エウルの叔母は激怒した
外が騒がしい。俺は緩慢に頭を上げて耳を澄ませた。犬たちは威嚇してないし、腹心達の怒声も聞こえない。それになにより、近付いてくる荒々しい足音は、聞きなれた叔母上のものだ。
ぱさりと入り口が開かれ、夕日が差し込む。薄暗さに慣れた目には眩しく、思わずつぶった。
「あんたって子はッ!」
「いだだだだっ」
叔母上の鋭い詰り声とともに、耳に激痛が走った。反射的に叫び声をあげて、耳が引っ張られるままに体を起こす。
「こんなところですぐさま手を付けるなんて、どういう了見だい! せめて気心が知れるまで待ってやることもできなかったのかいッ!? まったくあんたは、女を何だと思ってるんだ、馬じゃないんだよッ!? そんなに馬がいいなら、馬とでも番えばよかっただろう! ああ、情けないったらありゃしないッ! どこで育て方を間違ってしまったんだろうねッ!? これじゃあ、蒼天にいるミツウェルに顔向けできやしないよ!」
叔母上が悪鬼の形相で怒り狂っている。死んだ母の名を持ち出すのは、逆鱗に触れた時だ。まずい、明らかに誤解している。最早耳はちぎれそうで、俺は大急ぎで弁解した。
「お、叔母上! 待てっ、待てっ、よく見ろ! 俺は下着を脱いでない! 彼女も下着を着ている!」
「ああんッ!?」
この期に及んでまだ言い訳をする気か、このクズが、という目で睨みつけられたが、それでも俺達の状態を注意深く観察する目つきになった。
「……ふうん?」
「彼女の具合が悪くなったと知らせをやっただろ! それで叔母上は来てくれたんじゃないのか!? 酷い熱を出していたんだ! 震えてたから、体を温めてやっていた。それだけだ!」
「ああ、そうかい。だったら私が来たんだから、さっさと出てお行き!」
「わかった、わかった、わかったから、耳を離してくれ!」
「おや、すっかり忘れていたよ」
と言いながら、最後に挟む力をゆるめないままに勢いよく引っ張られた。
「いっ!!」
痛い! 俺は涙目になって耳を押さえた。
叔母上に、さっさとしな、と目線で脅される。そっとマントや服の下から抜け出ようとして、あ、と驚き、ほっとした。彼女が目を開けて、ぽかんと俺達を見ていたのだ。
「よかった! 耀華公主、目を覚ましたのか!」
きょろ、と彼女が俺を見た。それから俺の体に目をやり、くっついている自分の体を見下ろし、みるみる顔を強張らせていく。
「なっ、なにもっ、してないっ、体を温めてやってただけでっ、ほらっ、寒がってただろ!?」
というのは、意識がなくて覚えてないだろうというのを、俺は絶望的な気持ちで思い出した。
彼女があわてた様子でうつぶし、手足を縮めて、額を地面につける。
『申し訳ございません、申し訳ございません、申し訳ございません……』
何事か帝国の言葉で同じことを繰り返しながら、その姿のまま動かなくなった。どうやら謝っているみたいだ。
「なんだ、どうしたんだ、まだ熱があるだろう、ゆっくりしてていいんだ」
触れると、びくっと震えて声を途切れさせ、それどころか、ぶるぶると震えだす。
「あんた、本当に、何をやったんだいッ! こんなに怯えさせて! さっさと出てお行きーッ!」
叔母上が雷を落とし、彼女が頭を抱えていっそう体を縮め、俺は弾かれたように手を離した。今にも殴りかかってきそうな叔母上の脇をすり抜け、剣を持ってテントの外へ飛び出す。
振り返ると、代わりに入っていった叔母上が、俺の服を外へポンポン放り出すところだった。
「馬乳酒を器へ入れて持っておいで!」
俺はしかたなく寒さに鳥肌を立てながら服と鎧を集め、それを抱えて、ニヤニヤとこちらを見ている腹心達のところへ向かった。
「ずいぶんお楽しみだったみたいじゃないの、大将。公主はどうよ?」
叔母上を連れて帰ったばかりのウォリが、からかい調子で問いかけてきた。
こいつの軽口、少しどうにかならないものか。俺は苛立って、奴に靴を投げつけた。
「馬鹿言うな。すごい熱を出してるんだぞ。それに子供だ。手を出すなんてできるか」
「あー、そりゃあ心配だなあ」
心を痛めた表情で、テントを見遣る。お調子者だが、一番繊細で優しいのもこいつだ。俺の足下に跪いて靴を履かせてくれつつ、そわそわとして、何かしてやれることはないかと、見に行きたそうにしている。俺は怒りが引いて、上着に腕を通しながら苦笑した。
「叔母上が、馬乳酒を持ってこいって言ったんだが」
「ああ、パタラ様に命じられて、一袋まるごと載せてきた! ちょっと待ってな!」
ウォリは馬車へと身軽に走って行った。すると、馬車の荷物を確認していたらしいナタルも、振り返って尋ねてきた。
「野営は何日するつもりだ?」
ナタルは飯のことが気になってしかたないんだろう。飯のない状態をものすごく嫌うから、食料がないとなると、狩りなり採集なり、なんとか食料を調達しようと奔走する。気が気でない様子の彼に、今回はその心配はないことを伝えた。
「ここにいても埒があかない。明日、できたら馬車に乗せて宿営地へ連れて行くつもりだ。それが無理そうなら、配下の遊牧集団の方を呼び寄せる」
もしも罠だった場合、帝国が攻め込んできて、女子供のいるアイルを襲われたらたまらない。それで、少し離れたところで宿営させておいた。だが、こうなってみると、それが裏目に出てしまった。
本当は、こうして動けず、少人数で居るのは、とても危ない。
