」
「いいよ。行きたいんだ。連れて行ってよ。」
「バーカ。面倒見る余裕はないよ。勝手に来な。」
進むほどに火花が降りかかり、煙が喉を焼いた。辺りから熱風が吹きつけ、ついには燃え崩れた木が倒れ、帰り道を失った。それでも不安はなかった。彼女といれば大丈夫だと信じて疑わなかった。しかし、次に立ち止まった時に見た彼女の顔は険しかった。その視線の先では倒木が重なって炎の壁を成していた。炎の中には蠢く何かがいて、僕らの様子を窺っているようだった。
「見るんじゃない。」
顔に手が押し当てられた。目を瞑った直後に手が離れ、熱気の塊が抜けていった。目を開けると彼女は姿勢を低く保つことを止めて立ち尽くしており、すぎに激しく咳込んで蹲った。僕はその背に寄り添おうとした。丸まった背に手を添えた時、側でけたたましい音がした。見れば巨木が傾いており、僕らに向かって倒れてきていた。
「姉さん、大丈夫だよ。僕はここにいるから。」
時間の経過がやけに遅く感じられた。想像もできない、巨木とその熱が到達する瞬間が恐ろしかった。僕は小さな背に覆いかぶさった。少女の下の土が赤黒く染まっていた。
「・・・後悔はしてないかい。」
彼女が囁いた。その掠れた声はどこか懐かしかった。
「うん。」
小さな返事は迫る轟音に飲まれた。力ない冷たい手が頭を撫でられ、場違いな眠気に誘われた。きっとこれは二度と覚めない眠りだと思う。でも、僕は・・・。
「一人じゃないよ。」
渦巻き荒れ狂う炎の真ん中に深い穴があった。穴の周囲には円形の小さな背の低い草原が残されており、その特殊な草らは炎の侵食を受けなかった。穴の傍らには二つがいた。春の国の主である春の乙女と、その僕である春の番人であった。
番人は目前の桜の木に向かって背を折り、空を支えるように両手を掲げ、首を垂れていた。
「全て飼い主が言い残した通りでした。火は予兆なく裏道から現れ、まず我らの逃げ道を奪った。もっと早くに伝えてくれていたのなら、我らも難を免れられたでしょうに。」
「いいえ、ガディノ。どうあれ私たちの運命は変わりません。」
乙女は番人の背の苗木に触れた。乙女に触れられた枝先からは大きな果実が生った。
「本当にそうでしょうか。火の権威は全てを呪う絶対の存在と聞き及んでいましたが、狩人が圧倒しているようではありませんか。時間をかければ、私たちは勝つことができるでしょう。権威を制し、春を永遠のものにできます。主様ならば、後に春の権威となることも可能です。この世界には主様を受け入れるだけの器があります。」
番人の訴えとともに背の苗木が揺れた。乙女は揺れる白い果実を弾いた。すると果実とその枝は小さな浅紅色の花で飾られた。
「いいえ、ガディノ。春の延命は容易いですが、成らぬ事です。ある支配者の毒牙に汚されたあの命の火は、私たちの尽きぬ春を糧として、際限なく呪われた生命を産み出します。歳月を費やせば、私たちは無事でも、人が絶えてしまいます。」
「・・・主様。」
番人は顔を上げ、主を探した。側にいたはずの乙女は数歩先の穴の手前に立ち、穴の底を満たす沼を見下ろしていた。
「だから、ガディノ。よく聞くのです。私は永らえてはなりません。春を終わらせなければなりません。それが私の為すべきこと。果たすべき宿命。」
「ですが。」
「安心なさい。伝えたように私の種はこの沼に宿り、次なる春の糧となります。ですからいつの日か、私が消えた後にも春は訪れるでしょう。来る春は吐息のように短いものかもしれません。綿毛のように小さなものかもしれません。それでも、春を後世に残すことができたなら、私たちは十分に報われる。そうでしょう?」
乙女が問いかけると同時に沼の底から銀の剣を絡めた根が伸び、番人の手に剣を預けた。番人は左手で柄をしっかりと握り、右の掌で幅の広い刃を支えた。
「勿論です、主様。最後までお慕いしております。例え主様が完全なる春の、その小さな欠片の存在であったとしても、主様が産み出した春は何よりも尊いものでした。」
「ええ、ガディノ。私もあなたを誇りに思います。あなたは私が遺した者らの中で最も穏やかで、最も春に近しい者でした。あなたはいつの日も、春を見続けていた。もし事を終えて生き延びたなら、次なる春を探しなさい。そして見つけたのなら、その地で春の主を継ぎなさい。再び狩人や飼い主らを呼び集め、豊かな国を築きなさい。」
番人は深く頭を降ろし、額を草原に押し付けた。
「おお、なんと。なんとありがたきお言葉。なんと誉れある使命。お任せください。きっと私が春を善く永く栄えさせましょう。」
番人は音もなく嗚咽を漏らした。零れ落ちた彼の涙を受けた草は急速に育ち、たちまちに枯れると塵となった。涙は更に土を濡らしたが、新たな命は芽吹かなかった。
「ええ、ガディノ。どうか頼みます。では、しばしのお別れです。」
そう告げて、乙女は沼に身を投じようとした。しかし乙女の足は動かなかった。その細い足首には、地面から伸びた蔦が何重にも巻き付いていた。
「・・・まさか、主様?」
番人は蔦に気づかぬまま、躊躇う乙女の後ろ姿に期待の眼差しを向けていた。彼は乙女の心変わりを信じていたが、乙女は首を横に振った。
「いいえ、ガディノ。違うのです・・・最後のお願いを聞いてくれますか?」
「ええ、なんなりと。」
「私の足を自由にしてください。彼らが私を縛るのです。どうか根を傷つけないように、あなたの腕ならば可能でしょう?」
「ええ。・・・お任せください。」
番人は乙女の願いに応えるべく立ち上がった。項垂れ、ふらふらと穴に近づいて屈み、柄を両手で固く握ると、乙女の足を締め付ける蔦に刃先を添えた。直後、彼の胸に大きな躊躇いが生まれた。その感情の根は純粋なものではなく、醜悪な、ヘドロのように腐りきった衝動だった。その実体を自覚した時、既に彼の両手は高く振り上げられていた。頬に跳ねる温もりと、手に残る感覚の正体を理解して、彼の表情は後悔と歓喜に歪んだ。剣は乙女の背を深く斬りつけていた。
番人は沼の底へと落下する乙女の残骸に目もくれず、恍惚な面持ちで濡れた刃を撫でた。
「ああ、主様。お許しください。もう口も心も動かないのでしょうが、それでもどうか願います。この私を、愚か者とは呼ばないでください。なにせ私は全て知っておりました。我らが生まれた意味を。主様と春の宿命を。」
番人は頭上へと真っすぐに剣を振った。粘液が飛び散り、その軌跡に従って草が生えた。草は炎を退け、彼が行く道を作った。
「私は一人でも抗いましょう。この美しき剣に、あの醜い炎を宿すなど考えられない。主様こそ!春こそが!剣によって永遠に保たれるべきなのです!」
番人は吠え、剣を背に乗せ、草の道を歩き出した。炎は道には及ばないものの絶えず彼の頭を焼こうとした。炎は激しく、彼の厚い皮膚が火傷を負ってしまうほどであった。道半ばで、彼は焼け野原に転がる二つの肉体を目にして立ち止り、咽び泣いた。肉体らは彼にとって主に次いで大切な存在であったが、それらは深刻な傷を負って虫の息であった。
「ああ、何と言うことだ。彼らのことは早急に馬車で送れと頼んだのに。飼い主め。お前は最後まで私たちの為には働かなかった。想うことはいつも家畜の事ばかり。運ばなければ。あなた様方が死んでしまっては、誰が春の最後を語るのか。」
番人は地面に剣をあずけて二人を背負って穴まで運び、沼に投げ落とした。
「どうか、あなた様方に春の加護があるように。」
番人は短く祈り、沈みゆく二人を見送った。それから早足で剣のもとへと戻った。すると、剣とともに彼を待つものがあった。それは春の狩人だった。番人は大変に喜び、焦げた茨を纏った狩人の肩を撫でた。
「おお、狩人よ。無事であったか。主様と春の為に尽くす者は今や私とあなただけだ。この日まで良く働いてくれた。・・・あとはこの私が片付ける。だから傷を負わぬうちに逃げるといい。あなたならば、どんな環境であろうとも生きるに苦しいことはないだろう。」
狩人は番人を一瞥もせず、地面から剣を抜いた。その刃を撫で、思うようであったが何も語らず、剣を番人に返すと風に乗って火の波を裂き、どこかへと去って行った。
番人は瞑想して剣先を天へと向け、斜めに傾けた剣身に額を寄せた。忍び寄る邪気を帯びた熱を感じると、折れ曲がっていた背を伸ばし、深紅が淀む瞳を剥いた。彼の目を染めた者は夥しい赤。春を貪る怪物だった。その体表では角と、翼と、鱗と、爪と、牙と、更に理解の及ばぬものまで、ありとあらゆるものが瞬く間に発生しては消滅した。意味の無い、終わりのない命の循環が絶えず繰り返されていた。
「私はお前を知っている。哀れな紛い物よ。私は決してお前に心を許さないが、寛容なる春の慈悲にかけて、無用に苦しませることはしない。」
剣は高く掲げられると輝き、番人の腕に鉄壁の蔦を絡ませた。
「さあ来い。呪われた火の権威よ。この春の番人が汝を滅ぼそう。」
春の国の消滅は風の噂によってたちまちに広まった。鐘の国は密かに春の主を追悼し、食料の大半を春に頼っていた橋の国は混乱に陥った。人の王は真実を確かめるべく、春の国に軍を派遣したが、やはり春の国はどこにも見つからなかった。それでも人らは噂を信じず、軍は長い歳月を徒労に費やすこととなったが、春の国の入り口にあたる森すら発見できなかった。だが軍は春の国に関係した重要人物である二人を救うことができた。風は乾き、土は焦げ、花の一凛も咲かぬ不毛の地。その中心にぽつんと空いた深い穴の底に彼らは並んで横たわっていた。彼らは春の生存者として称えられた。軍は彼らを国へと連れ帰り、手厚く介抱した。甲斐あって彼らは数日の後に目を覚ますこととなったが、その口から伝えられたのは絶望的な噂の真実であった。その後、橋の国は飢饉に襲われ、混迷を極めることとなった。
混迷の最中、そう長くせずして王は心労から病に伏し、間もなく息を引き取った。そして春の生存者らは続く王によって外界への追放を言い渡され、寄る辺ない身となった。
2
春の国の消滅から、七年後。
橋の国は大きな変化を遂げていた。国土は扇形に拡張され、三つの地区に分けられていた。一つ目は文化的な建造物が立ち並び、主に上流階級が住む国の中心地、中央区。二つ目は楕円状の岩壁の外側。一般階級民が生活し、盛んに商業が営まれる外商区。そして最後に外商区を囲う人気のない大通りの向こう側に、最も広く、地主とその奴隷や人目をはばかる者らが活動する農耕区があった。
