アニャン、困惑する
『あんた、本当に、何をやったんだいッ! こんなに怯えさせて! さっさと出てお行きーッ!』
女性がひときわすごい怒声をあげ、男性は風のようにテントから逃げ出していった。
どうしよう。怒り狂っている女性と、二人きりにされてしまった。とにかく恐ろしくて、頭を抱えてうつぶし、震えが止まらない。
何がどうなっているのか、ぜんぜんわからなかった。怒鳴りあう声で目を覚ましたら、自分は薄物一枚になっていて、やっぱり相手も胸元をはだけたしどけない格好の男性と、薄暗い狭い中で寝ていた。
たぶん、あの三白眼気味の鋭い目つきは、エウルという人じゃないかと思うのだけど、それも確信が持てない。兜の頬当てのせいで、顔の全体がちゃんと見えてなかったから、顔を覚えてないのだ。
……それで、私、あの人と男女の交わりをしたのだろうか?
それがやっぱりよくわからなかった。震えながら、必死で体の感覚をさぐってみる。
……頭が痛くて体がだるい。
確か、『初めての時』に痛いのは、頭じゃなかった気がする。……ああ。年上の侍女達が、「あんたみたいなのろまを相手にするような男は、いないだろうから」と嗤いつつ匂わせていたものを、もっとよく聞いておけばよかった。たとえ、教えてもらう代わりに、何か用事を押しつけられたとしても。そうしたら、今、こんなに困ったことにならなかったかもしれなかったのに。
自分は、お嬢様の代わりに閻の王子の妻になるために来たはずで、男女の交わりをするのは当然の義務であり、自分に拒否する権利はない。
でも、この女性はとても怒っている。胸と尻が大きく張った気の強そうな美人。……もしかして、彼女が彼の本当の妻なのだろうか。だったら私は、本来嫁する相手ではない男と契ってしまったのだろうか。
……浮気や遊びの相手にされたのかもしれない。だとしたら、閻の王子に差し出された身として、とてもまずい気がする。
それとも、私は何人目かの妻ということなのだろうか。皇帝陛下は百人もの妻を後宮に抱えているという。旦那様にも、別宅に妻女がおられると聞いていた。別宅なのは、妻同士が会えば喧嘩になるからだ。……まさに今のこの状況のように。
どうしよう。怖い。
女性は激しい気性のようだった。男を怒鳴りつけ、追い出してしまったぐらいなのだから。これからどうされるのだろう。死ぬまで折檻されるんだろうか……。
『もう大丈夫だよ。怖い顔の男は追い出したからね』
穏やかな声がして、肩に触れられた。お嬢様が一度蹴飛ばした後に出す、倒れた私に掛ける猫撫で声に似ていた。もっとひどくたくさん蹴る前に、必ずお嬢様はそういう声を出す。
「かわいそうにねえ、のろまに生まれたばっかりに、人様に迷惑ばかりかけて。恨むなら、のろまに生まれた自分を恨みなさいよね」と。
私はなるべく身を縮めた。頭を覆う腕に力を込める。腹や頭を蹴られたら死んでしまう。
「申し訳ございません、申し訳ございません、申し訳ございません……」
途中から言い忘れていたのに気付いて、あわてて唱えた。
言っている途中で、いつまでたっても相手が黙っているので、言葉が通じないことを思い出した。それでも、自分の知る言葉で繰り返すしかない。言わなければ、自分の罪がわかってないようだねと、もっと酷くされる。
だけど、いつまでたっても拳も足先も襲ってはこなかった。それどころか、肩に置かれた手が、優しく背中をさすりだした。何度も何度も何度も、いたわるように。……まるで、幼いころ熱を出して寝込んでいると、寄り添ってさすってくれた、母の手のように。
『大丈夫かい? ごめんなさいね。あの子も、あんなむさくるしいなりをしているだけで、悪い子じゃないのよ』
穏やかに語りかけてくる声に、恐る恐る顔を上げれば、女性はさっきまでの悪鬼の形相が嘘のように、やわらかな表情を浮かべていた。
『あんな大男に取っ捕まっていきなり服を脱がされたら、そりゃあ怖いわよね。私が来たからには、絶対に無体ははたらかせないから、安心しておくれね』
何を言われているのかわからなくても、怒ってないのは感じられる。ふーっと体のこわばりがとけて、震えが止まった。……この人は、私に対して怒るつもりはないらしい。
『熱はどうだい? ああ、まだ高いね。いつまでもそんな恰好じゃいけない。着替えを持って来たよ。着てごらん』
女性は私の首筋に手をあてて――たぶん熱をみてくれた――、袋を引き寄せ、中から出した見慣れない服を手渡してくれた。広げてみれば、女性が着ているものとよく似ている。手伝ってもらいながら身に着けると、軽く、あたたかく、動きやすかった。女性は最後に、私の背からマントを掛けて包んでくれた。
外で近付いてくる足音がして、すぐ側で止まる。女性は手をテントの合わせ目から外へと突き出し、外の誰かから受け取った杯を、私にくれた。
中には、白く濁ったどろりとしたものが入っている。独特の臭みがあった。
外から男性の声が聞こえ、もう一つ杯が差し入れられた。女性は同じものが入っているのを見せてくれながら、何事か言った。
『馬乳酒だよ。喉が渇いただろう? 栄養もあるんだ。さあ、お飲み』
女性がくーっと飲み干す。私も思いきって口に含んでみた。思ってもみない酸味に驚いたけれど、臭みは口に入れてしまえばあまり気にならなくて、くせになる爽やかな美味しさに、ごくごくと一息に飲んでしまった。
