アニャン、家を思い出して泣く
話し声がしていた。声をひそめている。衣擦れの音。
起きなきゃ、と思う。様子を窺わなくちゃ。でも、眠くて、頭も体もどんよりしたままで、うまく目覚められない。
そのうち、そっと首の下と膝の裏に腕を入れられて、ふわりと体が浮き上がった。ゆらり、ゆらりと揺れる。急に瞼に光があたった。吸い込んだ空気も新鮮だ。……外に出たのだ。
『公主の具合は悪いのか?』
男性の声だった。それにエウルが――私を運んでいるのは彼だ――答えた。
『いや、熱はだいぶ下がってきた』
『体が必要としているから、寝ているんだよ。こういう時は、ゆっくり寝かせてやった方がいいんだ』
奥様――パタラ――も何か言っている。
外は、なんだかざわざわしていた。あんなにシンとしていたのが嘘のようだ。遠くで、人の掛け声や動物の鳴き声がしている。それも、たくさん。そこへ、だんだん近付いていく。
いったいどうなっているのか。必死に重い瞼をこじ開けた。
白くて丸い建物――たぶん――が、広い草原に点々と、いっぱい立っていた。やわらかそうで、布みたいな物でできているように見える。入り口らしきところに、それぞれ違う綺麗な模様の布が掛かっていた。
それに、数え切れないほどの家畜が、あちこちに群れていた。その間を、人々が行き来している。
眠る前に見た時には、何もないだだっ広いばかりだった草原が、人と家畜と天幕で埋まっていた。
『耀華公主、起こしてしまったか。まだ眠かったら、寝てていいんだぞ』
エウルが優しい声で言いながら、胸元に抱き寄せるようにして、ぽんぽんぽんと背中を叩いてくれた。……目を覚ましてしまった赤ん坊をあやすように。
なんとなくそうじゃないかという気がしていたけれど、やっぱり、すごく小さな子と誤解されているみたいだ。
私はこう見えても十六歳だ。お嬢様が生まれた年の、次の年に生まれたと聞いている。それが、旦那様が私を買う理由の一つになったと言っていた。そのお嬢様が十七歳だというから、私は十六で間違いない。……たとえ、お嬢様より頭一つ分背が小さいとしても。こんな、あやされるような歳ではないのだ。
早く言葉を覚えて、伝えられるようにならないと。いつまでも、こんな甘えた扱いを受けているわけにはいかない。歳が知れた時に、きっと信用をなくしてしまう。
『エウル!』
遠くで、馬に乗った若い女性が、彼を呼んで手を振っていた。すごい勢いで馬を駆けさせてくる。馬を下りて、飛び跳ねるようにこちらへ近付いてくるのを、エウルに付き従っていた男性が前に出てさえぎった。
『スウリ、何をしに来た。母さんの手伝いをしなきゃ駄目だろう!』
『兄さん、うるさいなあ。大急ぎで全部終わらせてきたよ。私、そういうことは、手早くきちんとできる女だもの』
女性はうるさげに男性を押しやると、ぱっとエウルに笑いかけて、私の足をよけてまわりこみ――邪魔にならないように、私もとっさに足を引っ込めた――、なれなれしく彼の腕に触れた。上目遣いで見つめている。……ああ、彼女はエウルが好きなのだ。もしかして第二夫人なのだろうか?