日照りに恵まれたこの日、農耕区では会合があり、大変な賓客らが訪れていた。集ったのは鐘の国の代表者であり農耕に豊富な知識を持つティバ、未だ名の知れぬ橋の国の三代目の王と軍属の側近、そして黒のベールで顔を隠した王族の者と、その世話人らである。
農耕区の住人の多くにとって、会合は光栄且つ貴重な機会であったが、同時に厄介な存在でもあった。なぜなら賓客らは側近や世話人に至るまでが上流階級の生まれであり、例えば奴隷が彼らに水の一滴でも散らそうものなら、それだけで長い期限を牢に閉じ込められ、危険で過酷な労働を強いられることになるのだ。地主と奴隷の間には張り詰めた空気が漂っていた。誰もが口を噤み、たった一度の呼吸と、指先と足の運びの細部にまで注意を払っていた。だが彼らのただならぬ緊張はティバにだけは無用だった。彼の側を通る者、彼と語らう者は皆が穏やかな面持ちだった。
春亡き後、ティバは軍の遠征によって鐘の国とともに改めて発見され、以来、春の技術の伝来者として度々に橋の国へ招かれていた。小高い丘の家屋の影で椅子に座り静観に徹する王族らと異なり、ティバは奴隷らを率い、指示するだけでなく自ら農具を扱い、汗を流していた。賓客らの中には、そんなティバを低俗と呆れる者がいれば、当たり前のように高価な衣服を汚す彼の財の深さを推し量って感心する者もいた。当のティバは作業に集中し、自身を測ろうとする視線には気づかなかった。
作業は早朝に始まり、三度の休憩を挟んで夕刻まで行われた。家畜が鳴き出し、王の側近がベルを鳴らすや奴隷らは手を止め、書記を始めとして後始末に移行した。ティバもまた奴隷を呼び、余った苗を倉に運ぼうとした。すぐに応じたのは屈強な若い男と、ローブを纏いフードを深々と被った華奢な人物だった。その人物は両手と鼻から顎にかけての狭い範囲のみが露出されており、一見して性別は定かでなかったが、立ち振る舞いは女性らしかった。ティバは彼女に最も軽い苗の束を任せた。とはいえ、それは複数の苗を粘土で固めたもので、いくらかの水気もあり、重いことに変わりはなかった。そして彼女は見た目に違わず非力であった。彼女は数歩ばかりで苗の束を泥濘に落としてしまった。束は激しく泥水を散らし、大量の泥水は彼女の左を歩いていたティバの横顔に降りかかった。一部始終を見ていた王の側近の一人が顔を顰め、世話人の中から悲鳴が聞こえたが、奴隷は誰一人として不快を示さず、声を上げて笑う者さえいた。
ティバは驚いて暫し立ち尽くし、泥に膝を付いて苗をかき集めるローブの女を観察していたが、すぐに運搬を再開した。布を持った女がティバに駆け寄った。
「派手にやられたね、旦那。許しておくれよ。あいつ外から来た新入りなんだ。」
女は清潔な布でティバの横顔から泥を拭った。
「大丈夫。気にしてはいないよ。・・・そうか、外からか。だからか。」
農耕区の外、外界にも人は居住していた。彼らは基本的に罪人や異端など事情を持つ者が多く、その全容は国も把握していなかった。しかしごく少数に限り、純粋に隠居を望む者や、遠征隊の一員や、国土拡張に携わる技師などもいるらしかった。
ティバは納得したように不規則に二度、頷いた。それによって女の手がぶれ、彼の頬の泥が薄く広げられた。
「以前、世話人に注意されたんだ。俺は立場ある者だから、成り行きがどうであれ民によって損を被ることがあったなら、俺は民からの謝意を最後まで聞き届けなければならないと。そうでなければ、民は牢に入れられてしまうのだと。」
ティバは小指を立てて蔵の戸を開けた。そして奥の角へと向かった。
「その時のことも、本当にくだらないことだった。外商区で老父から薪を買おうとしたことがあったんだが、当時は通貨に不慣れで、過剰な金を払ってしまったらしい。五と五百の通貨を間違えたんだ。似てるだろう、あれ。それでだ。老父は目が悪く、素直で、俺を信じてしまった。勘違いしたまま誤った釣りを渡してしまって、それに世話人が気づいたんだ。急に世話人が大声をあげて目の荒い縄を振り回してさ。何事かと驚いた。訳が分からず帰ろうとしたんだが、世話人から逃れようとした老父が泣きついてきて、もう大騒ぎだ。」
ティバは蔵の角に苗を置くと、側に置かれていた椀で苗に水をまいた。
「そう言うことがあったからさ。今回は彼女が謝るのを待とうと思ったんだ。でもそんな様子はなかったし、苗もあったから、さっさと離れてしまった。きっと余所者が相手ならば、俺の対応は間違いではないんだろうね?」
蔵を出て、戸を閉めながらティバは訊ねた。女は溜息を吐いた。
「いやあ、そんなことはないよ。ルールはルールさ。でなくとも、あれが新入りだってことはあたしらしか知らないんだからね。」
女はティバの背後を指さした。そこではあのローブの女が王の側近に詰め寄られていた。
「ああ・・・そりゃあ、まあ、そうか。」
側近は剣を抜き、長たらしい条文を唱えていた。ティバは側近のもとへと走った。
「待ってくれ、その女を裁くことはしないでくれ。謝意を受ければいいのだろう。・・・ほら、さっさと簡単に謝ってしまえ。お前に泥を受けたのは俺だ。」
ティバは一声で側近の口を止めると、崩れた苗を泥から掬って傍らに重ね置くローブの女を強引に立たせ、彼女の細い鼻頭に訴えた。彼女は薄く唇を開いたが、声は出なかった。
「旦那。そいつ喋らないんだ。」
布を持った女がティバに耳打ちした。ティバは側近を確かめた。彼はまだ剣を納めてはおらず、その背後には縄を持った世話人が控えていた。
「困ったな。牢がどんな場所かは知らないが、決して良い場所ではないだろう。何かないか。どうにかして、せめてこいつの罪を軽くはできないのか。」
呟くティバに女が布を差し出し、視線と顎でローブの女を指した。ティバはその意図を理解した。布を受け取ると素早い手付きでローブの女のフードを取り払い、彼女の額に付着した汚れを綺麗に拭き取った。彼女は鮮やかな耳の中程までの青髪と、澄んだ緑の瞳を持っていた。彼女は呆然としていたが、風が髪を靡かせると途端にフードを被り直し、フードの端を両手でしっかりと掴んで離さなくなった。
「これで・・・いいだろうか。」
ティバは再び側近を確かめた。側近は剣を納め、ティバに近づいた。
「鐘の公。貴殿はこの者に情けをかけた。理由を窺っても?」
無表情の側近の肩越しに布の女が頷いていた。
「・・・あ、ああ。どうも、この女は外から来たらしい。それに青髪だ。察するに、あなたがたの目を恐れ、外界に逃げた女らの一人だろう。挙句には声を失ったんだ。同情しない訳にはいかない。」
そう言って、ティバは王に向いた。王は長い白髪の、死人のような目をした男である。
「王よ。四年前に魔女は見つかったのだろう。紛れもないあなたの功績だ。だが、同時に苦しめた女たちがいた。彼女はその一人だ。ならば国は、手を尽くして彼女らに詫びなければならないのではないだろうか。」
王は手すりに肘をつき、掌に頬を預けていた。
「・・・如何にも。」
王は瞬きとともに短く囁くと立ち、その長い衣が汚れることも厭わず泥に踏み込んだ。
「鐘の公。貴殿の徳は朕の称賛に値する。・・・さて女よ、よく帰ってきてくれた。朕らはお前を善くもてなすと約束しよう。しかし、如何な時も法と身分は厳粛でなければならない。故に鐘の公とお前の約定を以て放免とする。」
王は自身の左の掌の上にローブの女の手を、更にその上にティバの手を重ねた。その最中、ティバは彼女の腕に目を奪われた。袖が僅かに下り、肌と袖との隙間から赤い幾何学模様が覗いたのだ。
「女よ、名は?」
王に尋ねられたローブの女は焼け焦げた紙片を取り出し、ティバに見せた。滲んだ文字に目を凝らして読み上げた。
「エイメル?珍しい名だ。」
名を聞き届けた王がティバの手の甲を右手で掴むと、王とティバの間に側近が入り、側近は小瓶を開けて中の液体を王の右手の甲に垂らした。液体は蒸発するように煙を発して消えていった。その仄かな熱はティバの手にも伝わった。液体が消えると王は二人の手を解放し、椅子へと戻って座った。二人の前に髪の長い女の世話人が出てきて、告げた。
「では約定は以上となる。鐘の公には後に使いを送るとしよう。住処の知れぬ女は一度、中央区へと来てもらう。法所にて約定書の写しを渡した後、身分を改めねばならない。すぐに荷物をまとめるように。身分によっては、ここに住まずともよいのだから。」
世話人は手帳に何やら書き残すと、微動だにしないエイメルに笑みを向けた。
「荷物は?」
エイメルは首を横に振った。
「よろしい。」
世話人はエイメルの袖を引いて連れ、先行していた黒いベールの王族の列に加わった。
取り残されたティバはまず手を洗い、外商区への馬車を待とうとした所、向けられた王の鋭い眼光に気づき、王の前へと寄った。王は椅子に背を預け、唇を震わせていた。
「ティバよ、多くは語れぬ。しかし覚えておけ。この国には闇が潜んでいる。恐ろしい負の感情だ。謂わば怨恨に似た悪しきものが、お前の国に及ぼうとしている。鐘の国から、使者から離れるな。そしてできるならばもう二度と、ここへは来るな。」
王はそう言って、左の銀の瞳を輝かせた。同時に左目から黒ずんだ血が溢れ、王の頬を真っ黒に染めてしまった。
「王よ。俺はあなたを知らない。その情けの理由も分からない。」
「知らずともよい。私もお前を知らなかったのだから。だが、私は誰よりも世界を知っている。だから聞け。従え。農耕区は心配するな。お前の働きは十分だった。彼らは強く生きていける。」
荒い呼吸が車を連れ、王と側近らの姿は隠された。馬車が去るとその裏からは昇り掛けた月が顔を出した。立ち尽くすティバに、布を持った女が駆け寄った。女がティバの目尻に布を当てて、ティバは自身が涙を流していたことに気づいた。
変哲の無い夜が訪れたはずだった。だが、どうしてかティバの胸は騒いで止まなかった。
彼女は微睡を恐れていた。何もかもが不確かなうちに、全てが失われていくのではないかと怯えていた。空の心に残るのは底知れぬ形ばかりの願いと、中身の無い昔日の祈り。暗闇が名を呼ぶ。私ではない、もっと大事な名前と、かけがえのない誰か。足は追いつくようで水にすくわれる。悪夢も微睡みも一瞬の幻想なのだ。嗚呼、また、光が呼ぶ。
エイメル!