他の近隣部族は、この婚姻をよく思っていない。帝国と強い絆を持つことになるうちの勢力が、大きくなるのを恐れているからだ。
そしてもしかしたら、部族内にも反対者は居るのかもしれなかった。長年の敵である帝国の皇帝の血が、王族に入るのを嫌う者は多いのだ。
それに一番考えたくないことだが、王位継承候補からの辞退が認められても、皇帝の娘婿になった俺の地位は、ある意味特別なものになる。それで逆に王位を狙っていると思われ、兄や弟をこそ王位に就けたいと願う、その配下の者に襲われる恐れもあった。
今回のことに、父や兄なら、少なくともアイルの男達を武装させて同行させただろう。目付役達も、そう進言してきた。
……だが、俺は臆病なのだ。どうしても、何かあった時に、最小限の被害で済むようにと考えてしまう。誰かの命を失わせるかもしれない選択をするのが怖い。できるならば、したくない。
それでも、ここに連れてきた五人だけは別だと心得ている。幼い頃から俺の腹心となるよう育てられたこいつらは、俺より後に死ぬ気はないし、もし死に後れたりしたら、己の命を顧みず、何としても仇を取ろうとするだろう。
だから、こいつらの覚悟に、俺も覚悟をもって応えるつもりだ。こいつらとは、生きるも死ぬも一緒なのだと。
ナタルが杯を二つ用意し、ウォリが注いだ。公主と叔母上の分、二つということだろう。公主の分だけでいいかと思っていたが、確かに叔母上だって、疲れて喉も渇いているよな。……おかげで、叔母上に、これだから男は、と冷たい目で見られずに済みそうだった。
「ほら、馬乳酒」
「うん。これを届けてきたら、俺たちも飯にしよう。ナタル、用意を頼む」
「はいよ、任せろ」
ナタルはいそいそと食料の入っているらしき袋を開けだした。
テントに行ってみると、声を掛ける前に、垂れ幕から叔母上の手だけが出てきて、さっと杯を奪っていった。
「叔母上の分も持って来た」
ニュッともう一度出てきて、杯を掴んで、またすぐに引っ込んでいく。かと思ったら、三度出てきて、あっちへ行けと振られた。……それで終わりだった。どうやら俺に公主の様子を見せるつもりはないらしかった。
俺はすごすごと腹心達のところに戻った。
俺はどれほど公主を怖がらせてしまったのか……。だけど、いったいどうすれば良かったと言うんだ。できるかぎりのことはしたつもりだったんだが……。
渡された馬乳酒を飲みながら、ぐるぐると考えずにはいられなかった。
「……なあ、スレイ。服を脱がせたのが悪かったのか、公主にものすごく怯えられるんだが、」
「なんだよ、大将、やっぱり、ぐぅっ」
俺が真剣に相談しようとしてるところに、ウォリが懲りずにからかってこようとして、両脇に居たリャノとナタルが、奴の腹に肘鉄を入れて黙らせた。「で?」とスレイが微笑を浮かべて促してくる。
「……どうしたら、いいかと」
「ちゃんと説明して、真摯に謝るしかないだろう。熱があったから、体を温めてやってただけなんだろう? 下心は微塵もなかったんだよな?」
「ない。それどころじゃなかった。死ぬんじゃないかと思ったんだ」
「だったら大丈夫だ。そのまま話せばいい。だいたい女性は、男の真摯さに絆される。信頼を勝ち得るには、愚直に行け」
スレイは「行け」といいながら、ぐっと杯を突き出した。女たらしの含蓄に満ちた助言に、俺は腹を決めて頷いた。
「わかった。次に叔母上が公主に会わせてくれたら、やってみる。……あ」
「なんだ」
「もしかしたら言葉が通じないかもしれない……」
「あー……」
スレイが曖昧に笑って黙り込んだ。リャノが、ぶふっと噴いた。
「エウル、スレイの言うとおりにしてたら、公主がニーナみたいになるぞ。それより、ホラムに聞けよ。言葉じゃなくて、態度でミミルを落とした男だ」
確かに、女と見れば誰にでもいい顔をするスレイにやきもきしているニーナの悋気は、たとえ婚約者だとしても少々目に余る。
「心外だな。俺が妻にしようと思ったのはニーナだけだし、誰彼かまわず口説いたことも、浮気だってしたこともない。俺はただ、女性の可愛らしさ美しさを素直に賛美しているだけだ。
リャノこそ、もう少し女性に愛想笑いの一つでもしろよ。無駄に怖がらせて、かわいそうだろ。
とは言え、俺もホラムがどうミミルを口説いたか不思議に思ってたんだ。なあ、口利かないでどうやったんだ? さすがに求婚は何か言ったんだろ? 何て言ったんだ?」
全員の視線を浴びて、ホラムはいくらか眉根を寄せた。ホラムはめったに口を利かない。今も、黙って、黙って、黙った挙げ句、ふん、と溜息をついて、軽く手を振り払った。奥方とのあれこれは、語る気はないらしい。
まあ、でも、ちょっと見てれば、寡黙で物静かなホラムが、生真面目で信頼に足る男だというのはわかる。
リャノだって、体が大きくて強面で、喧嘩となればいの一番に躍り出るが、誰にでも暴力を振るうような男じゃない。自分より弱い相手には、小指一つ振るわない奴だ。きっと、誰よりも良く守ってくれる夫になるだろうに、リャノがもてないのは、女に見る目がないとしか言えない。
そう。女の考えることなんて、さっぱりだ。
「やっぱりここは、パタラ様に聞くしかないんじゃないの?」
……叔母上か。呆れた目で見られそうだが、それしかない気がしてきた。
珍しくウォリがまともなことを言って、みんなも俺も、結局それ以外にあるまい、ということになったのだった。