うらじゃと温羅の裏事情?
この作品は、自身が主催する「夏祭りと君」企画、参加作品です。
「礼!」
「お願いしまぁすっ!」
観客に一礼し、舞台で連の演武が始まる。持ち時間は五分。
うらじゃ! うらじゃ! うらじゃ! うらじゃ!……。
やや現代的なうらじゃの原曲、力強い歌声に合わせ、連が舞う。そろいの衣装に顔に施された独特の温羅化粧。鳴子や扇子、旗、和傘を使う連もある。
しかしこの原曲も、参加者の衣装も温羅化粧も、全て伝統的な和を基調にしているものの、全て現代的なアレンジが加えられている。振り付けもまた、古典と現代が融合したような、若者にも受け入れられやすいものとなっている。
楽曲は「うらじゃ(原曲)」か「オリジナル曲」。ただし「オリジナル曲」の場合、局注に必ず「うらじゃ(原曲)」のメロディ(旋律)が連続して三十秒程度以上含む必要がある。
他、
「岡山の街・人・環境を大切にする事」
「参加人数は十名から百名まで(ただし市役所筋パレード・表町パレードの参加には十五名以上が必要)」「演舞時間は口上を含め五分以内」
「チームには専属のチームマネージャーが三名以上必要」
「公序良俗に反することなくマナーを守る」
など。
規定を守りつつ、昨年は百四十弱の連と約五十万人の観客が動員された。
岡山県岡山市で毎年8月第一の土日に開催される祭り、「おかやま桃太郎まつり」。その中の一つ、うらじゃである。
うらじゃには、幾つかの会場に分かれて設置されている舞台での演武、二か所の通りで行われるパレードとがある。
連とは、十人以上、百人以下のグループのこと。
連での踊りも壮観ではあるが、一般の当日参加も可能だ。連では十人以上の規定があるが、一般の当日参加者で連のように舞台で踊ることが出来る。法被の貸し出しと化粧を施してくれ、一時間程度の練習もある。本番でもインストラクターが付いて、踊りをけん引してくれるので安心だ。
さらに時間が許せば総踊りにも参加可能。
祭りのラストを彩る約一時間は、申し込みをした参加者に限定されず、踊り子・観客・裏方全てが一体となって踊りと熱気の渦を作る。
そんな祭り会場を、上から俯瞰して眺めるものがいた。
祭りを運営しているもの、参加者、観客のどれでもない。しかしある意味でこの祭りの『主役』でもある。
彼らの伝説をもとにして、作られたのが『うらじゃ』なのだから。
「まさか、こんな風に祀られるなんてねぇ」
阿曽媛の隣で、温羅は苦笑いだ。
下では、祭りのラストを飾る総踊りが展開されている。本格的な衣装を着ている、連の参加者。温羅化粧だけを施した一般客。ボランティア参加の法被を着たスタッフが躍っている。
「いや、祀っているというよりも、単に口実にされているだけでしょう」
穏やかな笑いを含んで兄に意見するのは、王丹である。
伝承では、温羅は渡来人で空が飛べた、大男で怪力無双だった、大酒飲みだった、等と散々ないわれようであるが、兄弟の外見はどちらかというと柔和だった。勿論、二人とも酒は嗜むがごく一般的な量。
体とてしっかりと筋肉がついてはいるが、筋骨隆々の大男とはお世辞にも言えず、優男と言っても通じそうだ。
「形なんていいじゃない。というよりも、どちらかというと悪役の私たちが主役よ、主役」
くすくすと、袖で口元を隠しつつ、阿曽媛が下を見る。阿曽媛の纏う小袖は今宵の祭りに合わせたのか、艶やかな朱色に牡丹の花が咲き誇りっていた。白く美しい頬にも赤で花をかたどった温羅化粧。
すっかり祭りに感化された姿である。
うらじゃ! うらじゃ! あ、それ、それ、それ、それ!
楽曲と、車の上からマイク越しに響く掛け声が熱気を煽っている。
「自分たちを『うらじゃ!』って連呼する祭りなど、中々ないのではないかしら?」
すぅ、と筆で紅を引いた目が笑みを形作る。可愛らしさと妖艶さの混じったような、雰囲気だけは鬼女らしい見目だが、本質は生真面目で少し悪戯好きな女だ。
「ああ、それは確かに珍しいかもな」
阿曽媛の隣で腕組みをする温羅の頬にもまた、媛の手により温羅化粧が施されていた。
己の名を関する化粧を己に施すのはこれ如何に、ではあるが、妻にやれと言われれば仕方がない。温羅は妻に滅法弱いのである。
服装も用意したのが阿曽媛のため、彼の小袖は水色に白と黒で波模様という、下で踊る連の衣装に似た柄だ。
『鬼』の伝承は多岐に渡るものだが、全体的に良くないものとされることが多い。鬼を祀る神社も少ない。
夏の祭りは明るく楽しく盛り上がることで邪を払いのけるという意味を持つのだから、このように踊るのはよくあるが、自らを『鬼』と名乗るのは珍しいだろう。
「そもそも俺たちは鬼神でもなんでもないのだがなぁ」
腕組みをした温羅がぼやく。
製鉄技術を伝えていたら、いつの間にか鬼ノ城の主とされていた。しかし鬼ノ城など勝手に人がそう呼んだだけであるし、一帯を支配した覚えもない。覚えもないのに吉備津彦命がやってきた時は焦ったものだ。話せばわかる人物であったのが幸いではあったが。
「それも関係ないわ。大体、『神』っていうのは人間がどう扱うかで本質が決まるものよ。鬼神として祀られてしまえば鬼神。荒魂、和魂、どちらに傾くかなんてものは信仰する『人』が決めること。『神』に決定権はないのよ」