「エイメルさん。良かった、起きましたね。」
ふくよかな腹が視界を埋めていた。恰幅のいい女が側に立っていた。エイメルはその余分に時間をかけた瞬きと特徴的な長い睫毛によって、彼女が法所の受付の一人であることを思い出した。彼女は淡い色の小奇麗な装いで、胸元には名札を吊るしていた。名はナロクと言うようだった。
「待たせてしまってすみません。では早速ですけど、説明しますね。」
ナロクは椅子に座り、小さな机の上で腕程の太さの蝋を灯した。そこで初めて、エイメルは辺りが暗かったことに気づいた。ナロクは机に二枚の紙と鉄製のメダルを置いた。
「まず、これらの書類は証書です。二枚のうち一方は約定書、王の調印が押してあります。そしてもう一方は約定のお相手、ティバ様の身分を記すものです。使い道は多いですから、どうぞ大切にしてくださいね。」
ナロクは二枚の紙を重ねて折りたたみ、木製のピンで止めた。それから鉄製のメダルをエイメルへと押し、指さした。
「そしてあなたの身分なのですが、今日では判明しませんでした。少なくとも一般階級以下であり、過去に犯罪歴がないことは確認できています。引き続き調査し、後日、改めて伝えるようになります。メダルは目印です。今後、どちらにいるか聞いても?」
ナロクは手帳と筆を持ち、エイメルに尋ねた。エイメルは口を動かしたが、声は出さなかった。ナロクはハッとした。
「失礼しました。では、外商区なら右手を、農耕区なら左手を挙げてください。」
エイメルは一瞬、迷ってから左手を挙げた。
「何番地になりますか?」
エイメルは固まった。指はあやふやに伸びては曲がり、定まらなかった。
「えー・・・はい。わかりました。手を降ろして結構です。こちらで何とかしますので。」
そう言ってナロクは紙とメダルをまとめると、エイメルに渡した。
「以上になります。ご質問は?いえ、質問があれば右手を挙げてください。」
「・・・。」
「はい。では帰り道にはお気をつけて。ごきげんよう。」
エイメルは背後に付きまとうナロクに追い立てられるようにして三つの階段を下り切り、豪奢な飾りの長い廊下を、廊下の端に点々と立つ侍女に見送られながら渡った。そして二つの重い戸を越えた後にやっとのことで外へ出た。外では夜道にも関わらず、煌びやかな身なりの若い男たちが屯していた。男たちはエイメルの素顔を見て喜んだようだったが、彼女が握ったメダルの色に気づくと落胆して闇に駆け込んだ。整った大通りには他には何者もいなかったが、エイメルは人目を恥じてフードを深く被り、速足になった。
エイメルは表通りを一直線に進み門に行き着いた。門番は彼女を怪しんだが、書類が早速その効力を発揮した。門を越えた先の外商区は酷く入り組んでおり、慣れない地形ではあったが、彼女は行くべき方向と正しい道のりは判っていた。しかし彼女は気紛れに、次々に目に入った裏通りに入っていき、より人気のない奥地へと迷い込んだ。歩きながらフードの端を摘まみ、片耳を出した。三人の足音が聞こえた。足音らは一定の距離を保って尾行していた。そのうち一人減ったが、残る二人が尾行を止める様子はなかった。
エイメルは逃げ切ることを決めた。より複雑な地形へと入り、短い間隔で連続して道を変えた。そしてついに追手の視界から外れた時、彼女は走り出した。フードが捲れるのも厭わず、両手を大きく振った。棄てられた家畜の亡骸を越え、身を挟むような壁に肩を擦り、異臭を抜け、更に三つの裏道を曲がった後、彼女は立ち止まった。追手の足音はもう聞こえては来なかったが、行く手には人影が待っていた。人影は鋭く光を反射する何かを持っていた。エイメルは来た道を戻ろうとしたが、振り返ると二つの人影が並んで立ち、道を塞いでいた。彼らが揃った細い通路に、他に逃げ場は残されていなかった。
「・・・なに?」
エイメルの消え入るような弱弱しい囁きは誰にも届かないと思われたが、人影の一人が反応を示した。彼は隣と反対側の仲間に合図を送ると、片側に鋭利な針が備えられた鈍器を握った。舐めるような足音が近づいた。暗がりの中であったためすぐには分からなかったが、彼は非常に大きな身体をしていた。エイメルは足が竦んで地に腰を打ち、そのまま動けなくなった。彼はエイメルの目の前に立つと、躊躇いなく鈍器を振り下ろした。
3
群れる足音がエイメルを囲っていた。それらは牙を剥き、爪を研ぎ、獲物を吟味していた。音の一つが鋭い牙で肌を刺し、直後に飛びのいた。傷口からは赤い血が浮き、音たちはその匂いを警戒し、距離を置いた。そこに駆け寄る者があった。足音らは辺りの草木の陰に逃げて行った。
朱色の髪の女はエイメルの首に手を当て、瞼を開けた。それからエイメルを背負い、森の中へと帰っていた。音を立てぬ草を踏み、風に戦がぬ木々の中を抜けて。
目を覚ますと、そこは楽園であった。その広場は逞しい木々に囲まれた花園で、中心にも一本、立派な気が生り、暖かな風が流れ、柔らかな花たちが肌を撫でた。エイメルはまだ夢の中にあるのかと思い混乱したが、頭部には鈍い痛みが残っていた。ふと風とともに香ばしい香りがしてそちらを向くと、若く背の低い朱色の髪の女が鍋の中をかき混ぜていた。彼女は鍋から木べらを抜き、その表面から褐色の液体を指先に掬って舐めた。そして首を傾げ、側の枝に下げられた革袋から実を取った。刃物で実の皮を刻んで散りばめると、木べらを鍋に放って蓋をした。
「・・・・・。」
女はエイメルに気づいた。呆けたように口を開け、じーっとエイメルを下から上へと嘗め回すように観察した。それから右腕を挙げた。
「よっ!」
そう短く発して、脱力して垂れた手をひらひらと振った、それは彼女なりの気さくな挨拶であったが、エイメルにとってはただの発音に過ぎなかった。
「・・・よっ!」
再び女が言った。今度は幾らか力を籠め、訴えかけるような視線を投げた。
「あ・・・・・い・・・よっ?」
エイメルはおどおどと音を探し出して応答した。加えて手つきも真似すると、女は満面の笑みになった。
「気に入った!分かる奴だ。初めて良く分かる奴が来た!」
女は走って近くの小屋に入ると、小さな木桶と、薄茶色の綿のような植物らしいものを持ってきた。側の井戸から桶に水を汲んで綿を漬け、エイメルを立たせて服に手を付けた。女はエイメルのローブを剥ぎ、現れた生地の薄い妙に精巧な衣服を苦戦しながらもどうにか脱がせた。エイメルは一糸もまとわぬ姿になった。
「おいおい、冗談だろ。なんて身体だ、綺麗なもんだ。」
女はエイメルの身体に見惚れて眺め回したが、ふと魔が差して疑い、片方の乳房を握ろうとした。左の乳房に、正面から右の掌を当てて、まず三本の指がほぼ同時に肌に触れた。軽く力を籠めると程よい弾力が応え、想像を絶する温もりと柔らかさが指の腹を迎えた。女はみっともない悲鳴を上げた。頬を赤らめ、息を荒げていた。エイメルは恥じらう様子もなく、彼女を怪しむでもなく、過ぎる春の風を全身に受けていた。
「いいね!・・・あっと、その、落ち着いててさ!いやね、身体を綺麗にしてやろうと思ったんだ。本当にそれだけでさ。別にあんたの胸が気になったんじゃなくって・・。」
女は桶を持って綿を取り、エイメルの身体を擦った。顎の下や手足で固まった泥を溶かして流し、爪の間まで丁寧に洗った。それから桶の水を捨てて少しの水を汲み直し、そこに半透明の藍色の茎を数本入れてかき混ぜた。すると間もなく桶から泡が生じ、女は綿に泡を絡めてエイメルの髪に乗せた。泡は水気が多く、すぐに流れ落ちてエイメルの肩に伝ったが、女は繰り返しエイメルの髪に泡を乗せ、綿で髪を梳き、最後に新しい水で泡を流した。布でエイメルの身体と髪を拭き、衣服を着せようとしたが、どうしても脱がした時のようにはできなかった。見兼ねたエイメルは自ら服を着て、側で丸められていたローブを拾おうとしたが、女が先に拾った。
「ちょい。せっかく綺麗にしてやったのに、こんな汚れたのなんか着るなよ。あとで洗って返すからさ、まずは飯にしないか?腹減ったろ、な?」
女は桶の水を茎ごと雑に捨てた。空になった桶に綿をしまって小屋に片付けると、代わりに不格好な椀を二つ持ってきた。鍋を持ち上げて椀に液体を流し入れ、更に細切りにして干された平たい茎菜を添え、エイメルに渡した。
「えっと、これで掬って食べるんだ。」
エイメルは椀を受け取り、根菜を摘まんだ。そして褐色の液体をひかえめに掬い、根菜ごと齧った。根菜は歯切れがよく、液体は磨り潰した果肉が溶け込んで甘く、刻み散らされた木の実の皮は香辛料だった。一口を皮切りに、エイメルは黙々と手を進め、椀はあっという間に空になった。エイメルの唇周りが褐色で汚れており、それを見た女は不気味に笑った。その後、更に二杯を食し、鍋は空となった。女は大層に機嫌をよくし、エイメルをいたく気に入った。
エイメルは小石に腰かけ、日光浴をしていた。一方、女は洗ったローブを縄に垂れかけて乾かそうとしていた時だった。深い木々の奥で何かが鳴いた。エイメルは天へと昇り響く音の行方を探した。その傍らに女が来て、肩を突いた。
「くつろいでいるところ悪いんだが、ちょっと付いて来ておくれよ。あいつが呼んでるんだ。決して悪い所じゃあないし、悪い奴でもない。ただ少し、手間なだけだからさ。」
エイメルは女に片腕を抱かれて連れられ、緑の中を進んだ。道は途中で正面と右と左の三つに分岐した十字路になり、二人は左の、赤い花が特徴的な道に従った。
「この道は主への道って言うんだ。覚えておくといいよ。」
しばらく華やかな赤に包まれた、代わり映えのない風景が続いた。しかしある時から鳥の囀りが聞こえ始め、道幅が広くなり、木々の間から影たちが二人を覗くようになった。エイメルは影の正体を見定めようとしたが、それらは視線を敏感に察知して避けた。やがて二人は広い空間に辿り着いた。そこは足場が根で満たされていたが歩くに容易く、空が枝葉で覆われていたが不思議と明るかった。奥に生る大きな割れ目を抱える巨樹の前には錆び付いた鎧を纏う怪物が佇んでいた。
「よく来た。なんと、香草が香ると思えば、相応しい乙女が来た。きっと春の気紛れがあなたを誘ったに違いない。狩人よ、よく連れて来た。」
そう言って怪物は光の粒子を吐いた。光は蔦を為し、狩人の元まで届くと青い花を咲かせた。花は茎から絶たれ、朱色の髪の上に降りた。
「狩人だなんて、やめてくれよ。あたしはまだ慣れちゃいないんだ。」
狩人は視線を落とし、浮かない様子であった。
「いいや、それは謙遜だ。獣らは統治され、望ましい進化を遂げている。役目が全うされているからだ。狩人よ、あなたは正しい。」
狩人は諦めたように目を瞑り、一歩下がって後ろ手を組んだ。
「さて、乙女よ。教えよう。ここは春の国という。そして私は春の主だ。あなたの成り行きは知っている。可哀そうに、人の国から追い出されたのだろう。青髪の女はどうしてか皆がそうだ。あなたもそう、その一人。」
エイメルは春の主の言葉を理解しきれず、狩人に振り向いた。狩人は目が合うと浅く繰り返し頷いた。エイメルは春の主に向かって浅く頷いた。
「うむ。よしよし。では、だ。私たちがあなたの為にできることはいくつかある。例えば多くの女たちのように離れの小さな村に匿うこと。或いは少数の者らのように、定期的に果実や水を提供するだけに留めて自由を支えることも。それかごく一部の者のように、覚めぬ春の夢を与えることもできる。」
「こいつは!」
狩人が大声を発した。宥めるように、春の主は掌を向けた。
「わかっている。それは何か特別なのだろう。」
春の主は剣を鳴らした。
「乙女よ。私は是非ともあなたを春の使者として迎えたい。そこの狩人のように春を住処とし、春の繁栄の為に働いてもらいたい。どうだろうか。」
エイメルはやはり春の主の言葉を飲み込めず、狩人に確認した。狩人はじっとして緊張を表していた。エイメルは結局どうしていいか分からず、とりあえず頷くこととした。それが彼女にできうる、最善のコミュニケーションだった。するとあちらこちらで喜びともとれる多様な鳴き声が上がり、どこからか小さな薄紅色の花が下ってきて、エイメルの頭を飾った。
「ああ、よかった。私はずっとあなたのような人を求めていた。あなたにはどこか、愛しき春の面影が見えていたから。歓迎しなければ。名は何としよう。」
春の主は考え、一つ思いついた。
「そうだ。春の飼い主としよう。飼い主よ。あなたは花や木や、日照りや風さえも、この春を象徴し得る全てを飼い慣らすのだ。その為に、春の吐息を授けよう。」