『エウル、遅かったね! 心配してたんだよ、卑怯な帝国の奴らに何かされたんじゃないかって』
『そんなことはない。すべて約束は守られた。馬に不慣れな耀華公主に合わせて、ゆっくり帰ってきただけだ』
『帝国の王の娘は馬にも乗れないの! へえ!』
女性はちらりと私を見て、小ばかにしたように鼻を鳴らした。棘のある視線に身がすくむ。
エウルは体を引いて、彼女の手から離れ、固い声で返した。
『耀華公主を貶めることは許さない。彼女は、皇帝の住まう場所の奥深くで外にも出されず大切に育てられた、高貴な身分の女性だ。馬で移動する必要もないような暮らしをしていたのを、閻と帝国の和平のために、身一つで来たんだ。こちらのことに不慣れで当然だ』
『何もエウルが貧乏くじ引くことないじゃない。ハシェルが夫だっていいでしょ? なぜ私がいるのに、エウルが帝国の女なんかと結婚しなきゃならないの!?』
突然女性は怒りだし、エウルは眉を顰めた。さっき女性をさえぎった男性が、女性の腕を引き、エウルから遠ざけようとする。……そうして近くに並んでいるのを見ると、二人の顔はよく似ていた。彼女達は兄妹なのかもしれなかった。
『やめろ、スウリ。おまえはエウルの妻にはなれない。なれないんだ』
『いや! 離して、兄さん! エウルが好きなの! エウルだって、私のこと一番に可愛がってくれてたのに!』
『何度も言っただろう。俺の妹だからだ! 義兄弟の妹なら、自分の妹も同じだからだ! だから、おまえを可愛がった。それ以外の意味なんか、ないんだ!』
『そんなわけない! そんなわけない! 帝国の女と結婚しろと命じられたから、そんなこと言いだしたんだ! エウルは絶対私が好きなんだよ、ねえ、そうだよね、エウル!』
女性は必死に男性を振り払おうとして、エウルに助けを求めるまなざしを向けた。
『いいや。スウリ、蒼天に懸けて言うが、俺はおまえを女としては好いてない。スレイの妹だから、俺も自分の妹として扱った。妻にするつもりはないし、一度だって妻にしようと思ったこともない。俺は耀華公主と結婚する。おまえは誰か他を探せ』
『嘘! 嘘! 嘘! 嘘!』
女性は叫んで暴れた。男性はとうとう、羽交い締めにして彼女を止めた。そんな彼女に、エウルはさらに言いつのった。
『俺は、耀華公主を守るために生きて、死ぬ。彼女は蒼天が俺に与えてくれた、定めの伴侶だ』
『そんなわけない! そんなわけない! エウルの定めの伴侶は私だもの! そんな女っ、』
『スウリ! いいかげんにしろ!』
男性が女性の膝を折らせてひざまずかせ、口に背後から腕をまわして塞いだ。後ろ手にひねりあげているようで、彼女は動けなくなってしまった。男性はこちらを仰ぎ見て言った。
『すまない、エウル。これ以上、スウリをおまえに近付けさせないようにするから』
『ああ。そうしてくれ、スレイ。ルツにも伝えろ。スウリを、俺と耀華公主に近づけることは許さないと』
『仰せのままに』
かしこまった男性と、振りほどこうと唸っている女性から、エウルはふいっと顔を背けて、歩きだした。
『ふうん? 定めの伴侶なんだ?』
パタラが隣を歩きながら意味ありげな目つきでエウルを見遣って、ニヤリと笑った。あんな緊張したやりとりがあったのに、からかったように見える。
エウルは聞こえてないわけはないのに、無言で足を速めて、パタラを振り切るように歩いて行った。
青い垂れ幕が鮮やかな建物に運び込まれ、ベッドに下ろされた。
中は驚くほど広かった。背の高いエウルが、屈むことなく立てる。それに、思ったより明るい。天井部分が丸く開いていて、そこから光が降りそそいでいた。
真ん中に炉が据えてあり、そのまわりには椅子や机が置いてある。
斜交いに組んだ木材でぐるりと囲まれた壁には、棚やベッドが並んでいて、私は右側にある一つに座っていた。家具がないところには道具が整然と掛けられ、天井からは、動物の肉らしき物がたくさんぶらさがっている。
何もかもが違うのに、なぜか見れば見るほど、もう何年も帰ってない実家を思い起こさせた。
『ほら、公主。起きたならちょうどいい。馬乳酒をお飲み』
パタラが白い飲み物の入った杯をくれた。
あ。これは『ばぬすだよ』だ。今、語尾が違ったから、ただ、『ばぬす』かもしれない。
パタラは私の隣に座って、エウルは立ったまま杯をあおった。
