エウル、公主の支度を待つ
「こっちだよ、エウル! ぐずぐずしてないで、早く連れてきておくれ!」
外に出ると、叔母上が、空気をかきわけて俺達を引き寄せてしまいそうな勢いで、おいでおいでと手を振っていた。
婚姻の儀のために髪を結い直すから、すぐに連れてこいと言われている。二つに分けて編んだ、既婚者の形にするのだ。
……俺の横に居ればいいなどと言ったばかりで、公主を一人にするのは矜持が許さない。口にしたからには、男たるものそのように振る舞うべきだ。……たとえ言葉が通じてないにしても。
俺は女だけの集まりとはわかっていつつ、公主を抱いたまま、しらばっくれて中に入ろうとした。
が、垂れ幕をめくり上げて、次々と義伯母や義叔母、既婚の従姉妹達に、兄や従兄弟の嫁さん達が顔を出して、ぎょっとして立ち止まった。そろってニヤニヤしている。
「おやまあ、本当だ! 馬にしか興味なかったエウルが、女の子抱えてるよ!」
「かわいくってしかたないんだってぇ?」
「鼻の下伸ばしちゃってー」
「ほら、後生大事に抱えてないで、その子をこっちへお寄こし! 髪を結い直してやらなきゃならないんだから」
「あんたの妻になれるようにね」
「なにも取り上げようっていうんじゃないんだから、ちょっとの間、我慢して待っておいでよ」
「べ、べつに、俺は」
息を吐く暇もない口々の攻撃に、口ごもったが最後だった。わっと複数の腕が伸びてきて、ろくに反論もできないうちに、公主を攫われてしまった。
腹心達が、後ろで笑いたいのを我慢している気配があった。俺は振り返らずに、さっと下ろされてしまった垂れ幕を睨んで佇んだ。
「よう、エウル! 見違えたぞ!」
「エウル兄!」
陽気に声をかけられ、俺は顔を上げた。
「ハスクート! ハシェル!」
友人と弟、それに従兄弟達が、そろってやってきて、祝い言葉と一緒に、ぽんぽん体中を叩かれた。
「おかえり、エウル兄! 無事で良かった!」
「ああ、おまえも。何か変わったことは無かったか?」
「あったに決まってるじゃん! 酒やごちそうを用意するのに、大騒ぎだったよ。俺もさんざん、馬乳酒作るの手伝った」
ハシェルが飽いた顔で、かきまぜ棒で馬乳酒を突く仕草をするのを見て、誰もが笑った。
ハスクートがニヤリとして、顔を寄せてきて囁く。
「攫ったその日に手を付けたんだって? 毎日二人きりで草原へしけこんでいるって聞いたぞ?
そのうち、とち狂って牝馬に求婚するかと思ってたおまえがな! ちゃんと正気か? なんか怪しい術でもかけられてないか?」
最後は、腹心達に聞いている。何事もありません、と腹心達はそろって首を振った。
ロムランの血を引く子供が、公主の腹にいるかもしれなければ、子が生まれるまでは、殺される恐れが減るだろうと流した噂が、ちゃんと広まっているようだった。
ただ、実際に他人の口から聞いてみると、なかなか衝撃的なものがあった。
閻では伝統的に、嫁は攫ってくるものという認識がある。相手が言葉も通じない異民族となれば、なおさらだ。昔は遊牧ならではの機動力を生かした、略奪が普通だったのだ。
もちろん、子を産ませるために攫ってくるのだから、その日のうちに犯す。子さえできてしまえば、身重で逃げ出せなくなるし、生まれてしまえば、なし崩しで居着くしかなくなる。
そんなことばかりしていると争いの元になるので、今では手順を踏んで婚約を申し込むようになっているのだが。
つまり俺は、昔話に等しい蛮行を、異民族の嫁を得る正しい作法だとばかりに行った、ということになっているのだった。
自分で噂を流してくれるよう親父様に頼んでおきながら、あまりの酷さに笑顔が引き攣りそうになった。
毎日、「馬を見に行く」のに付き合ったり、乗馬を教えに出掛けていたのも、真実味に拍車をかけたのだろう。
男女が二人きりで、人目の届かない草原に出掛けるというのは、よろしくやっている以外にあり得ない。
天幕というのは、普段、放牧で散り散りになっている同族の交流拠点で、公の場だからだ。見かけたら、とりあえず尋ねて、情報交換をする。人々が入るのを遠慮するのは、まだベッドのまわりに目隠しの布を張られている、新婚夫婦の天幕ぐらいなのだ。
「公主に竜の血の力などない」
それを一番、誰もが気にしているだろうから、はっきりと言っておく。
「そっか。まあ、おまえなら、ロムランの力があるしな。その点は心配ないか。じゃあ、よっぽど美人なのか?」
ハスクートが興味津々な様子で聞いてくる。弟や従兄弟達もだ。
「いや、美人というか、可愛いタイプだ」
正直に答えたら、どっと笑われた。腹心達も笑っている。