『さあ、もうひと眠りするといいよ。私が側に居るからね』
女性が杯を取り上げていき、私の肩を押す。横になれと言っているのがわかり、おとなしく従った。マントをしっかり掛けなおしてくれる。彼女もまた、私の横に寝転がった。
『おやすみ』
ぽん、ぽん、と優しく腕を叩かれた。彼女は、にこりと笑いかけてきてから、目をつぶった。
あたりが静かになる。テントの中は日がさえぎられて薄暗く、それにちょうどよい暖かさだった。ほっとすると同時に、どっと具合い悪さがぶりかえしてくる。
私も目をつぶると、頭のてっぺんからつま先まで、体の中に泥が詰まっているように感じられた。
ずるずると引きずりこまれていくように、すぐに重苦しい眠りに落ちていった。
ぼんやりと、用が足したくなってきて、目が覚めた。そうしたら、部屋の中がうっすら明るくて、私はあわてて飛び起きた。
「ああ、やだ、どうして寝坊なんかっ!?」
私が日の出前に水汲みしないと、ご飯の支度もできない。旦那様方のお食事が遅れたりしたら、大変なことになる。
涙がにじんでくる。ぼやける視界を拭いながら、いつも枕元に置いてあるはずの前掛けを探した。
「あれ? ない、ない、ない、ない! 前掛けはどこにいってしまったの!?」
『どうしたんだい、寝ぼけて。落ち着きなさいな』
唐突に腕を取られて、びっくりした。相手の姿は、暗すぎて輪郭だけしかわからない。腕を引いてみても、離してくれない。早く行かないといけないのに! 何か用事があるのだろうか。それを済ますしかないらしく、私は早口に尋ねた。
「何のご用でしょうか?」
『起きたならちょうどいい、少し身だしなみを整えようね。いくらなんでも、そんなんじゃここから出せやしないよ。……そんなだから、てっきり、激しいことやらかしたかと思ったんだよ。まったくエウルにも困ったもんだ』
エウル。聞き覚えのある名に、はっとした。それであたりを見まわせば、寝床部屋だと思っていたのは、もっとずっと狭い場所だった。
……あ。私、お嬢様の身代わりになって、北の蛮族に嫁いできたんだった。
夢みたいな記憶を思い出す。
『おや、落ち着いたようだね。よかったよ。熱の具合を見せてごらん。……まだ少し高いねえ。無理をさせないように、エウルたちに言わないと。
あの子たちったら揃って馬鹿みたいに体力だけはあるから、無茶ばかり言うんだよ。性根は悪くないんだけど、どうにも繊細さがなくてねえ。まあ、男なんてどれもこれも似たようなものなんだけどね。
ああ、そういえば、言葉が通じないんだっけ。話せるようになったら楽しいだろうね。私は娘がいないから、結婚前の娘と暮らせると聞いて、とても楽しみにしていたんだよ。
さあ、髪を梳かさせておくれ』
女性は櫛を取り出して、私の髪を丁寧に梳かしてくれた。三つ編みにしてくれる。靴も履かせてくれ、それが終わると、テントの一部を持ち上げ、外へ上半身を出した。
『エウル!』
大きな声で呼ばう。走る足音が近付いて来る。女性がその人と会話するのが聞こえてきた。
『公主はどうなんだ? 大丈夫なのか? 熱は?』
『まだ高いよ。もうしばらく安静にしてなきゃ駄目だね。あんたを呼んだのは、馬を見に連れて行ってあげた方がいいんじゃないかと思ってね』
『馬? いや、叔母上、いくらなんでもそういうことは、もう少し元気になってからの方がいいと思うんだが』
『何を言ってるんだい。本当に馬を見せに行くんじゃないよ。用を足しに行くってことだよ』
『え? じゃあ、叔母上は馬が好きでしょっちゅう見に行ってたんじゃなかったのか!?』
『何を頓珍漢なこと言ってるのかね、この馬狂いは! 私はあんたほど馬が好きなわけじゃないよ! いいから、公主を抱いて連れ出してやっておくれ!』
女性が出て行き、男性――エウルと呼ばれていた、彼がエウルだ――が覗きこんできた。私に向かって両手を差し伸べてくる。
『耀華公主』
「は、はい」
テントの天井は低く、歩けるほどはない。私は這ってそちらへ行った。
出入り口で止まって彼を見上げると、彼は私の脇の下に手を入れて、ひょいっと持ち上げた。いきなり外に出され、ぶらんとぶらさげられる。あまりのことに、這っていた変な姿のまま体が強ばった。
『ああ、もう、あんたって子はッ。相手は荷物じゃないんだよ、女の子なんだよ、もう少し丁寧に扱えないのかいッ!?』
『いや、そんなつもりではなかったんだ。あんまり軽くて、俺もびっくりした』
抱き寄せられ、赤ん坊か何かのように彼の肩に顔を乗せられて、背中をぽんぽんと叩かれた。かと思ったら、今度は頭を押さえられ、頬に彼の頬が押しつけられる。
『熱はどうだ? ん。確かに高いなあ』
頬が離され、顔を覗きこまれた。
『……まだ辛いな。大丈夫だからな。連れて行ってやるからな』
鋭い目つきの眉尻が下がっているように見える。……心配されているらしかった。
『……おい、ウォリ!』
彼が他へ顔を向けて、遠くへと呼びかける。つられてそちらを見れば、鎧を着た男の人が何人かいた。
『なんだい、大将!』
『アイルを呼び寄せる。行ってきてくれ!』
『はいよ。任せな! ひとっ走り行ってくらあ!』
返事をした男の人は、馬に飛び乗って走り去っていった。
エウルは私を抱いたままあたりを見まわした。
『あっちがいいんじゃないかい?』
『ああ、そうだな』
彼は頷いて、私を抱いたまま、女性が指さした方へと歩きだした。