さばさばと阿曽媛が言う。阿曽郷(現・総社市奥坂)の祝の娘、つまり巫女であった彼女は『神』というものが、単純な畏敬の対象だけでないと知っていた。
「それもそうだが。ただの人間だった俺が、鬼神とはいえ『神』として祀られるとはなぁ」
「あら、それも普通よ。神代の神話ならともかく、人代の神は元人間。神話なんて言ったもの勝ちよ」
すました顔でひょいと肩を竦める妻に、敵わないと温羅は心底思う。
『殺さず天寿を全うするまで生きる場をくれるなら、戦をしなくたって手柄も吉備も城も、みんな吉備津彦命のものになる。悪い話ではない筈だ』
当時、討ち取れと派遣されたからには何もしないわけにもいかない吉備津彦命と、別に地位に固執しなかった温羅。互いに利害が一致した。
吉備津彦命を説得したのは温羅だったが、そこからの作戦を考えたのは己の妻、そして弟の王丹である。
温羅に対して矢を一本ずつ射たが矢は岩に呑み込まれただの、二本同時に射て温羅の左眼を射抜いただの。
温羅は雉に化けて逃げ、命は鷹に化けて追っただの。あげくに温羅は鯉に身を変えて逃げたので、吉備津彦は鵜に変化してついに温羅を捕らえて温羅を討っただの。
どれだけ姿を変えるのか。どんな逃走劇だ。
そう、当事者の温羅が突っ込まずにはいられないような、いささか荒唐無稽の話をでっちあげた。
いい? かの有名な大国主命の神話なんてはっきりいってめちゃくちゃよ? 神話というのは大袈裟であり得ないくらいの方がありがたみがあるのよ、という阿曽媛の主張。
ならばと案を次々と出した王丹。
丸く収まるなら何でもいいと笑った吉備津彦命。
それに、吉備津彦命と共に派遣された弟の稚武彦命、吉備津彦命の忠実な家臣の犬飼武命。
さらに当地出身の家臣で智将であった楽々森彦命。
彼らが阿曽媛に乗っかって、ああでもない、こうでもないと意見を出し合った結果、一世一代の大芝居を打つことになった。
そうはいっても簡単にはいかず、思いがけない出来事も発生した。
討った証拠に首を晒す時の事である。
箱に入って首から上だけ出していたのだが、動かずにいるのは至難の業。そのうち眠くなってうたた寝をすれば、首を乗せた板が食い込んで痛いし矢を受けた傷も痛む。つい唸り声を上げてしまうし、時折不安になってそっと目を開いたところを目撃され、気味悪がられてしまった。
祟りだ、怨霊だ、鬼だと騒がれたので、温羅の首は犬に食われたことにして、早々に晒し首役から下りさせてもらったが、お陰でまた妙な伝承が追加された。
「それもこれも、後から見ればいい思い出だな。君らの機転で余生は穏やかだった」
討たれて死んだことになった温羅たちは、妻の神社へ身を潜めた。
神社でひっそりと生きるといっても、全ての人間から隠し通すことは出来ない。
そこで温羅は犬に食わせて骸骨にしても、御釜殿の下に埋葬してもうなり続けたということに。
折を見て吉備津彦命はもう一芝居。夢に温羅が現れ、温羅の妻である阿曽郷の祝の娘である阿曽媛に神饌を炊かしめれば、温羅自身が吉備津彦命の使いとなって、吉凶を告げようと言ったのだと皆に触れを出した。
温羅は占い師として余生を過ごし、天寿を全うしたのち、鬼神となった。
「桃太郎のモデルになったというのに、吉備津彦命はヘタレで穏健派だったから。戦わないで温羅を討ち取った功績が残せたし、製鉄で栄えた吉備を統治出来たし、一石二鳥。何かあれば神社で温羅から智恵も借りられるし。お互い様ってやつだったのよね」
「ちゃっかり吉備津神社の神にもなったんだから、今でいうウィンウィンの関係ってやつだよねぇ」
頬に『鬼』の漢字を崩した化粧を施した、王丹が笑う。
王丹は小袖ではなく、祭りで踊っている連が着ているような衣装で、黒地に紫と白、赤が大胆な紋様を描いている。妻のおぜん立て通りの温羅と違い、王丹の温羅化粧と衣装は彼自身が創り上げたものである。
幼い頃から聡明で柔軟な弟は、現代の風習や流行にも馴染んでいる。吉備津彦命と彼の供の三人を説得したのは大胆で強気な妻だけでなく、この弟の柔軟な発想が大きく貢献した。
一時間の総踊りが終わりに近づく。煽り手がマイクで声を張り上げ、最後の熱気が夜空へ燃え上がった。
「まあ建前も口実も、関係ないな。この踊りで、『温羅』の魂を天上に還すのは確かなのだから」
「ふふ。今年も楽しかったわね」
「来年はどんな衣装にするかなぁ。ね、兄者」
感謝の声。互いの健闘を称える声。祭りの感想。それらが飛び交う中、人間たちの熱気と無意識の祈りとともに、温羅たちは天に上っていく。
彼らの遥か下、地上で始まるのは、参加者自らの手による自主的なごみ拾い。
こうして祭りは形を変えつつも、次へと繋がっていくのだ。
作品内での『神』の定義は、人それぞれ解釈の違いがあると思いますが、作者のざっくりとした見解と主観です。
また、作中で語られる伝承は、実際の伝承をもとに作者によるフィクションを加えております。
おかやま桃太郎祭りに関しては、下記のホームページを参照しています。
第26回うらじゃ2019
http://uraja.jp/