2.酔い潰れた翌朝は
「ううう……」
こらえていた涙が一粒二粒と頬を流れ落ちた。
周囲にバレないように口元を手で押さえ、必死で嗚咽をこらえる。
けれども、高ぶった感情は止まらない。
涙が次から次へとあふれ出た。
と、ちょうどそこへ佐々木が申し訳なさそうな顔でやってきた。
「ごめんごめん、仕事がおしちゃってさー。馬渡さん、お腹減ったでしょ? すぐに食べられるところに……って、あれ? 泣いてる?」
「い、いえ……」
真央は慌てて指で涙を拭う。
そんな真央に佐々木は黙ってスッと紺のハンカチを手渡した。それはきちんとアイロンがかかっていて、清潔感がある。
「すみません……」
躊躇いつつ真央は素直にそのハンカチを受け取り、目尻の涙を拭った。
「これ、ちゃんとお洗濯してお返ししますね」
「いや、そんなこと気にしてくれなくていいんだけど。とにかく行こう」
優しく佐々木はそう言うと真央の肩をさりげなくそっと抱き、ふたりはスタバを後にした。
◇◆◇
「なんでも好きな物、頼んで」
佐々木が真央にお品書きを見せながら言った。
「ああ、今日はクリスマスだし、鶏もものトマト煮なんていいかな。馬渡さん、飲み物は? ここの地酒は美味いよ」
「すみません。私、お酒はあんまり……いえ、やっぱり今夜は飲みます」
飲まないとこのクリスマスはやってられないわ、と内心真央は思いながら言った。
「それにしても素敵なお店ですね」
「そう? 気に入ってくれたのなら良かった。クリスマスだからイタリアンかフレンチにでもと思ったんだけど、やっぱりどこも予約が入れられなくてね。ここは昔から馴染みの店なんだ。味も保証するよ」
にこりと笑う佐々木の笑顔はやはり爽やかで、真央は仕事も出来るエリートでイケメンの佐々木にクリスマスを共に過ごす相手がいないことを不思議に思う。
ここは「花菱」という小料理屋で、ふたりはL字型カウンターの隅の席に並んで座っている。
小料理屋と言っても純和風ではなく、お洒落なバーに近い雰囲気だ。
こういう店には慣れていない真央の雰囲気を察して、佐々木は適当な料理を数品に日本酒をオーダーした。
「んー! 美味しい!」
運ばれてくる料理はどれも美味しそうだった。
そして、実際美味しかった。
次々と出される料理に真央は片っ端から手を付け、舌鼓を打った。
佐々木が勧めるのも納得の味だ。たしかに美味しい。
お腹が減っていたというのもあるが。
出される小鉢を次々と空にしていく真央の豪快な食べっぷりに、隣に座っている佐々木は微笑ましく眺めていた。
その視線に気づき、真央は箸を止める。
「……あ、すいません。一人でバクバク食べちゃって」
「いや、いいんだ。落ち込んでなんにも食べないよりは。食欲があってよかった」
佐々木の優しさが胸に染みる。
「それよりも、まだ乾杯してないんだけど……」
あっ! と真央は思った。
見れば佐々木の手にはグラス製のお猪口が握られ、中には日本酒がなみなみと注がれている。
まさに乾杯待ちの状態だった。
「すすす、すみませんっ!」
「いやいや。それじゃ、メリークリスマス」
「メリークリスマス」
二人のお猪口はカチンと小気味の良い音を響かせた。
「美味しいですねえ! このお酒。私、日本酒って辛くてきつすぎて普段ほとんど飲まないんですけど、このお酒はすいすい入っちゃう」
真央は一口飲んで驚いたように言い、あっという間にお猪口を空にした。
その空になったお猪口に佐々木が更に酒を注ぐ。
「そうだと思ってこの店で一番甘口の日本酒の中でも特に美味いのを選んだんだよ」
「そうなんですか。……あ、佐々木さん。私にもお酌させて下さい」
佐々木が手酌しようとするのを見て、慌てて真央が熱燗のお銚子を持つ。
「悪いね。女の子にお酌させるのはなんだかセクハラみたいで」
「会社の宴会とかでしたらそうかもしれませんけど、今夜は……」
そこで真央は言葉を止めた。
今夜は佐々木と二人きりのクリスマスの夜。
本当なら一哉と二人で過ごしていた筈の夜。
ぐいっと真央は更にお猪口を空けた。
「飲みましょう! 佐々木さん!」
真央は一哉のことを忘れようと食べては飲み、そうしてそのクリスマスの夜は更けていった。
◇◆◇
「うえっぷ」
やってしまった、と真央は思った。
飲み過ぎた。
完全に飲み過ぎた。
足腰が立たず、佐々木に支えてもらわなければ店を出られないくらい酔ってしまった。
まさに大失態だ。
「大丈夫かい?」
店の脇にへたり込む真央に、佐々木が心配そうに声をかける。