春の主は光の粒子の塊を吐き出した。粒子は激しい風に巻かれ、エイメルを包んだ。エイメルがその一部を飲み込むと粒子は光を失い、風は静けさを戻した。
「肺は春で満ちた。これよりあなたの息は、春の息吹となって植物を芽吹かせる。善く使ってほしい。この春の為に、尽くして働いておくれ。」
そう言った春の主の姿が、エイメルから段々と遠ざかった。不思議に思ったエイメルは見回して、足元の根が動いていることに気づいた。根によって二人は緩やかに十字路まで運ばれ、同時に、二人の目の前で主への道は蔦の壁によって塞がれた。
「良かったなあ、あんた。村もいいところだけどさ、ここも十分に快適だし、毎日あたしが作った飯を食べれるぞ。」
狩人は途端に馴れ馴れしくなり、エイメルの髪を触ったり、首に抱き着いたりした。
「でも、春の飼い主って何するんだろうな?あたしは最初に説明があったんだけど、あんたにはなかっただろ?名前を与えて何も無しってことはないと思うんだけどなあ。」
言いながら狩人は腰から短い刃物を抜いて回し、巧みに扱って見せた。
「・・・そうだ。飼い主の仕事は飼い主に聞けばいい。なあ、いいとこに連れてってやるよ。行けば分かる。兎に角いいとこなんだ。いいか。主には内緒だぜ、怒るから。あいつ頑固だからさあ。ずうっと許そうとしないんだ。」
狩人はエイメルの手を引き、右の紫の花が目立つ道を進んだ。その道の花は半数が枯れており、残りの半数は咲きながらも十分な花弁を備えていなかった。道の先には小さな廃屋があった。廃屋の中は埃だらけで、欠けた食器が重ねられた正方形の机が一つと、その側に六つの椅子が置かれていた。椅子にはそれぞれ色の異なる布がかけられていた。狩人は埃と藁の塊を蹴りながら奥へと進み、取っ手の無い扉の前に立つとノックした。すると戸が開き、煙とともに草と肉の焼ける匂いが流れ込んできた。二人は煙に飛び込んだ。視界が通らない程の濃い煙が充満していたが、煙は湿気を帯びて喉に良く、匂いに反して霧のような肌触りであった。
「そう支障はないけど、あんまり深く吸い込むなよ。この煙は主除けの香でさ。番人が駄目らしいから、あんたもどうかわからない。ちょっとの辛抱だから、頑張ってくれよ。まあ、もし倒れたら運んでやるけどさ。」
エイメルは狩人の小さな肩を見て疑った。身長から既に頭二つもの差がある少女に、それだけの力があるとは思えなかった。しかし肩に触れてみると、骨の上に頼もしい肉感が重なっていた。
やがてまた扉に合い、抜けると、その先には見渡せる広大な緑が広がっていた。
「ここは飼い主の領地。春の国とは違う場所。でも綺麗だろ?」
春と比較すると控えめで素朴な風景ではあったが、満ちる色は自然的でまとまりがあった。群れる四足の家畜の傍らに一人が立っていた。彼は来客に気づくと、木の枝で辺りの草を叩きながら歩いてきた。
「よっ、飼い主。新入り連れて来た。・・・あれ、髪、どうした?」
飼い主と呼ばれた彼は艶やかな灰色の長髪を首の後ろで結んでいた。
「ガディノに色を抜かれてしまったんだ。昔のことだけどね。」
飼い主は静かな声をしていたが、その容姿は女性らしくもあった。
「へー、酷いね。・・・でも悪くないじゃん。その髪、あたしは好きだよ。」
狩人は飼い主を追い越しながら彼の髪の毛の先を撫で、奥の小屋へと向かった。
「僕は嫌だな。染料ができたらまた染めるよ。」
答えながら、飼い主はエイメルを手招いた。
「君もおいで。」
三人は小屋へと入った。小屋の内装は先程の廃屋と似ていたが、整っていた。狩人は慣れた手付きで茶を煎れ、当然のように天井に吊るされた干し肉を切り分け、木の皿に並べた。そこに、小さな壺から透き通った黄色味のある粘液を垂らし、机の中心に置いた。
「さ、お祝いだ。食べなよ。これ、とってもうまいんだ。」
狩人はそう言ってエイメルに肉の一切れを持たせ、自身は二切れを飲み込んだ。飼い主は狩人の勝手を気にしていないようで、エイメルの反応を待っていた。エイメルは肉を齧ったが硬く嚙み切れず、強引に飲み込もうとして咽た。狩人は見兼ねてエイメルから肉を取り上げると、細かく切って小皿に乗せた。エイメルは肉片を口に入れ、咀嚼した。
「この辺の生まれじゃないんだろうね。」
飼い主は呟き、茶を啜った。
「どうだろ。あたしの飯は食べたし、肉が苦手なんじゃあないか?」
「いいや。そうでもないようだよ。」
エイメルは夢中で肉を頬張っていた。飲み込むまでが遅いために頬が渋滞していた。
「ところで、彼女はどんな名を受けたんだい。見た所、空席の騎士は務まらなさそうだけれど。それに器用な訳でもなさそうだ。」
飼い主はエイメルの口の端から零れる肉片を見送った。そして上から下へ視線を下ろし、彼女の華奢な身体をなぞった。
「それが、春の飼い主だってさ。」
狩人が答えると、飼い主は意外そうな顔をした。
「でも何の役目も与えられなかったんだ。おかしいよな。あんたなら何か分るかなあと思って連れて来たんだけど・・・。」
狩人はまた一つ、肉を飲み込んだ。
「僕はてっきり、新入りを口実に肉を食べに来ただけかと思っていたよ。」
「いや、本当だって。肉は・・・新入りにも食べて欲しくてさ。それに、さ。わかるだろ。あたしが不安な理由。」
「いいや、分からないよ。」
飼い主は狩人を突き放し、エイメルに向いた。
「安心しなよ。たぶん君は何もしなくていい。飼い主は命を管理するのが仕事だ。でも、春は勝手だろう。それに向こうじゃもう、棒を振って粉を廻す必要はない。役目は何一つとして残ってはいないよ。」
「ああ。」
女はだらしなく鳴いた。
「確かにそうだ。昔と違って、粉を廻す手伝いをしなくなった。」
「うん。だから、不安になることはないよ。きっと彼女はガディノに気に入られたんだ。春の中で生きてくれさえすれば、それでいいんじゃないかな。」
そう言って、飼い主は茶を飲み干した。
「へー。やっぱよく知ってるんだなあ、飼い主様は。」
狩人は最後の肉を喉に放り込んだ。
「じゃあさ、あたしの仕事を手伝わせてもいいのかな?」
「いいんじゃないかな。最近の君は特に大変そうだしね。」
「だよな!」
狩人は椅子から立って、干し肉を二つ取った。そして飼い主に小さな皮袋を渡すと同様の素材の空の袋を近くの棚から取り、エイメルを引き連れて扉に手を掛けた。飼い主は狩人がぶら下げる二つの干し肉をまじまじと見ていた。
「二つも持っていくのかい?」
「こいつの分もだよ。いいだろ。今回の種は質がいいんだ。」
飼い主は皮袋を開けた。中には大粒の黒色の種がぎっしりと詰め込まれていた。
「本当だ。いい身をしている。」
「だろ?じゃあ、そのうち来るよ。またな。」
二人は家畜の群れと飼い主の道を抜け、十字路を通りすぎた。主への道はまだ塞がれていた。更に広場を抜けて森に着くと狩人は道を外れて森へと入り、エイメルは道に立ち狩人を待った。そう絶たぬうちに四つの叫び声が聞こえ、狩人は手に血まみれの得体の知れない生き物の死体を持って来た。狩人は懐から折り畳まれた革袋を取り出し、エイメルに渡して広げさせた。狩人の手は血まみれだったが、革袋は血によって汚れなかった。
「ちゃんと広げておけよ。」
狩人は袋の上で、一つずつ死体の血を絞り始めた。死体にはどれも同じような大きさの穴が開けられており、血は穴からとめどなく流れ出た。
「やっぱ手伝ってもらうと楽だなあ。これ一人でやると大変なんだ。袋の口を止めれるものがないし、森でやろうものなら、絞る前に死体を盗まれちまうし。」
狩人は血を絞り終えると、エイメルに袋の口を縛るように言った。そして死体を担ぐと森に入って行った。
「見えないけど、聞こえるだろ。こいつらは昔からこの森に住み着いていたらしいんだけどさ。食欲がとんでもなくて、共食いしては森を汚すんだ。それを主が嫌がって、共食いしないように定期的に餌をやることにしたんだ。こうして餌を狩って与えるのがあたし、狩人の役目。面白くないし、面倒くさいんだけどな。」
死体が投げ入れられると何かが群がり、肉を貪った。彼らの一部が光に照らされ、到底、生き物とは思えない、あまりにも醜いその容姿が顕わになった。
「主が言うにはさ。歳月を経ればこいつらもまともになるらしい。家畜とか。運が良ければ意思の疎通とかもできるようなるんだって。信じられないよな。正直、馬鹿々々しいくらいだ。こんな気色悪い奴らなんか、さっさと殺させてくれたらいいのに。」
そう言って狩人は日が暮れようとする空を見上げた。
二人は狩人の拠点である小屋へと帰るべく歩いていた。森を離れ、春へと近づくと、不思議にも空は段々と明るくなっていった。エイメルはその異常に気づいて空を眺めた。
「そっか。あんた、ここに来てからまだ一日も経ってないもんな。春の国はさ、ずっと朝なんだ。いつだってお天道様は同じ位置にあるし、草は露を乗せてる。夜を迎えるには森の先まで行かなきゃあならない。おかしなとこだろ?」
狩人はけらけらと笑った。
「でも大丈夫。すぐに慣れるさ。暗がりが欲しけりゃあたしの小屋に籠っていればいいし、昼寝に最適な木陰がどこにでもある。飯もうまいし、水もきれいだ。まるで楽園だろ。なあ、ずっとここにいてくれるよな?」
狩人は横からエイメルの肩に手を回した。
エイメルは沸き起こる感情の形がわからなかった。それでも、その左手は自然と、狩人の肩に乗せられていた。
二人は森の叫びで飛び起きた。狩人はエイメルに急いで身支度をするように告げ、足早に外へ出た。小屋を出ると春の国は夜を迎えており、鋭利な光が浮いていた。
「あー、えっと、実は夜も来るには来るんだ。たまにな・・・。」
二人は十字路へ行った。主への道が開かれており、その先からはうめき声が聞こえていた。二人は長い長い一本道を、毒々しい色気の花と様々な悲痛の絶叫に囲まれながら進んだ。辿り着いた広い空間は草木が枯れ、どこかしこで燃え移らない火花が散っていた。中心の小高い場所で、剣が飛び出した茨の塊と、その側に立つ短髪の男が歪んだ光によって照らされていた。
「主だよ、あれ。」
狩人は茨の塊を指さした。
「悪夢を見てるんだ。魘されて、挙句には春まで乱しちまう。最近は多くてさ。放っとくとヤバいんだ。だからこれもあたしらの役目。」
二人が近づくと、男が振り向いた。
「やあ、狩人。それと飼い主。主様から噂は聞いていた。私は春の番人だ。おもに主様の側近として働いている。今夜は飼い主も護るのか。」
「いいや、新入りだから、まだ。見学だけはさせておこうと思って。」
女の口調は少し落ち込んでいた。顔を下げたまま、番人を見ようとはしなかった。
「わかった。」
番人はあっさりと答えると、狩人に白い皮の鞭のようなものを渡した。狩人はエイメルを連れて主の側に立った。
「これは前の主の亡骸から生えた木の根なんだ。見ろよ、こいつがさ」
狩人が根について説明しようとした時、森のあちこちから火が起こった。火はあらゆる形に変化しながら地を這い、風を飲んで巨大化し、エイメルらに迫った。番人と女は炎に向かって鞭を振るった。すると炎は砕かれて退けられ、再び形を持って迫って来ては鞭を受けた。弾けた炎の一部が飛び交い、エイメルは逃れようとしたが、狩人が腕を掴んで引き留めた。炎はエイメルの剥き出しの腕を直撃したが、熱くはなく、焼けることもなかった。そうこうしている内に炎は一帯を包み、中央には炎の球体が浮かんだ。視界は赤の一色になってしまったが、番人と狩人は黙々と鞭を振って炎を払うばかりで、逃げる素振りを見せなかった。
「もういいぞ。」
番人がぼそりと言うと、狩人は鞭を振る手を止めた。突然、炎の球体が断ち切られ始めた。よくみれば、風のように素早い朧な人影が炎の中を飛び回っていた。
「あれは、あたしの前の狩人だよ。主の夢の姿だから、本物じゃあないんだけど。」
三人は狩人の闘いを見届けた。炎は狩人をとらえきれずにいたが、狩人の猛攻は炎をじわじわと削り立った。ついに炎の勢いが弱まった時、背後で物音がした。見れば主を覆っていた茨が朽ち果て、主が立ちあがろうとしていた。主は叫ぶと炎目掛けて剣を投じた。地に突き刺さった剣は輝き、光が波打って炎を打ち消し、その後には春の朝が広がった。残った狩人が剣を抜き、主へと運んできた。主の手に剣が預けられると狩人は塵となって消え、後には主へ伸びる逞しい蔦と、膝を付いて静かな息を立てる主だけが残っていた。