私が飲み終わるのを見届けると、パタラが杯を持ち去っていき、エウルは私の背に手をあてながら肩を押して、ベッドに寝かせようとした。
「わ、私、パタラのお手伝いをします!」
ベッドに手を着いて、拒む。
パタラは壁際の棚の所で、何かしようとしていた。たぶんあれは杯を洗おうとしているのだし、あの棚に積んである平たい物はお皿だろう。
家事なら、こんな体調でも失敗せずに手伝える。第一夫人が仕事しているのに、若輩者の私が寝ているわけにはいかなかった。
『どうした。叔母上がなんだ?』
『なんだい? 私を呼んだかい?』
彼女が振り返った。
「私、お手伝いします!」
『なんだろうねえ。馬を見に行きたいのかい?』
こちらにやってくるパタラに、私は「違う」と横に首を振った。『うまをみにゅいく』ではない。
『何をそんなに思い詰めた顔をしているんだろうねえ。エウル、わからないのかい? ほら、よく、あんたは、馬や犬や羊や山羊と話しているだろう?』
『あれはそんなにたいしたこと話してるわけじゃない。なんとなくそうだってだけで、人みたいに細かいことまでやりとりできるわけじゃないし、話を聞くよりも、どちらかと言ったら、言い聞かせてるだけだ。
だいたい、俺が人の心が読めるわけじゃないのは、叔母上だって知ってるだろ。
もしできるんだったら、「これだから男は」ってわけのわからない理由で、しょっちゅう怒られたりしてない』
『違いない! そうだったよ!』
パタラは笑って、エウルを追い払う仕草をした。
『外でまだいろいろやることがあるんだろ? 公主のことは私が見てるから、行っておいで』
『……わかった。叔母上、耀華公主を頼む。
耀華公主、ゆっくり休め』
エウルは私の肩を優しく叩くと、外へ出て行った。
『どうしたんだい? もう眠れないのかい?』
床に膝をついたパタラに、問いかけるように顔を覗きこまれる。私も同じく床に下りようと体を動かしたら、ぐらりと上下がわからなくなって、あわてて手を着いた。
『ほら、言わんこっちゃない。まだおとなしく寝ておいで』
どうされたのかわからないうちに、パタラに手早くベッドの上に転がされた。肩を押さえられて、起き上がれない。どうしていいのかわからず、不安で彼女を見上げると、そっと目の上に手を置かれて、視界を遮られた。
足下にあった上掛けが、肩まで引き上げられる。それで、ぽん、ぽん、と赤子を寝かしつけるように肩を叩かれだした。
『いい子だから、もう一眠りおし』
それが優しくて、心地よくて、不安がすーっと消えていく。そのかわり、切なくなってきて、涙がこみあげてきた。
パタラは母さんを思い起こさせる。「私の一番目の娘」と呼んで、可愛がってくれた母さんを。
母さんだけじゃない、父さんだって兄さん達だって、可愛がってくれていたのだ。弟妹だって私に懐いていた。……売られてしまった、あの日までは。
酷い年だった。雨が降らなくて、作物がどんどん枯れた。毎日お腹が空いてたまらなかった。家族の顔も痩せこけていった。もう限界だってわかってた。私が売られなかったら、幼い弟妹から飢えて死んでいただろう。
……私は死なないで、旦那様のお屋敷で働き続けた。お嬢様の代わりに北の蛮族に嫁いできた。それで買われた分のお金になっただろうか。私の代わりに誰かが働けなんて言われてないだろうか。
家族は皆、元気かな。もう一度、家族に一目だけでも会えることを希望にして生きてきた。あの人達が生きていてくれると思うだけで、どんなに辛くても、自分もまだ生きていようと思える。
……でも、きっと、もう二度と帰れない。いや、帰ってはならない。
何年も前に後にしてきたきりの家が思い浮かび、すぐに消えて、『うまをみにゅいく』時に見た、何もない広い草原が思い出された。
さえぎる物のない天地の間に、ぽつんと一人で立ちすくんだ。恐ろしいほどの孤独。
……ああ、なんて遠いところに来てしまったんだろう。一人は嫌だ。家族に会いたい。家に帰りたい。寂しい。寂しいよ……。
涙がこみあげてきて、私は上掛けをひっぱり上げるふりをして、顔を隠した。これ以上、この優しい人の前で失態を重ねたくなかった。
……泣いたら駄目。泣いたら軽蔑される。
幸い、パタラの手が目元から離れていき、その隙に寝返りを打って、彼女に背を向けた。
『可哀そうに。こんな子供に、皇帝も酷なことを命じたもんだよ』
何事か呟き、パタラは背中を撫でさすってくれた。私は伝わらないようにと、必死に嗚咽を抑え続けた。