エウル、誤解を恥じる
俺は公主に悟られないように、指先だけ振って、オーウェルを追い払おうとした。普通の感覚の持ち主なら、こんなことをしなくても、抱きあっている新婚夫婦の天幕に長居するはずはないのだが。
「ええ。私とて、そうしたいのはやまやまなのですが、パタラ様に、なるべく長く居座れと命じられてまして」
オーウェルはわざとなのだろう、ひそめるどころか声高に話した。そのせいで、公主が我に返って、俺の胸元から顔を上げ、あわただしく涙をぬぐいはじめる。
まだまだ抱きしめていたかったのに。俺はオーウェルを睨みつけたが、どこ吹く風だった。それどころか、勝手にずうずうしく公主に話しかけはじめる。……俺のわからない言葉で。
『公主、埋めようとしたのは、何の種ですか? ここでは育たないですが、好きな物なら、帝国から取り寄せます』
『いいえ、種じゃありません。あれは食べ物だったんです』
涙を拭き終わった公主は、苦笑して手を振った。
『こちらに来る道中の世話役が、移動中にお腹が空いたら食べるようにと、持たせてくれたのです。……食べる暇もなく、そのままになってしまって。どうも悪くなってしまったようだったので、捨てようとしたのですが、犬達が欲しがったものですから、彼らに食べられないように、埋めてしまおうと思ったのです。
でも、結局、犬達は食べてしまって。あの子達、お腹をこわしたりしないでしょうか? 心配です。エウルに伝えていただけますか?』
オーウェルが、俺に顔を向ける。
「エウル様、あれは種でなく、世話役が軽食として持たせたもののようですね。
もう食べられなくなったと思って、捨てようとなさったそうです。ですが、犬達が欲しがったので、埋めてしまおうとしたと仰っています。悪くなった物を食べて、犬達がお腹をこわさないか、心配してらっしゃいます」
「世話役? 嫁入りの道中のか?」
「ええ、そうみたいですね」
公主は朱塗りの瓢箪と小袋を取り出して、オーウェルの方へ差し出した。
『これを綺麗に洗った後なのですが、帝国にツテがあるなら、世話役に返せるよう、取り計らっていただけませんか。持ち合わせのなかった私に、ご自分の物を譲ってくださったようでしたので』
『承知しました。預かります』
『あ、あの、まだ、綺麗にしてなくて』
『こちらでやります』
『……そうですか。では、お願いいたします』
オーウェルは丁寧に受け取った。
「公主は何と言っている?」
「借り物なので、返したいと。そのツテがあるかと尋ねていらっしゃいます。どうも、間に合わせで個人の物を持たされたようです」
……好いた男のものではなかったのか。
公主はといえば、ほっとしたような顔をしている。とても、好いた男の物を手放す女の顔ではなかった。
いつだったか、「帝国に帰してやる!」などと叫んだことが思い出され、俺はなんとなく、誰からも目をそらした。
……恥ずかしい。とんだ思い違いだった。なのに理不尽に公主を責めてしまったのか。申し訳なくて、いたたまれなかった。
「あれは、チー……入れ替えたものだったのでしょう? もっとも、たとえ多少悪くなった物を食べたところで、犬なんぞは腹をこわしたりしませんしね。
公主を外へお連れして、犬達を見せてやったらどうですか。安心なさると思いますし、二人きりでいらっしゃると、公主に無理ばかり強いることになりますよ」
最後に、何とも腹立たしい目つき――しかたないものを見るかのよう――で言われて、ムッとした。
俺が何か言い返す前に、奴はにこやかに公主へと話しかけた。
『パタラ様は、公主の親代わりになりました。なので、今日明日はこちらに来られないです。
結婚式から数えて三日より前に花嫁の母が来るのは、連れ帰る意思を示します。……それとも、パタラ様を連れて来ますか?』
『いいえ! いいえ!』
公主は強く何度も横に首を振った。叔母上とか三とか聞こえたから、連れ帰りに来るか尋ねたのだろう。……まったく、冗談じゃない。
立ち上がって、もう帰れと、オーウェルに手を振る。奴もようやくおとなしく席を立った。
『公主がそう言っていたと、パタラ様に伝えます。きっと喜びます。では、これで失礼します』
公主のはにかんだ様子に、今のはなんとなくわかった。俺は彼女に手を差し伸べた。
「公主、エニとマニの様子を見に行くか?」
「はい、行く!」
俺の瞳と同じ色の耳飾りを揺らし、公主は溌剌と笑んで、俺の手を取った。
「エウル、お帰り!」
雪がちらついている外から天幕に駆け込むと、あたたかな空気に包まれた。公主が炉の前の椅子からさっと立って、駆け寄ってくる。
帽子を脱ぐと、毛の所に、落としたと思った雪が、まだくっついていた。公主が目を丸くする。
「『雪』が降ってきたんだね。どおりで寒いと思った」
「『ゆき』? ああ、これか。雪、だ。雪」
「ゆき、ゆき、ゆき……」
公主がぶつぶつ呟くのと一緒に、俺もあちらの言葉で、『ゆき』と舌に馴染ませる。