エイメルは理解が追い付かず、きょとんとしていた。女がその頭を撫でた。
「うん、わかる。意味不明だよな。あたしらもイマイチわかってないんだ。兎に角、主がたまにおかしくなって火が出てくるから、枝を使って主を護ればいい。それだけだよ。あたしか番人がいないときに手伝ってもらうから覚えといてよ。じゃ、帰ろうぜ。」
狩人は番人に根を返し、立ち去ろうとしたが、番人が制した。
「待ってくれ、話がある。」
「・・・。」
三人は狩人の小屋へと移動した。椅子にはエイメルと狩人が座り、番人は立っていた。エイメルが自主的に三人分の茶を煎れ、干し肉を切り分けたのだったが、狩人は嫌な顔をしていた。
「で、話ってなんだよ。」
狩人が肉を噛みながら切り出した。番人は肉に手を付けず茶碗を持っていた。
「主様の悪夢を解決したいんだ。」
「またそれかよ。」
狩人は余分に肉に液体をかけて丸ごと飲み込んだ。
「あたしは手伝わないって言ったろ。」
「うん。わかってる。だから、ひとつだけ頼みたいんだ。」
番人は茶を飲んだ。
「飼い主に会わせて欲しい。」
「いやだ。」
狩人は、今度は二つまとめて肉を喰い、続けて肉を取ろうとしたが、皿は空だった。
「あんたは会わせられない。」
「春の為なんだ。」
「飼い主がどうして隠れるようになったのか忘れた訳じゃないだろ。」
狩人の目がようやく番人に向いた。
「だが、あの炎の正体が主の悪夢だと教えてくれたのは飼い主だ。飼い主なら主様を救えるかもしれない。」
「なんで飼い主があんなやつのために働かなきゃならないんだ。」
「・・・それは、だから。春の為に。」
「飼い主を荒れ地に追放したのは主だろ。」
狩人は立ち上がり、玄関を開いた。
「帰ってくれよ。」
「・・・・・。」
「早く帰れよ。あたしたち、お互い暇じゃないだろ。春の為に働かなきゃならないんだ。でも、あたしが尽くすのはあの臆病な主の為じゃない。あたしらを生き延びさせてくれた春の乙女の為だ。主を助けたきゃ、勝手に助けな。」
番人は重い溜息を吐いた。茶を飲み干して出ていこうとして、外へと一歩踏み込んだところで立ち止まった。
「僕らは変わってしまったね、姉さん。」
そう言い残し、番人は去っていた。狩人は戸を閉めようとはせず、番人の背が消えてもまだ、ずっと外を見ていた。外から流れる春の風によってエイメルが微睡に誘われた時、狩人の指が玄関でリズムを刻んだ。
「なあ、眠そうなとこ悪いんだけどさ。ちょっと付き合ってくれよ。」
耳だけあればいい。そうぶっきらぼうに伝えて、狩人はエイメルを外へと連れ出した。小屋の裏に回り、樹林を走り抜けると広場よりも小さな花園があった。二人は花園の真ん中で並んで寝転んだ。エイメルは精一杯の背伸びをした。
「あたしとあいつってさ。けっこう付き合い長いんだ。お互いが、狩人と番人になる前から一緒に仕事しててさ。その時は橋の国からここへ来て、行商で食ってたんだ。まあ、仕事は運び屋って面の方が強かったけどさ。」
エイメルは耳を傾けながら目を閉じた。
「・・・あいつ、番人になってからすっかり変わっちまった。いつもいつも主に付きっきりで、春の事ばかり。ひとりよがりになってさ。あいつ昔は気弱で、まともな自分も持ってなかったのに。」
エイメルは規則正しく、静かな息を立てていた。
「もう寝ちまったか?喋んねえから、分かりづらいな。」
狩人はエイメルの首に悪戯した。エイメルはふっと、息を漏らした。狩人はおかしくなって、また二度、三度と悪戯を仕掛けると、エイメルは笑い声をあげた。
「ヘヘッ・・・なあ、ここっていい所だろ。たぶん、他にこんなところはないんだ。世界で一番にいい所なんだ。だからあいつの、春を守りたいって気持ちは分かる。でも、あたしには今の主が理解できない。飼い主を除け者にして、閉じこもって、悪夢の度に春を荒らす主が。あいつのためってのが、あたしにはわからないんだ。別にさ、飼い主が春を継いでも良かったはずなのに。何なんだろうな。」
しんみりと時は流れた。狩人は次の話を考えるうちに、浅い眠りの波間に揉まれた。覚醒を繰り返す内に狩人は意を決して跳ね起き、木陰に咲く細長い紫の花を摘み取ると、その花托を取り除いて、花弁の根元をエイメルの唇に挟み込んだ。
「吸ってみてよ。」
花弁を吸うエイメルの舌の上に甘い蜜が垂れた。エイメルはその味が気に入って、空になった花弁を吸い続けたが、直後に眩暈に襲われ、涙を流して花を噴出した。
「アハハ。キクだろ、アハハは。よかった。人もキクんだな。」
女も蜜を吸って、頭をふらふらと揺らした。
「慣れりゃ甘いんだ。慣れることができればだけどな。」
エイメルは暫く酔いから抜け出せず、狩人に抱えられて小屋に運ばれた。その後、狩人はどこかへと出かけ、エイメルは玄関が閉じる音を最後に、深い眠りについた。
「主様。」
番人は狩人と別れた後に主の元へと戻り、未だ眠り続ける主に付き添っていた。番人の呼びかけは、主の耳には届いていないようだった。主は悪夢の名残に怯えていた。今回はそれが一段と長かった。
「私は、主様の弱さを知っている。その孤独と痛みを知っている。私は乗り越えたはずだ。それなのに、私では主様を助けられないのだろうか。」
番人は白い鞭を解き、主の首にかけた。そうすると主はよく落ち着くのだった。
「春よ・・・。」
主はぼそりと、寝言を呟いた。番人は耳を寄せた。
「私をお許しください。私を助けてください。ああ、どうして、どうして・・・。」
主の寝言はそこで途絶え、眠りはいくらか安らかになった。
「主様。」
番人は主の巨体を支える剣を撫でた。指は錆びのような物質に引っかかって止まった。
「本当に主様は、その手で炎を退けたのですか。」
エイメルと狩人が一緒に暮らし始めて七日が経った。その間にも十二回の悪夢が春に訪れ、二人は忙しない日々を送っていた。それでも狩人は日常を楽しんでいた。エイメルという通じる仲間が、彼女の生活を満ち足りたものにしていた。
この日、二人は食料を詰め込んだ大きな籠を背負って春の国を発ち、夕刻の森の中、道なき道を歩いていた。六十日に一度の、青髪の女を匿う村への食料配達の役目であった。二人は十分に備えた。厚手のローブを着て、余分に大きなフードを被った。あまりの暑さにエイメルは途中でフードを脱いだが、狩人は最後までそのままだった。
道のりは険しくはないが長く、半日を要した。森の所々では獣たちが犇めいていた。春の国から遠く離れた森に生息する獣の多くは狩人の管轄外であり、襲ってくる危険もあったが、獣の数自体は目に見えて減っていき、最後にはいなくなった。
狩人はエイメルの、汗塗れの髪に触れた。
「大丈夫か。ずいぶん汚れちゃったな。村に突いたら綺麗にしような。」
そう言ってから、女は背負った籠を揺らした。籠に積まれた革袋の上に、分かりやすく乗せられていた綿が転がった。
「見えるか?実はさ、あんたの分の綿を飼い主に頼んでて、それがやっと届いたんだ。だから今日はあんたがあたしの髪を洗ってくれよ。いいよな、約束だ。」
しばらくして畔道が現れ、印象的な花の印が刻まれた看板と出会った。村は看板を越えてすぐにあった。家屋が点々と並び、その側では青髪の女が洗いものや農耕に勤めていた。村人の一人が狩人に気づき、何やら大声で言った。すると至る所から十数人が湧いて出て、二人に群がった。驚くエイメルの背から籠が奪い取られ、その頬に触れる手があった。傷だらけで小指の無い、細く頼りない腕だった。
「この子、新入り?」
狩人の目の前に立っていた、儚い白い目をした女が言った。背が高い彼女は、屈んでエイメルの胸元に鼻を寄せた。
「ああ、そうだよ。」
狩人が答えると、エイメルに声が群がった。
「かわいい娘だね。」「綺麗な髪だ。」「得意なことはある?」
声らはエイメルを取り合った。そこに狩人が割って入った。
「あー、待った待った。新入りって、違うんだ。ここに住むんじゃなくて、あたしらの仲間でさ。春の主に選ばれたんだよ。これから、みんなの為に働いてくれるんだ。」
狩人が声を張ると声らは退いて輪を作ったが、白い目の女だけは変わらぬ位置にいた。
「そう。じゃあ、手厚く歓迎しないとね。泊って行くんでしょう?」
「勿論。夜の森は危ないしね。」
「今日はどうするの?ごはん、お風呂、それとも?」
「まずは風呂だな。」
村には木の屋根と壁が設けられた石造りの浴場があった五、六人は入れるであろう広さの風呂にエイメルは肩までつかり足を伸ばしきっていたが、背が低い狩人は顎を浸し、側に積み固められた石に腕を乗せていた。
「こういうの、経験あるか?」
「・・・。」
「風呂っていうんだ。いいだろ。下で大きな火を熾して、水を沸かして作るんだ。向こうじゃみんな嫌がって碌に火を使えないから、ここだけの楽しみなんだ。役得だよなあ。」
狩人は湯から出て、側に置いていた桶の中を漁った。紫の花を取り出してエイメルに勧めたが、拒まれた。代わりに綿を渡した。
「髪、洗ってくれよ。」
エイメルは慣れた手付きで泡を作り、狩人の髪に乗せた。エイメルの腕は良く、泡は髪に良く絡んだ。泡の表面に朱色が浮かんだ。綿が頭皮を擦ると、女は心地よさそうに息を吐き、身震いさえした。
「あんた、めちゃくちゃ上手くなったな。春にもすぐに馴染んだし、器用なんだな。」
抜けた毛の一本が狩人の顔を伝って流れた。狩人はそれを胸元で捕まえた。
「なあ、あたしの髪ってつまらないだろ。そこら中にありふれた花みたいな色で、特別に綺麗なわけでもなくてさ。泡や油で手入れしたってほつれちまうんだ。あたしも、あんたみたいな髪が良かったなあ。青色で、透き通るみたいでさ。」
狩人の頭からお湯がかけられ、泡が落とされた。狩人は顔に垂れた髪を集めて絞った。
「じゃ、交代だな。桶くれよ。」
エイメルは女に桶を渡し、背を向けた。女は綿をエイメルの髪に押し付けた。
「ところであんたってさ・・・。」
「・・?」
「ちょっとくらい喋れたりしないのか?」
「・・・。」
宿泊先の家屋は村の外れにあり、表札が目印だった。中では白い目の女が火を熾して待っていた。彼女は手元の木箱を開け、櫛と棒を左右に構えた。
「どっちが先?」
「あたし!」
狩人は素早く女の前に座った。狩人の髪に櫛が通されたが、髪のほつれはしぶとく残っていた。次に狩人は横になって女の膝に頭を乗せた。狩人は女の膝に触れ、縋りつくような仕草をした。それが落ち着くと、女は細い棒を狩人の耳に浅く入れた。棒は斜めに傾けられ、上下に運ばれ、そうして棒が動くたびに、狩人は顔を蕩けさせていた。エイメルは呑気に狩人を笑っていたが、事が終わると狩人によって強引に女の膝へと倒された。
「あなたもするの?」
女の声は耳に優しかったが、棒を磨く巧みな手つきはエイメルを恐怖させた。エイメルは逃れようとしたが、首から肩にかけてを撫でつけられると大人しくなった。
「ふふ、いい子。そう、じっとしていてね?」
耳に棒が入るとエイメルの表情は強張って、四肢が力んだ。しかし時とともに全てが瓦解し、移り変わるその表情を、狩人が肉を齧りながら頬を染めて眺めていた。
4
朝日が瞼を刺した。鼻が触れ合うほどの位置に狩人の顔があり、その手はエイメルの腰に添えられていた。狩人の唇には紫の花が添えられており、村人に貸し出された薄手の寝巻が酷く開けていた。それはエイメルも同様だった。身体を起こすと寝巻が崩れ落ち、歯に挟まっていたらしい紫の花が膝に落ちた。昨夜の記憶はなかった。
外に出ると、既に村人らは働いていた。ぬるい朝風が土の香りとともにエイメルの火照った身体に吹き付けた。やがて狩人が起きてくると肉を食べ、村人から返礼の衣類を受け取って村を出た。
帰り道はあっという間であった。いつものように、狩人が番人への愚痴をこぼしている内に小屋へと着いた。そこで狩人は表情を険しくした。小屋の前で番人が待っていた。
「狩人、待ってたよ。」
狩人は番人を視して小屋に入ろうとしたが、番人が後をついて来ようとしたのに気づくと足を止めた。
「何の用だよ。こっちは長旅の帰りで疲れてるし、身体も洗わなきゃならない。」
「わかった、待ってる。大事な事だから、しっかり準備して来てくれ。」
狩人は舌打ちをした。
番人は二人を十字路へと導いた。そこで狩人は大きなため息を吐いた。そこらに咲いていた花の悉くが枯れ、灰色で満ちていた。更には倒木によって飼い主の道が塞がれていた。
「おい・・・まさか。」
「うん。灰色の乙女だ。」
番人は枯れた花の一つを摘み取ろうとした。しかし指が触れると花はくずれた。
