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アニャン、笑みを返す

 目の前は、どこまでもどこまでも草原だった。よく見ればでこぼこしていたり、ずっと遠くに丘とか岩山みたいなのがあるのだけど、呆然とするくらい緑色の平坦な地面が続いている。

 思わず振り返ったテントの向こうは、低い山と林があった。でも、そこに生えている木が、あまり見たことのない細い葉の木ばかりで、私の知っている林の姿と、やっぱりずいぶん違う。


 どこに連れて行かれるんだろう。何が始まるんだろう。


 彼らから悪意は感じられなかった。どちらかと言えば気遣われている気がする。けれど、だからといって安全かというと、違う。

 旦那様がお嬢様の身代わりになるまで私を雇ってくださっていたように、雌鶏が卵を産まなくなったら絞めてしまうように、それまではちゃんと面倒を見るものだ。


 テントや他の男達や馬から、どんどん離れていく。……何もない方へと。

 エウルと女性は、時々言葉を交わしていた。とても親しげなのがわかる。ただの仕事仲間とか知り合いという感じではない。まるで情を交わした侍女と護衛みたいな、通じ合っているものがあった。

 やはり夫婦なのだろう。どうやら、私が寝ている間に仲直りしたようだった。


 嫌な予感に、動悸が激しくなっていく。

 彼らは、私をどうするという約束で、仲直りしたんだろう……。


『ここならどうだ』

『ああ、いいね』


 ゆるやかな下りの途中で下ろされた。テントは勾配のせいで見えなかった。草以外何もない場所だった。


『上で待っている』


 何かを言って、エウルが背を向けた。そのままもと来た方へ登っていく。私は呆然と突っ立って、その背中を見送った。

 ……捨てられた。

 気遣われているなんて思ったのは、勘違いだった。私なんかにそんなことしてくれる人、いるわけがなかったのに。

 へなへなと座り込んだ。

 こんな何もないところに置いて行かれて、どうやって生きていったらいいのかわからなかった。帝国に帰る道もわからないし、そもそも帰る場所もない。家にも、お屋敷にも、もう帰ってはいけないのだから。

 何も考えられなくて――考えたくなくて――、膝に巻き付けた腕の中に顔を押し付けた。


『公主、公主、大丈夫かい? 我慢できないくらい具合悪いのかい?』


 ふいに肩をゆすられ、驚いて顔を上げた。横にエウルの奥様がしゃがんで、心配げに顔をのぞきこんでいた。


『用を済ませたいんじゃないかと思ったんだけど、……ああ、なんて言ったらいいんだろうね』


 困ったように逡巡して、そのうち上着をめくりあげ、ズボンの紐を解いて、脱ぐ仕草をした。


『わかるかねえ。私はあっちでしてくるよ。公主はここでするといいよ。いいかい? いいね?』


 ぽんぽん、ぽんぽん、と何度も軽く私の腕を叩き、彼女は『あそこ』と指を指して、その場所に離れていった。手を振り、背を向けて、さっきの仕草の続きをはじめる。


 ……どうやら置いていかれたわけではなかったらしい。そうじゃなくて……。

 どっと安堵が襲ってきた。同時に忘れていた生理的なものを思い出して、私も背を向けて、そそくさと用をすませた。

 身だしなみを整え、少し離れたところに移動して立つ。奥様も近付いてきて、『エウル!』と勾配の上に向かって大声で呼んだ。

 丘の上から彼が顔を出し、飛び下りるみたいにして数歩で目の前にやってくる。当然のように、また抱え上げられた。


『馬を見に行く、だよ』


 奥様が私の正面に来て、それが癖なのだろう、ぽんぽんと腕を叩いて笑んだ。


『さあ、言ってごらん。馬を見に行く』


 ゆっくりと繰り返されて、エウルにもそうされたことを思い出した。あ、と気付く。

 言葉を教えてくれようとしているんだ。

 私は不思議な思いに囚われ、二人を交互にまじまじと見た。

 旦那様のお屋敷では、いつだって指図だけされて、一人で置いていかれた。誰も何も教えてはくれなかった。そんな当然のことも知らないのかと、怒鳴られ、蹴られながら、怒られない方法を探り当ててきたのだ。