「いや、でも、兄さんのことだから、もしかして、義姉上、仔馬みたいな顔してるとか?」
「エウルだもんな。それ、あり得るな!」
「あんまりがっついて、嫁さんの体壊さないように、気をつけろよ」
「小さいお人だったもんな。あの体格差じゃなあ、痛がられてないか?」
「おまえ、本気で『蛮族』すぎるぞ!」
「また後で、嫁さんの顔拝みに行くわ!」
弟と従兄弟達は好き勝手に言うと、「用意の手伝いを仰せつかっているから、また後でな!」と、去って行った。
残ったハスクートが、からかう気配を引っ込め、尋ねてきた。
「あの耳飾りは買ったのか?」
「ああ。俺の目の色そっくりだって、みんな言うから」
「もう贈ったのか?」
「いや、まだだ。婚姻の儀が終わったら贈るつもりだ」
「そうか」
そして、黙る。真剣な表情で俺を見つめてきた。
「……こんな時に言うことではないが、ルツのことは、俺も残念に思っている。スレイのことも」
俺は黙ったまま見つめ返した。
数ある支族の中で、最もこの縁組に反対していたのは、帝国と大きく境界を接している南の支族、ハスクートの血族だった。
「王にも呼ばれ、詮議を受けた。王の決定に叛意はないとお伝えした。
一昨年の雹害で、うちは一族の者も家畜もだいぶ失っている。王の姪を妻にもらうのも、持参金として自然な形で援助を受けるためだ。その王に背くなどあり得ない。
婚姻に反対したのは、帝国に対する積年の恨みによるものだ。特にうちは、どこよりも帝国の脅威にさらされてきたのは知っているだろう? あの雹害も、皇帝の術ではないかと言う者がいるくらいなんだ。
そんな血筋の女を、竜の力を抑えるためだけに、おまえが娶らなければならないなんて。次期王と期待されてきたおまえが、だぞ。それで候補を降りるなど、感情的に許せることではなかった。
……だが、だからこそ、直接皇帝の怒りを買うようなことはしない。王の意に反することも。女子供を殺そうとする卑怯な者もいない。
どうか、それを信じてほしい」
俺も、ルツ一家を襲った犯人として、ハスクートを疑わないわけではなかった。あの商人を寄こしたことも、下調べの一環だったとしたらと、勘ぐったのだ。
それでも、その可能性は低いだろうと考えた。理由は、あの耳飾りを「贈られなかった」からだ。自分で買って、自分で贈ったらどうだ、と言ってきた。それは、いかにも俺の知っているハスクートらしい。裏切るような真似をしておいて、何食わぬ顔でここに留まれる恥知らずではないはずだ。こいつがここに、今、こうしている。それ以上の潔白の証明は無いように思えた。
「ああ、わかっている」
俺は力強く、彼の腕を叩いた。
「俺は、客人の身分で手が空いている。何かあったら言ってくれ、エウル。手を貸す」
「ああ、ありがとう。心強い」
天幕の中から、叔母上が俺を呼ぶ声が聞こえた。
「じゃあ、また後で」
それを機に、ハスクートも去って行った。
叔母上が不機嫌に顔を覗かせた。
「エウル、居たのかい。返事をしてくれないと、居るかわからないじゃないか」
「悪かった、叔母上。人と話していたもんだから。それで、公主の用意はできたのか?」
「ああ、できたよ。それと、はずした髪飾りを、披露目のために、誰か式場まで運んでおくれ」
「承知した」
叔母上が公主を呼ばう。そろそろと歩んできた彼女は、垂れ幕の陰で、上目遣いに俺を見上げた。
公主は豊かな髪を真ん中で二つに分けて、編んだ髪を耳の後ろで輪にし、花を象った簪を品良く飾っていた。可憐で見とれる。耳元で大ぶりの翡翠が揺れて輝いた。
化粧でいつもより強調された目元が、なんとも言えない媚びを振りまいていた。その唇もだ。ほんの少し開いただけで、その奥にある舌を絡め取ったら、どれほど甘いだろうと、考えずにいられなかった。
これを、誰も彼もに見せるのか? 冗談じゃなかった。
「……叔母上、赤い布は? あちらの高貴な女性は、人前で素顔をさらさないと聞いている。顔を見られるのは、恥なんだそうだ。せめて式の間は必要だ」
「わかっているよ。無遠慮な視線にさらされ続けるのも可哀想だしね」
叔母上は手にしていた布を、ふわりと公主に被せた。帝国風の時より、前を短めにして。顎の先が見えるか見えないかの位置で、裾の精緻な刺繍が揺れる。昔、商人に見せてもらった、遠い異国の、神の子を産んだ女の像を思い出した。
「これでどうだい。あんまり前が長いと、こっちの髪型では布が近くて、息苦しいからね」
うん。こちらの方が、人間ぽくて愛らしい。
「さすが、叔母上だ」
俺は大満足で、公主に手を差し伸べた。




