アニャン、怒る
「エウル、耀華公主はずいぶん怖い思いをしたことだろう。体に障りがあるといけない。休ませてあげなさい」
「はい」
エウルは立ち上がってやってきて、私の前に立った。強ばった顔をしている。さっき、あんな力を使ったせいだろうか。……王は、エウルはあの力を使えば使うほど正気を失ってしまうのだと言っていた。
心配になって私から近付こうと一歩出た瞬間、腰をさらわれ、抱き上げられていた。勢いよく持ち上げられて、とんっと胸がエウルの肩の辺りに当たり、とっさに彼の首にかじりつく。
そのままのしのしと歩きはじめてしまい、王に挨拶する暇もない。しかたなく私は、エウルの背中越しに、精一杯の礼をした。
エウルはどうしてしまったんだろう。もしかして、前のようには笑ったり話したりできなくなってしまったんだろうか。
思い悩んでいるところに、エウルが急に立ち止まり、ちょっと後ろにのけぞりそうになって、あわてて強く抱きつきなおした。
私の肩を押さえてくれていた右手が離れていく。抱き上げてくれているのは、腰を抱える左腕だけになってしまって。……ああ、とうとう私のことがわからなくなってしまったか、いらなくなってしまったんだ。
だけど、絶対、離れないんだもの!
私はぎゅうううとしがみついた。エウルがどうなってしまっても、側に居たい。
エウルの体が、ゆっくり上下に大きく揺れた。
「えっ、おい、エウルッ」
スレイの泡を食ったような声が聞こえたと思ったら、あっち側に襟首をつかまれて持ち上げられたスレイの顔が現れた。
「ちょっと待て、俺は」
「うるさい、黙れ、おまえは俺のものなんだから、おとなしくついてくればいいんだ」
あれ? 言葉はちゃんと話せるようだ。
エウルはスレイを吊り上げるようにして歩きだした。けれど、すぐにまた唐突に立ち止まった。それで、ぼそっと呟く。……心なしか不機嫌に。
「……それとも、嫌か」
「嫌なわけ、ないだろう」
あ、エウルの雰囲気が、ぱあって明るくなった。顔には出てないけど。喜んでいるみたい。
ということは、正気も失ってないのかな。というか、普通に見える。
そして、エウルは今度は猛然と歩きだした。
「だから、ちょっと待てよ、離せって! 歩きにくいって言ってるだろう!」
「駄目だ、おまえは放っておくと、ろくなことしない」
後ろからついてきているエウルの腹心の面々が、目配せしあって笑っている。
どうやら心配いらないみたいだ。いろいろ手荒なのは、照れ隠しなのかもしれない。
腹心達は、私にも目配せしてくれて、私も二人の仲直りを邪魔しないように、そっと小さく頷いてみせた。
スレイを腹心達用の天幕に放り込み、「面倒を見てやれ」と腹心達に言いつけて、エウルは私達の天幕へと帰ってきた。
炉の側の椅子に、そうっと下ろされ、なぜかエウル自身は敷物の上に座った。視線は落としたままで、私と目を合わせようとしない。
ふと彼は、私の膝に目を留めて見開いた。ざっと私の様子をみまわし、焦ったように顔を上げ、聞いてくる。
「怪我は。痛いところはないか?」
「あ、うん、大丈夫だよ」
スレイのお父さんに脅されはしたけれど、よく考えると痛い目にはあわされなかった。本当に、あの人に私を傷つける気はなかったのだろう。それは、わかる。旦那様のお屋敷で私に暴力をふるった人達とは違っていたもの。
なんとなく、あの人があそこで言ったことは、あれですべてではないのだろうな、と思った。
エウルを王にしたいと思っていたのは、きっと本当。王に忠誠を誓っているのも、本当。……それに、スレイを助けようとしていたんじゃないだろうか。酷くなじっていたけれど。
全部の言葉がちゃんと理解できたわけじゃないから、違っているかもしれない。それでも、あの人の態度は、悪そうな顔で語っているときでさえ、どこか真摯だった。
そんなことを思い出しながら、私はぱたぱたと膝に付いた土と草を払った。見れば、袖も汚れていたから、そっちも。ちょっと掌が痛かった。少しすりむいているのかもしれない。
これは、あの人にやられたんじゃなく、スレイに庇われて投げ出されたときにできたものだ。見ればエウルが心配するから、何でもないふりをした。
なのに、どうやったのか察したエウルに、がっと手をつかまれた。じっくり検分される。
エウルは立っていって、水と布を持って戻ってきた。テーブルに器を置いて、その中に私の手を入れて慎重に洗ってくれながら、ぼそぼそと話しはじめた。