「やらかしたのか。」
「いいや。違うよ。いつものように鞭を振って、炎から主様を守った。でも一向に狩人が現れなくて、炎は勢いを増すばかりだった。そこに灰色の乙女が現れて、狩人の代わりに炎を退けたんだ。夜も明けたのだけれど主様は目覚めず、乙女もまだどこかにいる。」
三人は春の主のもとへと向かった。主への道は、始めは変わらぬ景観であったが、主へと近づくにつれて荒れていた。右奥、木々の間で輝く銀の粉が舞っていた。
「あの粉は灰色の乙女の痕跡だよ。乙女って呼ぶには、ぱっと見は萎びてるんだけど、春の乙女に似ててさ。けっこう美人なんだ。」
粉は風の影響を受けてはいないようで、不規則に漂っていた。粉は区別なく、触れた物の全てを灰色に変えていた。
「乙女は主の悪夢の一つで、春のあちこちを彷徨う。乙女が通った後は、ああして何もかもが色を失って、最後には枯れてしまう。あたしさ、けっこー前にあの粉を吸っちゃったことあって、大変だった。手足が片方ずつ干からびて枯れ木みたいになったんだ。しかも主が起きるまではそのまま。」
割れた巨木の手前には普段より一回りも大きな茨の塊があった。茨の中からは唸り声が響き、足場に張り巡らされた根に振動してそこら中に響き渡っていた。
「ちっ、引きこもりやがって。」
狩人は茨の表面を蹴ろうとしたが、異常に張りめぐらされた棘の群れを見て躊躇い、代わりに木の枝を叩きつけた。
「要は起こせばいいんだろ。ちょっと離れてろ。」
女は指輪を嵌めて擦った。すると火花が茨に降り落ち、茨の表面を跳ね回った。やがて茨は焼き尽くされたが、主は目覚めなかった。
「めんどくせえなあ。いっそ、こいつも燃やしてみるか?」
「何言ってるんだ。主様がいなくなったら一体だれが春を維持するんだ。」
「あんたこそ何言ってんだ。飼い主がいるだろ。」
「・・・。」
狩人と番人は互いを見合っていたが、少しして狩人が目を反らし、背中を向けた。
「どこに行くんだ。」
「飼い主に会いに行く。付いてくるなよ。」
狩人は荒い足取りで、度々に根の皮を蹴りつけながら主への道を戻って行った。エイメルは狩人を追いかけようとしたが、その手を番人が捕まえた。
「君は行かない方がいい。今の飼い主への道は悪夢の所為で酷い有様だ。見通しが悪いし、灰色の乙女が潜んでいるかもしれない。」
番人の黄色と青が入り混じった瞳がエイメルの鼻先を見つめた。真摯な眼差しだった。エイメルは大人しく番人に従うことにした。二人の様子を、狩人が遠くから監視していた。遠目にもその不機嫌は明らかだった。
「乙女が来たら真っ先に逃げろよ!」
大声でそう言い残し、狩人は去って行った。
番人は狩人がいなくなるのを最後まで確認すると、エイメルを主の左側にある小高い根へと招き、そこに二人で腰かけた。番人はエイメルよりも頭一つ大きかった。座った根の皮は硬く、エイメルの足には少し痛かった。身体を浮かせようと根に手を付いた時、右手の指が番人の手に重なった。番人は始め反応を示さなかったが、正体がエイメルの指と気づくや手を跳ねさせて自身の足の上に運んだ。それは些細な出来事ではあったが、伴った恥じらいは番人の口を噤ませるには十分だった。それから二度の風が二人を過ぎた。
「・・・随分と狩人に気に入られているみたいだね。」
エイメルは番人に耳を向けるだけに留め、頷いた。エイメルの頬は僅かに紅潮して綻びていた。それだけで番人の緊張はほぐれ、硬かった表情がいくらか緩んだ。
「君は清く正しい人なのだろう。僕にも区別なく接してくれるし、狩人のこともよく手伝ってくれている。主様にも気に入られた。だからきっと、ここで僕が飼い主の居場所を教えて欲しいと頼んでも、教えてはくれないだろうね。」
エイメルは番人を窺った。表情は穏やかで、不審な様子はなかったが、それが逆にエイメルの理解を難しくした。右手を引き、左袖を握った。番人はその微かな動きに気づくと、気まずそうに、また表情をかためた。
「ごめん、気にしないでくれ。試そうとしたわけじゃないんだ。なんていうか、狩人意外と普通に話すことが久々でさ・・・いや、狩人とも最近は碌に話せていないんだけど。順序が良く分からなくなってしまったんだ。」
番人は苦笑して腰の袋から紫の花を取り、咥えようとして、躊躇った。それをエイメルに勧めたが、拒まれると捨ててしまった。
「君は、春は好きかい?」
番人の視界の端で、小さな顎が浅く沈んで、また浮いた。
「よかった。僕は・・・番人はね。春を守って、維持することが役目なんだ。」
そう言って、番人は根の表面を撫でた。
「善く尽くしてきたと信じていた。でも、ちょっと不安もあった。だって、ここには僕と狩人と、主様の他には誰もいなかったから。どうしてか主様は春に人を受け入れようとはしないし、狩人も役目以外はいつも飼い主の所か、小屋で過ごしてる。どこにも会話がないんだ。・・・あ、飼い主って君の事じゃあないよ。ここに古くからいる、今ちょうど狩人が会いに行っている方の飼い主のことだよ。」
訂正しながら、番人は微笑んだ。
「僕は、この春を永遠に美しく保ちたいんだ。僕と狩人と、君みたいな人が生きていけるように。いつの日か、たくさんの人をここに招いて、たくさんの生活を満たせるように。そしてできるならば、完全なる春を作り出したいんだ。君は見たことがあるかな。僕は沼の底で、乙女に見せてもらったんだ。そう、完全なる春。ああ、何か。相応しい言葉があったなら伝えられたのに。言葉って、難しいね。あ、そうだ。」
番人はエイメルの顔に手を翳し、視界を覆った。
「風だよ、風。風は同じなんだ。感じてみてよ。そして思い浮かべてみて。きっと理解できるはずだよ。完全なる春の姿が。」
エイメルは目を閉じ、深呼吸をした。頭に浮かんだのは、春の国で初めて目を覚ました瞬間の事だった。思わず目尻が潤んだ。もしかしたら全ての出来事は夢かもしれないと、エイメルは悲しんだのだった。しかし、悲しみはすぐに吹き飛んだ。エイメルは浅い呼吸を繰り返し、首を傾げた。春の香りに何かが混じっているようだった。手の甲を唇に添え、絶えず漂ってくるそれらを捕まえた。見れば、掌では点々と銀色が煌いていた。
「どうしたの?」
番人は不思議がるエイメルの手を見て表情を険しくした。エイメルの左手は黒くなり、枯れていた。主への道の方から重なる軋む音が聞こえた。そこには灰色の乙女が静かに立っていた。皴だらけのベールのようなもので全身を包み、頭からは長髪を垂らし、背からは萎れた枝が伸びていた。乙女はゆっくりと歩き、その足取りを追うように春は色を失い、並び立つ木々が朽ちては倒れ、花弁が散っていった。
「落ち着いて、口元を覆って。大丈夫、手は治るから。」
そう言って番人は自らの口も覆いながらエイメルを端に押した。灰色の乙女は眠る主へと真っすぐに足を進めていた。番人は主を庇うようにして立ち、乙女に鞭を振った。しかし鞭は乙女を貫通するだけで効力はなく、余計に銀の粉を散らばらせるだけだった。乙女はついに番人の前まで来た。番人は指輪を嵌めた手を乙女に突き出したが、指輪が力を発揮するより先に指が枯れ、指輪は指を抜けて飛んで行ってしまった。乙女はそのまま番人の身体を通過し、番人は身動きが取れなくなった。番人の首元から、黒色が登っていた。
「飼い主・・・主様を・・・・・主様を守ってくれ。」
ありったけの声で番人が叫んだが、何者も反応しなかった。
「ああ、そうか。君だ!君のことだよ・・・春の飼い主!」
そこで漸くエイメルは乙女に向かったのだったが、遅かった。灰色の乙女の背で枝が実を生らし、実は直ちに弾けて銀の粉を放った。銀の粉によって主は隠され、その上で乙女の枝が折れ曲がり、尖った先端で主を包み込もうとした。その時だった。
「ああ、主様。どうかお許しください。この私をどうか、お許しください。」
銀の世界の内側から、しわがれた声がした。
「私はわかっておりました。全て、分かっていたのです。」
声はしまいには嗚咽を漏らした。すると乙女の枝が縮み出し、垂れた髪が割れて美しい女の顔が現れた。乙女は両手を開き、主を抱きかかえるような姿勢になると、そのまま溶けるように消えてしまった。後には蹲る主だけが残っていた。
「主様!」
番人が主に駆け寄った。粉の作用が残っているのか動きがぎこちないが、彼は頻りに主の身体を揺らした。剣が震え、根に擦れた。間もなく主の背が伸びた。
「・・・やあ、番人。今日もよい春の日だ。」
「主様。なんともないのですか?」
「私が?どうしてかな?こんなによい日だのに。・・・それに番人よ。あなたが案ずるべきは私ではなく、春の飼い主の方だろう。さ、飼い主よ、こっちへ寄りなさい。はて、その左手は一体どうしてしまったのか?」
番人はエイメルの左手を見て息を飲んだ。主が目覚めたにも関わらず、その腕は未だ枯れたままだった。エイメルも動揺していた。主の大きな手がエイメルの左手に触れると小指にひびが入ってしまい、驚いた主の手が跳ねた。
「おっと・・・これはすまないことをした。でも大丈夫。落ち着いて私に預けなさい。」
主は再びエイメルに触れようとしたが、エイメルの手は主から離れていった。上げた主の目に映ったのはエイメルを抱き寄せる狩人だった。狩人の顔は怒りと失望で歪み、その矛先は番人にも向けられた。
「お前ら・・・どういうことだ。どうしてこんなことになってる?」
それはただならぬ声音だった。番人が仲裁に入ろうとしたが先に狩人に刃物を突き付けられてしまい、番人は身動きが取れなくなった。
「狩人よ。あなたこそどうしたのだ。何か良くない香りがする。忌々しい香りだ。」
主はその長い手を狩人へと伸ばした。
「それよりもだ。飼い主の手はただ事ではない。早く、私に任せなさい。」
「黙れ!」
狩人は叫んでエイメルを背後に回すと、もう一方の手でも刃物を握り、主を威嚇した。
「傷つけたな。お前が・・・お前が傷つけたんだ。だってのに、それを分かってもいねえんだ。間抜けな面で、呆けたこと言いやがって。」
狩人は背でエイメルを押しながらじりじりと後退した。
「わかったろ。これだ、これが事実だ。あいつは狂ってやがる。あいつが作った春だってそうだ。違和感はどこにでもあった。なんか違うって、そう感じることはいつだってあったんだ。・・・いいか、番人。今の内に考えを改めとけよ。あたしはここに戻ってくる。あのクソ野郎を丸焼きにするためになあ!」
狩人は即座に刃物をしまうと身を翻し、エイメルを抱いて主への道へと駆け込もうとした。主は指を折って辺りの根を操った。
「ああ・・・思い出した。その煙、肉の焼ける匂い・・・そうか。」
十を超える鋭利な根が狩人の周囲で起き上がり、襲い掛かった。
「主様!」
番人は主を呼び、制止を試みたが、この時は声さえも鈍く、挙句には爆音にかき消されて誰の耳にも届きはしなかった。狩人が指輪を行使して、爆炎を起こして根を燃やしていた。その火力は凄まじく、次いで召喚された根すら焼き尽くした。主は根による攻撃を断念し、指の折れた手を握った。すると主への道の左右から木々が押し寄せ、狩人を押しつぶそうとした。しかしその精度は悪く、狩人らは危うく道を駆け抜けた。
「あいつ、容赦ねえな。・・・まあ、勢いで殺すって言ったしなあ。当然かあ?」
狩人は飼い主への道を走りながら、エイメルの左手を確かめた。欠損は無かったが、ヒビの進行は進んでいた。
「私には理解できない。狩人は一体どうしたのか・・・いや、わかった。あの飼い主だ。追放したはずの飼い主が生きていて、狩人を誑かしたのだ。そして私の宝すらも攫って行った。なんということだ。許せはしない・・・悪しき飼い主め。」
主はわなわなと手を震わせた。折れた指は既に治っていた。手の震えに合わせて木々が騒めき、何かの鳴き声が共鳴した。
「番人よ、備えるのだ。狩人は必ず戻ってくる。そこには飼い主もいるだろう。奴らは私の眠っている隙をつくかもしれない。奴は姑息だ、十分に備えるのだ。」
「飼い主!」
エイメルを連れた狩人が呼んだ。狩人は飼い主に駆け寄るなり、エイメルの左腕を見せ付けた。飼い主は紫色の息をたっぷりと吐いて、持っていた花を捨てた。
「どうしたのかな。」
「どうしたって、見ての通りだよ。腕、治せるか。」
「治す・・・?」
飼い主の目には、エイメルに表面的な異常は見られなかった。左腕が軽く痙攣しているようではあったが、そこには傷一つとして存在しなかった。しかし飼い主は事態を察していた。腰で束ねられた革ひもを解きながら、半ば狩人に押されて家に入った。