俺が帝国語を話せるようになるより、公主の方が上達が早かった。短い夏が過ぎ、秋が深まる頃には、……叔母上そっくりの口調に仕上がっていた。
少し前まで、あどけなさの残る容貌で、舌足らずに話していた姿は、本当に可愛かった。黒目がちの瞳で、言葉が合っているかどうか不安そうに、じっと上目遣いに見上げられると、言葉を教えるより、他のことをしたくてたまらなくなって、密かに困った。
今だってもちろん、……いや、今の公主は、だいぶ肉が付いてきて、体が女性らしい丸みを帯びはじめて、まるで花開く寸前の白い蕾のようだ。
棒きれのように痩せ細っていても損なわれていなかった愛らしさが、臈長けた美しさ――叔母上曰く。洗練されて上品な、て意味らしい。たしかに公主は帝国風の上品な面立ちだ――へと変わってきていて、前以上にドキリとさせられる。
どんどん美しくなっていく公主が、誇らしい。夫として、彼女を飢えさせず、寒さに凍えさせず、明日の生活に不安を抱かせることもなく、やっていけているのだから。
公主が、そっと俺の袖を触り、眉を曇らせた。
「とても冷たいね。寒かったんだねえ。はやくストーブにあたりなさいな」
ぐいぐいと袖をひっぱる表情は、この上なく心配そうだ。……なのに、口調が叔母上そのものなので、時々、というか、常時、残念な気持ちになる。
いや、可愛いんだが! こんな可憐な少女が話す口調ではないと思うのだ。
俺だけでなく、幼い頃から叔母上に叱られて追いかけ回された、腹心や兄弟や従兄弟達も、公主の話し方に、陰で、「うへえ」とぼやいて笑っている。
従姉妹達や兄嫁達なんか、「この子は筋がいいよ。第二のパタラ様になる日も近いね」と、ニヤリと笑うのだ。
まさか公主にかぎって、子連れの母熊みたいにはならないと思うが、公主の叔母上への慕いようといったら、母犬の乳を追う仔犬そのものだ。
……従姉妹達や兄嫁達の主張が正しい気がしてきたぞ……。
「なあ、叔母上、公主には、もっと楚々とした口調が似合うと思うんだが」
公主に連れられて炉の傍の椅子に座り、向かいで布を籠に片付けている叔母上に言ってみる。どうやら、公主に刺繍を教えていたようだ。
公主は俺の後ろにまわって、ぱたぱたと背に付いた雪を払ってくれてから、帽子を壁に掛けに行ってくれた。
「そうだね。まあ、若い女の子の口調じゃあないね」
戻ってきて、隣に座った公主は、不安そうに尋ねてきた。
「私の話し方、おかしいかね?」
……うん、おかしい。が、なだめるように、俺はその肩を抱いた。
「ぜんぜんおかしくない。公主は、すっかりこちらの言葉がうまくなったな」
叔母上が、公主に見つからないように、ほらね、という感じに肩をすくめた。……そうなのだ。多少変でも、一所懸命な公主に、そんな細かいことまで要求できない。
……まあ、たぶん、そのうち、どうにかなるだろう。片言だった子供が一人前に敬語を使えるようになるように。
「雪は積もりそうなのかい?」
叔母上は、話題を変えた。
「ああ」
「じゃあ、狩りが催されるんだね。いつになったんだい?」
「三日後だ」
地面が雪に覆われると、獣の足跡が残り、追いやすい。それで冬場は、大規模な巻狩りが王の命で行われるのだ。
「男達は、今か今かとそわそわしてたもんねえ」
「親父殿から正式にお達しが出たものだから、皆、弓矢やナイフの手入れをしに天幕に戻った」
叔母上が、くつくつ笑った。そうして立ち上がる。
「じゃあ、私は帰らせてもらうよ。公主、刺繍の続きは、また明日一緒にやろうね」
「はい。お願いいたします。ありがとうございました」
公主もぴょこんと立ち上がって、叔母上の見送りに行く。その後を俺もついていった。
未だ、スレイの一家を襲った賊は見つからない。なので、俺達は親父様――王――の直属の集団に留まり、厚い警護の内に居る。
外には護衛も居るが、帝国の皇帝の娘である公主にとって、いつ誰がどんな敵になるかわからない。そこで、俺が共に居られない間は、叔母上が必ず公主に付き添ってくれているのだった。
元々叔母上は、公主がこちらで生活するのに困らぬように、この先ずっと付き従う予定ではあったのだ。それを、親代わりとなって、仲睦まじく過ごせているのは、嬉しい誤算だ。
その他にも、腹心達が秋に結婚し、ミミル以外の侍女も増えたし、従姉妹達や兄嫁達も公主と親しくしてくれている。彼女達といると、俺には見せない顔で笑っているのを見かける。彼女が着実にこちらに馴染み、世界を広げているようなのに、ほっとする。
……そうであっても、公主を一人で出入り口付近に立たせるわけにはいかないのが、現状だった。
叔母上を隣の天幕に見送り、炉の傍らに戻って、火にあたる。すると公主に尋ねられた。
「かり、なんだい?」
「男達が弓や狩り棒を持って、動物を殺しに……捕まえに行く」
「動物を捕まえる……、ああ、『狩り』!」
それからしばらく俺達は、狩りについて、閻と帝国の言葉で語りあったのだった。