「す、すいましぇん……。ご迷惑をおかけして……」
真央はろれつの回らない声で謝った。
もともと彼女はお酒に強いほうではなかった。
こんなになるまで飲んだのは、フラれた悲しみを忘れようとガバガバと飲んだせいである。
「迷惑だなんてそんな。こっちこそ無理に飲ませて悪かったね」
優し気な口調に、真央はぶんぶんと首を振った。
「歩けるかい? 家まで送っていくよ」
「い、いえ。大丈夫……れすぅ……」
立ち上がろうとした真央は、つんのめって佐々木の胸に倒れ込んだ。
「……か、ずや……」
真央は呟くと、そのまま佐々木の胸に縋り付いた。
朦朧とした頭でぎゅっと佐々木に抱きつく。
佐々木もまた優しく真央を抱きしめる。
「一哉……かずやぁ……!」
やっぱり一哉が好き。
嫌いになんてなれない。
でも、一哉には他の女の子供が……。
「かずやの……馬鹿ぁ……」
……すぅ……。
真央は暖かい佐々木の腕の中で意識を失い、眠りに誘われていた。
◇◆◇
「……ん」
真央はズキズキする鈍い頭の痛みで、思わず手をこめかみに当て目を開けた。
「ここは……」
知らない部屋だった。
「なんで私、こんな所に」
真央は、寝たことのない黒いベッドの中にいた。
よくよく記憶の紐を解く。
昨夜はクリスマスで、佐々木と飲んでいて、そして……。
バッと真央は起き上がった。
パパパと体を確認すると、ジャケットは脱がされ、ブラウスの第二ボタンまでは外されていたが、スカートもストッキングもちゃんと穿いている。勿論、下着も……。
「おはよう」
エプロン姿の佐々木がひょっこりと顔を見せ、真央は「ぎゃあ!」と叫んだ。
「ささささ、佐々木さん⁉」
なに⁉ なに⁉ どういうこと⁉ どうして佐々木さんがいるの⁉
真央は混乱しながらシーツを手繰り寄せた。
そしてすっぽりと頭からかぶる。
「馬渡さん、酔いつぶれて寝ちゃったから僕の家に運んだんだよ」
「佐々木さんの家に?」
言われて、ハッと気が付く。
確かに昨夜、お酒をたらふく飲んで店から出たあとの記憶がない。
飲み過ぎてつぶれてしまったのか。
あちゃー、と真央は頭を抱えた。
「す、すいません……。佐々木さん」
変な事されなかっただろうか、と少し身構えたが、着ている衣服に乱れはない。
第一、イケメンエリート社員の佐々木が自分など相手にするわけがない。
胸をなで下ろした真央に、佐々木が聞いてきた。
「ちょうど朝食作ったところだから、一緒に食べない?」
「え、え……?」
「馬渡さん、二日酔いでしょ。しじみ汁作ったんだ。あ、顔洗いたいよね。そこの洗面所に新しい歯ブラシ置いてるから使って」
そう言う佐々木は、フリースの部屋着の上から男物のエプロンをしている。それがまたやけに馴染んでいて、佐々木が普段から料理慣れしていることが察せられた。
「何から何まですみません……」
真央は服を整えると、バッグから化粧ポーチを取り出した。
昨夜は一哉と過ごすつもりだったから、お泊まりセットは用意していることに安堵する。
洗面所で歯を磨き、顔を洗うと、手早く基礎化粧とヌードベージュ系のアイシャドウに口紅で簡単なメイクを施した。
鏡の中の自分を見ると、瞼がやや腫れぼったい。
泣きながら眠ったような気が微かにする。
一哉……。
胸がしくしくと痛む。
しかし、今、自分は佐々木の部屋にいるのだ。
なんでこんなことになっちゃったんだろ……。
そんなことを思いながら真央がリビングダイニングに戻ると、テーブルの上には白米、しじみ汁、厚焼き玉子、ほうれんそうのおひたしにちりめんじゃこの小鉢が並んでいて、佐々木は日経新聞を読んでいた。
格好いい……。
さすがは冴木コーポレーションきっての若手イケメンエリート佐々木涼輔・二十七歳。何をしていても、様になる男。
佐々木は真央が戻ってきたことに気付くと新聞を脇に置き、にこやかに言った。
「さ、食べよう」
「……頂きます」
勧められた椅子に座り、小さく真央はそう呟いてしじみ汁に口を付けた。
「美味しい! しじみ汁ってこんなに美味しい物だったんですね」
「夜の付き合いが多いからね。しじみ汁はよく作るんだ。食べられるならこのじゃこの醤油漬けも食べてみて。つい先日、お袋が送ってきたばかりなんだ」
そんな会話を交わしながら、和やかに佐々木手づからの朝食を二人で食べている時のことだったのだ。
不意に佐々木が動かしていた箸を止め、真央の顔を見つめた。真央は小首を傾げた。
「馬渡さん」
「はい?」
「『かずや』って、フラれた彼氏?」
ドクンッと心臓がはねた。