処置の最中、狩人は終始、悲鳴を上げていた。飼い主は巧みな言葉づかいで何とか狩人を宥め通した。エイメルは革ひもで包まれ固定された腕が気になるようで、何度も突いたり、引っ掻いたりした。そうしたことでも狩人は神経質になった。落ち着いたのは、飼い主渾身の茶と肉が提供されてからだった。
「それで、何があったのかな。」
「主の悪夢がこいつを傷つけたんだ。悪夢のことはたまに話してたよな。たぶん灰色の乙女のせいなんだけど・・・って、そう言えばあたしはいなかったじゃんか。いや、でも間違いない。乙女にやられたんだ。そうだろ?」
エイメルは間をおいて頷いた。
「灰色の乙女は確か。春の乙女に似ていて、春を枯らすのだったかな。」
「そう、そりぇ。」
狩人は肉を嚙み切りながら答えた。籠った声になった。
「しかもあいつ、あたしらに攻撃してきた。尖った根で襲ってきたり、でかい木で潰そうとしてきたんだ。殺すつもりだったんだよ。おかしいだろ?」
「うん。そうだね。おかしいと言えば、おかしい。」
「あんだよそれ。曖昧だな。」
「ガディノは番人として創られたから、そもそも執着心が強いんだ。番人に春を放棄されては困るからね。彼は昔から物や価値に固執していたから、春の飼い主を余程に気に入っていたのだとしたら、君を殺すのは考えられる行動だよ。」
狩人は驚いて、木製の容器を落としてしまった。黄色の雫が床に散った。
「まあ、君の身体にここの匂いが付いてしまっていたから、それが気に障った可能性もあるけれど。でも、いずれにせよ君のことは簡単には許さないだろうね。」
飼い主は容器を拾い、布で床を拭きながら言った。
「・・・苦かったかな?」
苦い顔で茶を含む狩人の手元に、白い印の容器が置かれた。
「いや、苦くはないよ。茶のことじゃなくて、今後の事を考えてたんだ。」
「そっか。」
飼い主は白い印の容器を片付けながら相槌を打った。
「そうだよね。君は春との関係が絶たれたら死んでしまうもんね。」
飼い主の言葉を聞いたエイメルの身体がピクリと揺れた。それから狩人を一瞥し、視線は次に飼い主に送られた。飼い主はエイメルの微かな挙動に気づいていた。
「仲がいいと思っていたけど、教えてないの?」
「教える必要なんてないよ。あたしは死なないし、ここに住むし。」
「ここはいくらか春の影響が及んではいるけど、外であることに変わりはないんだよ。」
「大丈夫だってぇ。」
狩人は力なく答えると、机の上で腕を枕にして、肉の束を噛んで歯と擦り合わせた。飼い主が茶を飲もうと椀を取った時、その手にエイメルの指が触れた。エイメルと飼い主の目が合った。飼い主はその目が訴える意志を読み取った。
「・・・教えてもいいかな。」
「しゅきにしりょよ。」
狩人は答えた直後に唇から溢れようとする涎を盛大に吸いこんだ。その品の無い音に眉を顰めながら、飼い主はエイメルに説明を始めた。
「さっきガディノ・・・春の主は執着心が強いと言ったよね。最初の春の主である春の乙女は、ある程度の性質を与えることができたんだ。おもにそれらは執着や依存、誠実といった、統率する上で扱いやすいものに偏る。僕の時に例えれば、番人が執着、狩人に依存、そして飼い主である僕には矜持が与えられていた。僕が矜持だった理由はたぶん、一人でも家畜を育て続けられるようにするためかな。結局、上手くいったのは見事に春に執着した番人だったけどね。狩人は全く別の何かに依存したのか、あっさりとどこかへ行ってしまって、僕は都合よく追放されて気ままに生きるという結果になっている。」
「え!」
狩人が飛び起きた。
「あんた、追放は不本意じゃなかったのか?」
「不本意もあったよ。大事に育てていた家畜の多くが殺されてしまったし、髪の色も抜かれただろう。ついでとばかりに他にも幾つか嫌がらせを受けた。だけど今の方が快適ではあるし、春に思い残すことは何一つないよ。」
「ひゃー。」
狩人は変に高い声で鳴き、机の上で崩れた。
「それで、だよ。」
飼い主はエイメルに向いて指を鳴らした。
「同様の性質が新しい番人と狩人にも与えられているんだ。二人は春の乙女によって新たな命を受けた時に、完全なる春の幻想とともに、それぞれ執着と依存を与えられた。ね、分かりやすいでしょ。この子は春には勿論、肉にも依存している。あとは酔い花と・・・君もかな。若返って多感なせいでもあるのだろうけど。」
飼い主が狩人の朱色の髪を突いた。隣に座るエイメルにしか気づけなかったが、狩人の耳は赤く火照っていた。
「完全なる春は特に厄介なんだ。その幻想は見た者を春の虜にしてしまう。虜になった者は春を失うと精神が壊れてしまうから、例え不満があっても、春の為に進んで働くようになるんだよ。便利でしょ。大体が志願者だったけどね。・・・昔の春の国は、それは賑わっていたよ。住み込んで働きたいって人がたくさんいたくらいだ。でも生存者はいないだろう。春は一度、滅んでしまったから、その時にみんな死んでしまったんだ。」
狩人の指先がくるくると回り、狩人の髪を絡めた。
「だから、この子も春を失ったら死んでしまう。依存の対象が多いから誤魔化すことは可能かもしれないけれど、それでも長くは続かないと思う。最後には廃人になって、森のどこかで醜い死を迎える。」
狩人の肩に力が籠り、震えた。耳はまだ赤かった。
「なあ、飼い主。」
狩人は沈んだ声で呟き、顔を下に向けたまま身体を起こした。机が部分的に濡れており、狩人の鼻頭から新たな水滴が机へと垂れた。顔が上げられた時、下瞼からは大粒の涙が溢れ出して頬を濡らした。
「あんたが春の主になってくれよ・・・あいつなんかやっつけてさ。そしたらみんな救われるだろ。あんただって本当はそれを望んでるんじゃないのか?」
飼い主は無表情だった。狩人の訴えを聞き届けてもそれは揺るぎなく、彼の顔は次にエイメルに向けられた。
「ほらね。もう不安定になってる。こうして廃人になるんだ。」
「ああああん。」
エイメルはあられもない声を上げて泣き出す狩人を胸に抱いた。優しく頭を撫でつけると、狩人は胸に顔を埋めきってしまった。エイメルはこの狩人の涙が、完全なる春や依存の性質の作用によるものではないと直感していた。脳裏に、いじめ、と言う、いつかに知った悪しき風習の名が過った。
狩人はエイメルの胸に小さな池を作ってようやく泣き止んだ。飼い主は「やりすぎたね」と謝りながらも表情を動かさなかったが、狩人の前には気持ちばかりの肉が並べられた。落ち着いた狩人が肉を齧っている内に、エイメルは借りた布で胸の水気を払った。
「でも、事実なんだよ。」
飼い主の冷徹な一言で狩人の口が動きを止めた。
「・・・わかってるよ。覚悟はしてる。」
狩人の声は涙声であったが、今度は目尻が僅かに濡れる程度に留まった。覇気を取り戻した瞳が飼い主を捉えた。
「あんたはどうなんだ。あんたは、春の主になりたいとは思わないのか?」
「求めたことはあるよ。誇りに従ってね。」
狩人は机に両肘を付き、指を交互に組んだ。
「でも、難しいんだ。僕は狩人や番人みたいに強く創られてはいないから。飼い主は本来、闘う必要なんてないんだもの。」
狩人が椅子を鳴らして勢いよく立ち上がった。
「あんただけクソ雑魚ってかよ!」
「どこで覚えたんだい、そんな汚い言葉。酷いね?」
飼い主は脇を開き、背伸びをしてから浅く顔を傾け、天井へと横目を流した。
「まあ、実際は何も無いわけじゃない。僕は飼い主だからね。飼っていた獣たちがいたよ。頼もしくて、かわいい獣たちが・・・。」
飼い主が口を止めてしまうと、狩人は眼つきを変えて前傾姿勢になった。
「・・・食いつくね。」
飼い主は椅子を引き、迫る狩人の顔から距離を置いた。
「期待しないでよ。あくまで飼っていた、だからね。追放されてからはどうなっているか分からないんだ。番人の手に負える代物ではないから、まだ生きているとは思うけど。」
「一体どこに?」
狩人の額が更に飼い主に迫った。飼い主は再び椅子を引こうとしたが、椅子の背が棚にぶつかり、それ以上は下がれなかった。
「ちょっと落ち着いてよ。」
飼い主は狩人の肩を押して椅子に座らせると、渋々、説明を始めた。
「十字路、あるだろう。主への道と、ここへつながる道、それに出口の森へ続く道と、もう一つの道に分かれている、あの十字路。その、もう一つの道って言うのが、実は僕らの保管場なんだ。行ったことはある?」
「は?」
「何か?」
「道が倉庫?」
「うん、そう。そのまま理解してくれて構わないよ。」
飼い主は手を打ち、仕切り直した。
「いいかい。単純に道そのものが保管場なんだ。だけど構造は複雑だよ。とにかく広くて、霧が立ち込めていて、方向は常に二つしかない。進む道と、戻る道の二択。だけど入る者によって導かれる先が違う。狩人や番人も使っていて、隠す必要があるものや、特別なものを置いていたからね。特殊な呪いが施されている。」
「へえ・・・で、あんたの倉庫にはどうやったら入れるんだ?」
「僕の所は簡単だよ。僕の髪一本でも持っていたら入れるんじゃないかな。昔に遣いに給餌を頼んだ時にはそれで問題なかった。爪の欠片でもいいかもしれない。」
「じゃあ、くれよ。」
狩人の掌が、飼い主の目の前で広げられた。
「んー・・・。」
飼い主は腕を組んだ。
「・・・本当に戦う必要があるのかな?」
「・・・・・。」
「例えばだけど、君がガディノのもとへと戻って今の春を受け入れたら、それで済む話なんじゃないかな。悪夢はしつこいだろうけど、慣れたら案外、悪くないかもしれない。誰も傷つかない平和な選択だよ。」
飼い主の覗き込む瞳に、狩人の顔が映った。その半透明な狩人の瞳もまた、狩人自身を確かに捉えていた。
「無理だよ。状況が変わった。あいつの悪夢はこいつの腕を枯らして、そのままだ。」
「ああ、そっか・・・そうだったね。」
飼い主はエイメルの革ひもで巻かれた腕を一瞥した。それから背後の棚から小さな刃物を取ると、髪を二本摘まみ、根元の近くから切り取った。
「どうしても、君はガディノを受け入れられないんだね。仇ってところかな。」
飼い主は溜息まじりに呟いて、髪を狩人の掌に乗せた。細長い髪の両端が机に垂れた。髪を受け取った狩人の顔は決して明るくはなかった。希望の裏に、薄暗い覚悟があった。
「手綱を引くだけでいい。僕の獣は特徴的な声で鳴くから、声が聞こえたら向かうよ。」
狩人は頷き、飼い主の家を出た。重い足取りで飼い主への道へ戻ろうとする二人の背に、遅れて家から出てきた飼い主が呼びかけた。
「狩人、君は正しいよ。でも、春は永遠じゃないんだ。大切なものが何かを考えてほしい。分かっているはずだよ。僕の力を借りることが、どんな結末を招くかを。」
「あんたはどうする?」
「・・・・。」
「その腕だからさ、一緒に闘うのは無理だ。どっちにしろ闘ってほしくないし、隠れていてほしい。けど、遠くに離れないでいて欲しいんだ。あたしは戦わなくちゃいけないから側にはいられないけど、できれば近くで見守っていてほしい。だめかな?」
「・・・。」
「・・・ごめんな。」
管理場への道はどこまでも果てしなく続いていた。一凛の花も咲かぬ緑一色の一本道は、狩人が小さな一歩を踏み込むや濃い霧を吐き出した。
「飼い主の髪、なくさないようにしないとな。」
狩人は自身の腰の帯に一本を括りつけ、もう一本をエイメルの肩から掛けられた革ひもに結び付けようとした。しかし思うように髪を操れず、手間取っていた。
「狩人。」
髪を結びきれぬ内のことだった。その声は二人の背後から聞こえた。狩人は声に視線だけで応じた。十字路の真ん中に番人が立っていた。
「そっちに何をしにいくんだ。」
「・・・。」
「教えてくれ。一体、霧の向こうで何を。」
「飼い主の保管場に用があって来た。主から春を取り戻すための準備だよ。あんたこそ、どうしてここにいるんだ。主の命令で、あたしらを探してたのか?」
番人は俯いた。彼の左足は絶えず震えていた。どことなく、その輪郭は右足よりも細いようだった。時折にその節々が割れたように鳴った。
「違うよ。主様は私に狩人に備えろとだけ命じて再び眠ってしまった。ここにいるのは、ただ歩きたくなったからなんだ。大した理由じゃない。・・・でもせっかく会えたんだ。ちょっと話さないか・・・?」
「そんな暇はねえよ。あいつが寝てるなら、なおさら急がなきゃならない。」
「待って!」