 なのに、この人達は教えてくれようとしている。……獣みたいだと噂されている、蛮族と呼ばれている人達なのに。


『馬を見に行く』


 黙っている私に、奥様が辛抱強く繰り返す。私は急いで真似てみた。


『ぬ、ぬまおみにゅ、ぬ、……ぬにゅ』

『そうそう。馬を見に行く』

『ぬまおみにゅいく』

『馬』

『ぬ、……う、うま?』

『馬を見に行く』

『うまおみにゅいく』

『そうだよ。うまく言えたね。馬を見に行きたくなったら、私を呼ぶんだよ』


 彼女はにこにこと、馬を見に行く、と繰り返しながら、自分の鼻を指して見せた。私は、こっくりと大きく頷いてみせた。おそらく、彼女に『うまをみにゅいく』と言えば、こうして連れてきてくれると言っているのだ。

 彼女の笑顔に裏は感じられなかった。ただ普通に気遣ってくれている。

 ……何てお優しい奥様だろう。この方が第一夫人で良かった。

 安心したら、なんだか涙がにじんできて、あわてて顔をうつむけて瞬きをした。

 涙を人に見せたらいけない。不愉快な気分にさせてしまう。私はこの人に嫌われたくなかった。


『知らない言葉で不安にさせてしまったかね。でも、ここで生きていくのだから、覚えるのが一番なんだよ。

 大丈夫だよ、私はエウルの母親にも教えたことがあるからね。ミツウェルもゆっくり覚えていったよ。それで、四人も子供を産んで、ここの人間になったんだ。だから、公主も大丈夫。

 ……ああ、しまった! 私としたことが、名乗ってなかったよ!』


 突然大きな声をあげた彼女に、ぽんぽんぽんぽんと、忙しなく背中を叩かれた。涙を指で拭いて顔を向ければ、彼女は自分の胸元を叩きながら、『パタラ』と何度か言った。きっと、名前だ。


「はい。パタラですね。私は耀華公主と申します。どうぞよろしくお願いいたします」


 エウルに抱えられたままだったけれど、とにかくできるだけ丁寧に挨拶をした。考えるように瞬いた彼女に、エウルが口を挿んだ。


『耀華公主だ。輝く花という意味だそうだ』

『そうかい。綺麗な響きの名前だねぇ。私こそよろしくね。耀華公主』


 彼女がにこりとする。私もつられて笑った。


『おや、まあ、笑ったよ、可愛いこと! よかった、よかった。よほどあんたを怖がったら、近付けないつもりでいたんだけど、こうして見てると、そうでもないようだね』

『本当か、叔母上!?』

『今だって、怖がっているようには見えないよ。緊張はしているみたいだけどね。知らない場所に来たばかりだもの、それは当然のことさ。……あんた、だからって、がばっと行くんじゃないよ。うちとけるまで待ってあげるんだよ』

『わかってる。警戒心の強い馬に近付くみたいにすればいいんだろ?』

『……馬じゃないって言ってるだろう……』

『わかってるって! 物のたとえだ!』


 エウルは坂を登って、テントへと向かった。途中で、どこからともなく黒い犬が二匹走り寄ってきて、落ち着きなくエウルの足下を行ったり来たりしだした。……私を見ながら。私のことが気になっているようだ。大きくて、ちょっと怖い。


『今日はまだ駄目だ。耀華公主は本調子じゃないから。もっと元気になったら遊んでやるから、あっちへ行って、知らないのが来ないか見張ってろ』


 エウルは腰の物入れをごそごそやって、何かを犬達に放った。二匹とも上手に、空中でぱくっと咥えて、横目で私をチラチラ見ながら、しばらくもぐもぐとやった後、エウルにシッシッと追い払われて、草原へと駆けていった。


 テントの前で、エウルは私を下ろした。入り口をめくってくれる。中に入ると、杯を二つ持ったパタラも入ってきて、杯を渡された。前回飲んだのと同じ物が入っていた。


『馬乳酒だよ』

『ばぬすだよ』


 できるだけ発音を真似て返してみると、パタラが、ぱっと笑顔になった。


『そうだよ! 馬乳酒。馬乳酒だよ!』


 腕を叩いて褒めてくれた。


 水も飲み終わった後は、横になるよう促されて、マントを掛けてもらった。

 この頃、何日もこんな生活ばかりしていると思っているうちに、怠さに負けて、とろとろと眠ってしまったのだった。

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