「……すまなかった。痛い思いをさせて、……怖い思いをさせて」
「こんなの痛くないよ。そんなに怖くなかったよ」
スレイがすぐに来てくれたし、エウルが絶対的な力で守ってくれようとしているのがわかったから。
エウルは最後に手を拭ってくれると、布をテーブルの上に置き、背を正して真っ直ぐ私を見た。
「こんなことになってまで、気を遣って言ってくれなくていい。耀華公主は、何でも我慢しすぎだ。……俺が怖いだろう? 俺は公主まで傷つけようとした。……いや、壊そうと、した。
よく考えてくれ。そんな男と、これからずっと生活していけるのか? 寝ても起きても側に居るんだぞ。……側に居るだけじゃない。側に居れば、俺はあなたを抱く。……夫として。
……俺は、あなたに無理強いしたくないんだ。……いや、そうじゃないな。隠しようのない態度で拒否されるのが怖くて、見たくないんだ。だから、遠慮せずに正直に言ってほしい。その方がありがたい」
エウルは、とつとつと真剣に話していた。何を言っているんだろう、ということを。
「もう、俺と居るのが無理なら、はっきり言ってくれ。俺が絶対になんとかするから。別れても、閻に残ってくれるのなら、生活の保障ができるようにするし、帝国に帰りたいというなら、責任を持って帰すと誓う」
本当に! 何を言っているんだろう! この人は!!
かーっと頭に血がのぼった。
『馬鹿っ』
罵らずにはいられないのに、私はこちらの罵り言葉を教えてもらってなかったのに気付き、帝国の言葉で怒鳴りつけた。
エウルが、きょとんとする。それがまた憎らしくて、拳を丸めて、屈んで、敷物に立ち膝になっている彼の胸に叩きつける。
どんっ、と当たった。当たっても、エウルは痛そうな顔もしないで、もっときょとんと私の手を見てる。私が怒っているのも、よくわかってないみたい。だから、反対の手も振り上げて、もう一回、どんって叩いてやった。
「『馬鹿』は、頭が悪いってこと!」
「え、……あ、うん」
そうなんだ、だからそれがなんだろう、という顔をしたので、私は怒りにまかせて、次の拳を叩きつけた。
「なんにも、なんにも、わかってない! 『馬鹿』! 私が帰っていいのかい!? そうなのかい!? ずっとずっと、帰りたいって願って生きてきたんだよ!! 帰れるなら、帰りたいよ!!」
「うん、だから、帰してやる。何も心配しなくていい、俺が、」
『馬鹿っ、馬鹿馬鹿馬鹿っっ』
また嫌なことを口にしようとしたから、ぼかぼかと殴りつけた。
「だけど、帰りたくないんだよ!! 今は、エウルと会えなくなるのが嫌だから、帰らないんだよ!! エウルが家族になってくれるって言ったんだよ!! ここが私の家になるんだって、思った、のに」
喉が詰まって、目頭が熱くなり、涙がぶわってあふれだした。なにもかもが我慢できなくなって、うあ~、と泣き声がもれる。
『馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿~っ』
「こ、公主、すまない、俺が悪かった」
エウルが焦った顔で、がばっと私の頭を抱き込んだ。
「帰らないでくれ。俺が確かに『馬鹿』だった。何にもわかってなかった。勝手なことを言った。俺が卑怯だった。最低なことを言った。すまない。一緒に居てくれ。一緒に居たい。あなたがいなくなったら、生きていけない」
「生きていけなくないくせにぃ~」
「いや、本当だ。あれだけ、公主がいないと俺はロムランの力でやらかすと言われておいて、公主に愛想を尽かされたら、取り返しの付かないことになる前にと殺されるだろうし、あなたを帝国に帰しても責任を取らなければならないし」
「えっ!?」
「どうせあなたを失ったら、生きる甲斐もない。辛い気持ちを抱えて生きていくより、さっさと死ねるなら、ちょうどいいと思ってた」
それって、命懸けで私の望みを叶えようとしてたってことじゃないだろうか。
「やっぱりエウルは『馬鹿』だぁ……」
さっきとは違う涙が出てきた。
なんでエウルは、底抜けに馬鹿みたいに優しいの。
彼が愛しくてたまらなかった。
間に挟まれてしまっていた腕を伸ばして、彼の背にまわす。
「頼む。『馬鹿』な俺の妻でいてくれないか」
尋ねているくせに、腕は、私を離さないとばかりに、強く抱きしめてきた。
「……はい」
私も離れる気はないのだと――彼の妻でいたいのだと、できるかぎりの力を込めて、彼を抱きしめ返したのだった。