踵を返して歩きだした狩人の肩を番人の手が掴んだ。
「どうして頑なに主様を目の敵にするんだ。主様を悪夢から解放できれば、それで春は平和になるのに。」
「うるせえな!」
狩人は荒れ、番人を乱暴に振り払った。
「わかんないんだ!あんたには、分かりようがないんだ。あたしは知ってる。なんとなくだけど、曖昧だけど知ってる。春はもう、あたしらが願っていたものとは別物なんだよ。どれだけ言ったって伝わらないんだろうけどな、それが事実だ!なあ・・・頼むからもう、邪魔しないでくれよ!」
狩人は涙を流し、叫び続けた。番人は投げ出されたまま、瞬きすらできずにいた。
「あたしらは昔とは違うんだ。何もかもが変わった。押し付けられたこともある。失ってしまったものもある。だけど、それでも受け入れたのはあたしたちだ。選んだ先に違う道を行くことになったって、仕方ねえことだろ。いい加減に決めろよ!臆病者!」
狩人が手を大きく振り、炎が放たれた。番人は即座に指輪を嵌めて水の壁を呼び、襲い来る炎の波を防いだ。
「決めたさ!僕だって考えて来た。何もなしに呆然と生きてきたわけじゃない。主のことも、飼い主も、姉さんも、全て理解しようと努力した。なのに、離れていったのは姉さんじゃないか。僕はみんなの居場所を願っていたのに!」
水は激しい勢いで炎を巻き込み、そのまま狩人へと降り落ちた。水の重さに耐え切れず狩人は腰を打ち、息を荒らした。
「・・・僕を頼ってよ、姉さん。成長したんだよ、僕は・・・。」
番人も息を乱していたが、震えながらも立ちあがり、覚束ない足取りで狩人へと寄った。狩人の足は動かなかった。細めた目で静かに番人を見上げ、差し出された手を握った。
番人の肩が揺れると、狩人の肩も揺れた。大きな山が苗木に寄りかかっているかのような奇妙な二人の後ろ姿を、エイメルは音を立てぬよう、気を遣って追いかけた。一歩、また一歩と、道を埋め尽くして咲いた毒々しい花を踏むたびに、花弁からは同様の色の液体が流れた。エイメルの足首までが真っ赤に染まってしまっていたが、彼女の意識は番人の手に握られた白い果実に囚われていた。囲う鋭い根が何度も狩人を攫おうとしたが、番人の水が追い払った。ついに三人の足場が硬い根に変わると、三人は根の働きによって主の側へと運ばれた。番人が進み出て、ぎこちなく首を垂れた。
「主様。狩人と飼い主を連れてきました。」
番人がそう告げると鎧が鳴いて剣を握る手に力が籠り、主の頭が上げられた。
「番人よ。私はあなたに備えろと命じたのに、その答えがこれか。如何なる考えか。」
番人は首を下げたまま、主へと掌を挙げた。掌には二つの指輪が乗せられていた。
「この番人が、あの飼い主から狩人を連れ戻しました。どうか指輪を受け取ってください。これは私たちからの対価です。春の繁栄の為に、主様に願いたいことがあります。」
主の手から力が抜け、その片方が指輪を拾った。
「ほう。あなたがたの至宝の武器、魔法の糧を差し出すと。狩人からはまだ飼い主が匂うが、そこまでするならば信じなければ・・・。番人よ、さあ、願いなさい。あなたは名誉ある働きをしたのだ。」
主の背から枝が伸び、番人の顎を上げさせた。彼の口の妨げにならぬよう、根は直ちにその先端を下ろした。
「主様の秘密を教えていただきたい。」
「秘密か・・・。」
根から剣が抜かれ、その後ろで主の足が伸びた。主の足に繋がった数多の根のうちの数本が断ち切れた。
「私に大した秘密はない。答えようにも、あなたの働きにはそぐわないものになってしまう。それでも良いなら、答えよう。」
「では、主様が持つ剣の物語の真相を聞かせてください。」
「ふうむ。ああ、いいとも。」
主が剣を振るとともに天井の枝葉が開き、一面に幻想が広がった。麗らかな春と、突如として春を包む炎。その中心には立ち向かう狩人と番人、端には逃げ惑う飼い主がいた。幻想の番人は春の乙女から与えられた銀の剣を輝かせて炎を退け勝利した。しかし春の乙女は致命傷を負っており、番人に春を託すと自ら沼に身を投げた。生き延びた番人と狩人は誓いを交わして互いに別れを告げ、来る次なる春の心象とともに幻想は終わった。天井が再び枝葉で塞がれた。番人の顔が下がり、肩が小刻みに震えた。
「見ただろうか。あれがこの剣の全てだ。」
「・・・主様。」
「そう悲しむことはない、番人よ。全ては来る新たな春のため。希望はある。」
「違うのです、主様。」
「いいのだ、番人よ。誰もが弱さを持つ。それは儚い命の定めだ。だから悲しみを隠すことはない。私も思い起こす度に涙を流す。だが、それは理想の故・・・。さあ、番人よ。ともに永遠の春を創ろう。この大地に、受け継がれた意志を刻み込もう。」
主は涙を流した。その上で己の涙の為に、また涙を追わせた。これほ程までに愛しい潤いを得たのは久しいことだった。前の事は何時の事だったかと記憶を廻り、思い出した。
「ああ、主様。私はここに・・・美しき春もまた、ここに・・・。」
「いいえ、ガディノ。」
ガディノは鎧の下で目を剥いた。幻聴か、耳の誤りか、春の乙女の声を聞いた気がしたのだった。しかし、必死に見回せども乙女はどこにもおらず、あるのは変わらぬ三人の姿だけだった。それでも主は不規則な動悸に苦しんだ。心臓を感じることも、久しいことだった。敏感になった耳に、番人の訴えが飛び込んだ。
「主様。どうか本当のことを話してください。私たちは主様が春の乙女について酷く気に病んでいることを知っています。そして主様が持つ銀の剣に錆びのようなものが付いていることも。あの錆びは火によるものではないしょう。私では想像するには及びません。しかし、何かおかしいと思うのです。主様は悪夢を見る。悪夢は春を枯らし、色を奪う。それなのに、主様は悪夢について一切を覚えてはいない。おかしいのです。」
番人の声は耳に聞こえてはいたが、心には届かなかった。
「もし語れないのであれば、この白の果実を食べてください。昔に主様から貰ったものです。これで全てがハッキリします。あなたの正しさも、過ちも、全てが!」
心の中ではヘドロに似た、腐りきった醜悪な感情が渦巻いていた。想うことは一つ、春の永遠。頭を埋めたものも一つ、理想とする春の危機。そして見開かれた目に見えてしまったのは、狩人と春の飼い主に結び付けられた忌々しい長髪。
「ああ・・・やはり、お前か。」
両手は既に振り上げられていた。
根が爆ぜ、腐敗した暴風が吹き抜けた。木に叩きつけられた三人が見たのは灰色に沈む大地と、夜空に飾られた歪んだ光に照らされる怪物の姿だった。怪物が掲げた剣が輝き、鉄壁の蔦を巻いた。鎧が剥がれ、深刻な火傷痕が現れた。三人は痛みに耐えながら互いに身を寄せ合い、審判の時を待った。
恐怖に目を瞑ったエイメルの耳に鳴き声が聞こえた。楽器で奏でられたような、或いは幼子の歌声のような音。記憶に触るようで、正しい識別の叶わない神秘的な声。それは断絶的に風のような速さで後方から近づき、駆け抜けた。
「君たちにとっては喜ばしいことなのだろうけれど、やっぱり最悪だよ。僕にとっては、この上なく最悪な展開だ。」
飼い主の言葉を残して走り去るそれは、深い肉食獣の毛に包まれた、馬のように逞しい漆黒の生物だった。頭には遥か後方からでも確認できる湾曲した角が生え、口の端からは牙が突出していた。生物の背には飼い主が跨っていた。
「・・・嗚呼、それでも。如何な時も捨てられないのが矜持であるから、案外にこれは良いことなのかもしれない。乙女よ、どうか赦しておくれ。矜持とは、常に悪意なく疑念を孕んでしまう存在なのだから。」
飼い主は右手で頭に乗せていた花の冠をほどいて鞭とし、左手では金の酒杯を燻らし、中の液体を鞭に垂らした。
ガディノが狩人に剣を振り下ろした。暴風が吹き荒れて竜巻まで起こり、竜巻は飼い主の手から鞭を奪い取ろうとした。しかし飼い主は鞭を離さず、剣は獣の角の突進によって弾かれ、ガディノの手を逃れた。ガディノが剣に駆け寄り拾おうとした隙に、彼の足に飼い主の鞭が巻き付き、鞭の棘が肉に深く食い込んだ。棘を介して酒杯の液体が体内に注がれ、ガディノの足は不能となった。ガディノは転びながらも剣を掴むことができたが、すかさず鞭が振られると手までもが痙攣して剣を放してしまい、更なる追撃によって両手が縛られた。飼い主はトドメに剣を酒杯の液体で濡らしてしまい、とうとうガディノは抗う術を失った。
「何故だ、飼い主。何故、お前はいつも私の邪魔をする。やめろ、私から主様を取り上げないでくれ。私の唯一の夢なのに、ただ理想としただけなのに。」
「君はもう、夢に逃げてはいけないよ。罪を償わなければならない。」
ガディノは這いずって自ら液体に飛び込み、藻掻いた。
「罪だと。訳の分からないことを。私は正しいことをしてきた。春の番人として、努めるべきことをした。お前は私の努力を知らないのだ。ただ叶わなかっただけなのに。・・・お前には渡さない。剣は私のものだ。春の主は私なのだ。」
ガディノは肘を使って剣に寄り、どうにかして剣を掴もうとした。しかし液体に触れる程に身体は不自由になり、ついには首すら動かせなくなって、顔の半分を液体溜まりに沈めてしまった。飼い主は鞭を冠に戻し、酒杯を獣の背に乗せると、それぞれの手で剣とガディノを持ち上げた。しかしそれらは飼い主には重かったようで、剣を放り投げると両手でガディノを支えた。
「うん。君は春の主だよ。僕では勤まらないもの。執着強い君にこそ相応しいんだ。だからこそ、向き合わなければならない。思い出せるかい?あの日、君は自らの手で春の乙女を斬ってしまった。乙女の願いを裏切り、春を汚してしまった。君の執念がしてしまったことだ。ならばその罪はきっと、乙女にもある。」
「そんな馬鹿な・・・主様に間違いなど。」
「あるよ。間違いは誰にだってある。乙女だって完全ではなかった。乙女が産み出した春の多くは幻想だったろう。幻想でも、多くの人の心を救ったのだろうが、奪ってしまったものもあった。君は・・・いや、僕らは。少しずつそれを返さなければならないよ。新たな狩人と番人にも・・・。二人は春が蘇らせたばかりに長く生きる。それなのにあの身体のままでは、あまりに可哀そうだ。」
「だが、春は・・・!」
ガディノは泣き崩れ、胸の悲痛を吠えた。飼い主は手を濡らす液体の所為で、腹に凭れるガディノを支えられなかったが、屈むことで彼の頭を肩で受け止めた。
「そう創られたのだから、仕方のないことだよ。君は癒えぬ執念と付き合っていくしかない。だからせめて少しでも僕に預けるといい。抱いた尽きぬ理想と夢を、飽きてしまうまで語り続けるといい。」
5
朝日が昇った。変わらぬ愛しい春の朝だった。狩人は流れるような動作で物音を立てずに起き上がり、身支度をして小屋を出た。外には色に恵まれた果ての無い花園が広がっていた。景色は最後の記憶よりも幾分も華やいで目を楽しませたが、風を楽しむことはなくなってしまった。あの日以来、春の真実が閉じた瞼に焼き付いて離れなかった。
後ろで戸が閉まる音がしてすぐにエイメルが狩人の横に立った。酷い寝癖をしていた。
「なあ、エイメル。あたしのことさ・・・。」
思いが絡まり、言葉が詰まった。項垂れる狩人の髪にエイメルが息を吹きかけた。白い小さな花が三つ、朱色の髪に飾られ、一つが狩人の手に落ちた。花を見て、狩人は静かに微笑んだ。
「髪・・・洗おっか。」
主の間で、飼い主と主は長く語り合っていた。その実態は多くが主の長話と飼い主の短い相槌によるものだったが、それでも主の心は満たされた。しかし、飼い主は飽きてしまった。空虚な妄想が苦しくなった。飼い主にとって矜持とは、先立つ数々の成功の後に成る槍であった。矛先は未来に向かっていた。主の事は過ぎし成功の一つに過ぎなかった。
「・・・無限の春だ。先ずはどこまでも緑を広げ、そこに花を添えていこう。少しずつ、少しずつ春を現実のものにするのだ。そしていつの日か。」
「ガディノ。」
「・・・。」
「覚悟を決めて欲しい。春の為に、罪の為に。目を反らさないと、誓って欲しい。」
「・・・・・。」
「あの火はまだ、生きているよ。」
モニターを変えたら文字やUIが極端に見やすくなりましたが、やっぱり情報量が多すぎて大変なのでサイトの機能を使うようになるのは遠い未来の話になります・ご了承!
過去作を修正することにしました。それにあたって、後日にざっくり設定や世界観を書き置きます。
因みに続きありますが、世界観重視になるので続編扱いにはしませんでした。